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文  学

五百木 飄亭
(いおき ひょうてい)
五十崎 古郷
(いかざき こきょう)
今井 つる女
(いまい つるじょ)
石田 波郷
(いしだ はきょう
)
井手 真棹
(いで まさお)
内海 淡節
(うつみ たんせつ)
大島 梅屋
(おおしま ばいおく)
大原 其戎
(おおはら きじゅう)
奥平 鶯居
(おくだいら おうきょ)
臥牛洞 狂平
(がぎゅうどう きょうへい)
河東 碧梧桐
(かわひがし へきごとう)
栗田 樗堂
(くりた ちょどう)
坂村 真民
(さかむら しんみん)
寒川 鼠骨
(さむかわ そこつ)
篠原 梵
(しのはら ぼん)
高浜 虚子
(たかはま きょし)
種田 山頭火
(たねだ さんとうか)
富安 風生
(とみやす ふうせい)
内藤 鳴雪
(ないとう めいせつ)
中村 草田男
(なかむら くさたお)
夏目 漱石
(なつめ そうせき)
西村 清臣
(にしむら きよおみ)
野村 朱燐洞
(のむら しゅりんどう)
野間 叟柳
(のま そうりゅう)
波多野 晋平
(はたの しんぺい)
波多野 二美
(はたの ふみ)
久松 粛山
(ひさまつ しゅくざん)
正岡 子規
(まさおか しき)
松田 含芽
(まつだ がんが)
松田 方十
(まつだ ほうじゅう)
松根 東洋城
(まつね とうようじょう)
村上 杏史
(むらかみ きょうし)
村上 霽月
(むらかみ せいげつ)
  円月
(もり えんげつ)
 薫花壇
(もり くんかだん)
森田 雷死久
(もりた らいしきゅう)

森  連甫
(もり れんぽ)
柳原 極堂
(やなぎはら きょくどう)


文  学


五百木 飄亭

(いおき ひょうてい)
(いおき ひょうてい)
<五百木飄亭の歴史>

・五百木飄亭=明治〜昭和期の俳人、医師、新聞『日本』の記者、「日本及日本人」を主催、社会/政治活動家。
・明治3/1870年、温泉郡小坂村新場所で、松山藩士の長男として生まれる。本名:良三、号:瓢亭、別号:犬骨坊、白雲。
・明治18/1885年、愛媛県立病院付設-松山医学校に入学する。
・明治20/1887年、大阪に出て、今橋の町医者のもとに寄寓し、医務手伝いの傍ら勉学に励み、明治21/1888年、19歳で医術開業の免許を得たが、その志は「病を癒さんより国を癒すの医」たらんとするものであったという。
・明治22/1889年、上京して、旧藩主久松家の設立になる東京学生寮で、ドイツ語の勉学に励むとともに、正岡子規と文学を論じ、子規や新海非風らと交友を深めて、俳句や小説などに没頭する。
・明治23/1890年、徴兵に合格し、陸軍看護長に採用され、青山の近衛連隊に入営して、明治25/1892年まで軍隊生活を送る。
・明治27/1894年6月、日清戦争に召集、陸軍看護長として第五師団に従って各地を転々とする。その間、筆名「大骨坊」の名で「従軍日記」を新聞『日本』に連載し、好評を得る。
・明治28/1895年に帰国後は、政治に強い関心を寄せ、次第に文学から遠ざかる。同年、新聞「日本」に入社し、陸羯南と共に活躍する。
・明治29/1896年、近衛篤麿を擁して国民同盟会を結成し、篤麿のもとで「東洋」を発行し、対アジア対策を明らかにした。
・明治34/1901年、新聞「日本「の編集長となって、対外硬派として論を展開した。
・明治36/1903年、同社を退社し、桜田倶楽部同人として対露同志会に力を盡し、翌37/1904年の日露戦争開戦に影響を与えた。
・明治38/1905年9月5日、日露講和条約議定書の調印に対して、東京日比谷に国民大会を開き、講和条件不服、条約破棄の世論を呼び起こした。
・大正3/1914年、国民義会を結成し、翌、大正4/1915年、大隈内閣の命をうけて満州に入る。
・昭和4/1929年、政教社に入って、「日本及日本人」を主宰した。
・昭和12/1937年、没、享年68歳。墓所は、東京都港区-青山霊園にある。

<五百木飄亭の晩年>

・五百木の晩年は、政治的には不遇であったが、句作ではかえって秀吟を多く残している。新聞『日本』に日清戦争の「従軍日記」を寄せる一方、俳誌『鶏頭』に『句日記』を連載、秀吟を残した。遺著に『飄亭句日記』がある。
・『ほとゝぎす』第4号に、正岡子規が「瓢亭の文学に於ける一種の天才あり・・」と書いている。代表句「乏しきを 分かちつくして 除夜の鐘
」。

<五百木飄亭の句碑>

松山市日の出町の石手川沿いに、五百木飄亭「そゞろ来て 橋あちこちと 夏の月」の句碑がある。飄亭の生家がこの近辺にあったことに因んで昭和57/1987年11月に建立された。飄亭の句碑というのは極めて珍しい。すぐ横に、同時建立の子規句碑「新場処や 紙つきやめば なく水鶏」がある。



五百木飄亭の肖像


飄亭(左)子規(中)の句碑
松山市日の出町
石手川土手



五十崎 古郷
(いかざき こきょう)
(いかざき こきょう)
<五十崎古郷の歴史>

・五十崎古郷=明治〜昭和前期の俳人、石田波郷の師。
・明治29/1896年、伊予郡余土村(現、松山市余戸中)で、父-春次郎、母-ユキの4男として生まれる。本名:修、号:古郷。
・松山中学校の生徒の頃から文学志望で、大正5/1916年に中学校を卒業後、代用教員を勤め、後、台湾国語学校に学び、大正10/1921年、旧制松山高等学校に入学した。
・大正11/1922年夏、面河で水泳中に巌に背中を打ちつけて脊椎カリエスになり、ついで胸を患って松山の日赤病院に入院(後に妻となる看護婦-小倉キシエを知る)、遂に、松山高等学校を中途退学した。その後、京都・新潟などで仏門修行をしたが、体力の限界を感じ、大正14/1925年に故郷に帰った。その翌年、病気が再発し、病臥の身となる。
・昭和2/1927年頃から俳句を始め、一時、阿波野青畝の指導を受けたが、主治医である松山日赤の内科部長-今川七郎氏の紹介で、水原秋桜子に師事した。
・昭和3/1928年頃から本格的に俳句に取り組み、「古郷」と号した、この年、小倉キシエと結婚、二間の家を新築し「南山房」と名付け、また「志満園林」とも称した。
・昭和5/1930年、古郷を師と慕う、当時18歳の石田哲大を南山房で指導し、「波郷」という号を与えた。
・昭和7/1932年、『ホトトギス』に句をよせると同時に、水原秋桜子に師事し、本格的に句作に没頭する。
・秋桜子が『ホトトギス』を離脱、『馬酔木』を発足させたとき、門弟/石田波郷とともに『馬酔木』に移る。
・昭和8/1933年、『馬酔木』の第一期の同人となり、「松山馬酔木会」を結成、翌9/1934年、「渦潮」を創刊、地方俳壇の振興に努めた。
・昭和10/1935年、没、享年40歳。墓所は、は旧余土村出合の村営墓地にあり、墓碑銘は「古郷五十崎修」とのみある。
・石田波郷の師として知られ、没後に波郷編『五十崎古郷句集』が刊行された。



五十崎古郷の肖像
伊予郡新川(昭和2年頃)


今井 つる女
(いまい つるじょ)
(いまい つるじょ)
<今井つる女の歴史>

・今井つる女=大正〜平成初期の俳人、『ホトトギス』同人、日本伝統俳句協会の顧問、愛媛新聞「婦人俳壇」の選者、高浜虚子の姪(兄の娘)。
・明治30/1897年、松山市において、父-池内政夫(池内信夫の三男)の娘として生まれる。本名:池内鶴、高浜虚子(池内家の五男)は叔父にあたる。
・生後間もなく、一家で上京。4歳で父と死別し、池内政忠(池内信夫の長男)の養女となり松山に戻る。
・大正3/1914年、県立松山高等女学校を卒業。後、波止浜町長・今井五郎と結婚して今井姓となり、上京する。
・大正9/1920年頃から俳句を始める。高浜虚子や池内たけし(虚子の次兄の池内信嘉の長男)から俳句を学んだ。
・昭和5/1930年、星野立子の『玉藻』の創刊より参加する。
・昭和15/1940年に『ホトトギス』の同人となる。
・昭和20/1945年、波止浜町に疎開する。
・同28/1953年、愛媛新聞「婦人俳壇」の選者となり30年以上続け、愛媛の婦人俳句の普及と後進の指導に尽力した。この「婦人俳壇」選者は、娘の今井千鶴子に引き継がれ現在に到る。つる女の心は今も故郷の地に脈々と息づいている。
・昭和30/1955年、上京。同62/1987年、日本伝統俳句協会の顧問となる。
・平成4/1992年、没、享年95歳。

<今井つる女の句碑>

・萬翠荘の裏に、つる女の「 秋晴の 城山を見て まづ嬉し」の句碑がある。彼女は少女時代をこの萬翠荘のあたりで過ごした。そこに,彼女の米寿を記念して愛媛ホトトギス会と愛媛新聞社が、昭和59年10月28日にこの句碑を建立した。その除幕式でつる女は、「この辺りでよく一人遊びをしました。故郷といえば松山。松山といえばお城山。お城山といえばこの場所をおもいだします。この句は私の分身です。」と、声を詰まらせたという。


<つる女句集「吾亦紅(われもこう)>

・つる女の娘-
今井千鶴子が、今井つる女句集『吾亦紅』を出版している。この句集は、代表作を網羅し精選412句を収録している。編集・解説、今井千鶴子。



今井つる女の肖像


今井つる女の句碑
松山市一番町
萬翠荘裏



今井つる女句集
『吾亦紅』


石田 波郷
(いしだ はきょう
)
(いしだ はきょう)
<石田波郷の歴史>


・石田波郷=大正〜昭和期の俳人、五十崎古郷・水原秋桜子門下。
・大正2/1913年、温泉郡垣生村西垣生において、父-惣五郎、母-ユウの次男として生まれる。本名:哲大、号:波郷。
・小学生の頃から友人と俳句を作って遊んでいたが、大正14/1925年に松山中学に入学、4年生の時、同級生の中富正三(俳優-大友柳太朗)のすすめで句作を始め、二良・山眠と号した。ちなみに大友は、如煙・悠々と号していた。
・中学5年の頃、同級生と「きくらげ会」を起こし、同村の村上霽月の「今出吟社」に出入りし句作に励んだ。
・昭和4/1929年、同村の俳人-中矢秋葉を知る。
・昭和5/1930年、松山中学校卒業後、秋葉の紹介で余土村の五十崎古郷(秋桜子門)を訪ねて入門、古郷より「波郷」の号を与えられる。
・古郷の勧めで、水原秋桜子の『馬酔木
(あしび)』に投句、新樹集巻頭に5句入選したことが、彼の人生の進路を決定づけた。
・昭和7/1932年、波郷は、古郷が便箋29枚に書いた紹介状と路銀50円を持って、木綿絣の着物にセルの袴、その上にマントを羽織って上京した。上京後の波郷は、最初は秋桜子の下で『馬酔木』の事務を担当し、後に編集を担当。やがて、抒情俳句に新風を開き、秋桜子門の代表的俳人になった。
・昭和9/1934年、明治大学に入学。同10/1935年に『石田波郷句集』を創刊。
・明治11/1936年、大学を中退し、久保田万太郎を慕って句作に専念。同年、馬酔木新人会『馬』創刊、同人として加わる。
・昭和12/1937年、俳誌『馬』と『樹氷林』を合併して、俳誌『鶴』を創刊・主宰。
・昭和14/1939年、『鶴の眼』を上梓し、新興の無季俳句運動に同調せず、韻文(聴覚に一定の定まった形象を感覚させる一定の規則に則って書き表された文)精神に立脚した人間諷詠の道を辿り、中村草田男や加藤楸邨と共に、人間探求派と呼ばれるようになった。
・昭和18/1933年9月、召集令状が来て佐倉連隊に入隊し、同年10月のはじめに北支に派遣され、翌年の3月に左湿性胸膜炎を病み、昭和20/1945年1月に内地送還され、以後、闘病の生活が長く続き、入院回数7回、胸部手術をすること6回、入院生活通算5年1か月に達した。この間、懸命の句作を続け、療養生活の中に「生」のモラルを追求した『惜命』などの一連の作品は、絶唱に値するものであった。そのような情況のもとにあっても、昭和25/1950年から6年半、「馬酔木」編集を担当し続けた。
・昭和30/1955年、『定本石田波郷全句集』の業績で第6回読売文学賞。
・昭和44/1969年には、句集『酒中花』により芸術選奨文部大臣賞を受け、病床に栄光が届けられた。
・昭和44/1969年、没、享年56歳。墓所は、東京都調布市の深大寺にある。



石田波郷の肖像


石田波郷の句碑
松山市持田町
愛大付属小学校の東


石田波郷の墓
東京都調布市
深大寺


井手 真棹
(いで まさお)
(いで まさお)
<井手真棹の歴史>

井手真棹=江戸時代末期〜明治期の歌人、松山藩士、実業家秋山眞之・正岡子規の和歌の師。
・天保8/1837松山城下三番町において、松山藩士-西村清臣の長男としてで生まれる。本名:正雄、号:真棹
・和歌は、父-西村清臣に手ほどきを受け、後、上京して桂園派の僧-性海に師事し、松山へ帰省してからは「蓬園吟社」を設立、松山歌壇の第一人者となった。秋山眞之や正岡子規の和歌の師として知られる。
明治42/1909年、
、享年73歳。墓所は、松山市御幸町の長建寺にある。

<井手真棹と小説『坂の上の雲』>

・・
「歌なら井手先生のお習い」と母親がすすめた。井手先生とは、井手真棹(正雄)のことで、旧藩時代は藩の利け者として知られ、・・短歌結社をおこしてその主宰者になった。歌集には与茂芸園などあるが、とにかく松山の歌人のほとんどが、この結社蓬園吟社に属するほどにその門はにぎわっている。後年、子規もこのひとに歌を見てもらった。・・真之は少年の身ながら井手門下のひとりになり、中学の二年生のころ、古今調のふるめかしい歌を詠めるまでになっている。「春の野に 若菜を摘める 乙女子は なべて霞の 衣きるなり」、「世を捨てて 深山の庵の 寝ざめにも 友 ありけり 小牡鹿の声」(小説『坂の上の雲』)



井手真棹の墓
松山市御幸1
長建寺





内海 淡節
(うつみ たんせつ)

(うつみ たんせつ)
<内海淡節の歴史>

・内海淡節=幕末〜明治初期の俳人、松山藩士、勤王の志士、
・文化7/1810年、松山城下において、松山藩士-内海多次郎(三津御舟手)の子として生まれる。本名:愛之丞、号:淡節・相応軒ともいう。
・12歳で母と死別、その人となりは謹厚醇朴であった。勤王の志厚く、職を辞して京都に到り、東洞院四条に籠居し、時の到るのを待っていた。
・京都での籠居しているとき、俳諧を桜井梅室に学び、梅室の養嗣子となり、二条家に仕えたが、安政3/1856年、二条殿より宗匠に上げられ、文久2/1862年、昇進して花之本脇宗匠となる。
・天保14/1843年、芭蕉150回忌に剃髪し、剃髪記念句集『犬居士』がある。
・梅室が70歳余で一子/辰丸をもうけて、嘉永5年/1852年、83歳で没したので、淡節が辰丸を育て、内務省大書記官-村岡多門とするまでの世話をしたのち、桜井家に復帰させた。
・明治5/1872年、淡節は松山に帰り、二番町・出渕町・北京町などに移り住んで、黒田青菱・宇都宮丹靖ら地方の俳人を指導し、俳句の興隆に力を尽くした。
・淡節は、2歳年下の三津の大原其戎とは同じ梅室門で親交があり、其戎が建てた芭蕉塚(あら株塚)建碑記念俳諧集『あら株集』の序文を書いている。
・明治初年の旧松山藩は、旧藩主/松平隠岐守が、勤王佐幕論のうちにあって去就に迷っていた時、淡節は憂国報国の念やみがたく、ひそかに松山に帰り建白しようとして果さず、憂愁悶々の情を置くところなく世を憤り「雪かげや 扇の箔の 照くもり」の一句を詠んでいる。
・明治初年、旧藩主松平公は淡節の忠節を知り、旧臣石原量之助・青野次左衛門を遣わして、紋服一領・目録一封を下賜したという。
・晩年、松山に住むことわずか3年、広くは知られなかったが、精錬温雅な旧派の俳人であった。後妻-君子との間に生まれた米子(香畦女史)は、入婿-内海良大(太田姓)の妻となって後を嗣ぎ、次女-敏子(秋蘭女史)は、儒者-岡田東洲の妻となった。
・明治7/1874年、没、享年64歳。

<内海淡節の句碑/墓碑>

・石手川堤に淡節の「涼しさや 西へと誘う 水乃音」の句碑が建っている。淡節は最晩年、松山城下北京町に住んでおり、自宅の前の溝を水が東から西へ流れていた。次女の敏子はこの句の思い出を、"夏も盛りの明治7年7月29日(旧暦6月16日)「ちょっと筆を借せ」とおっしゃって、やっと読み下せるような字だったけれど、これだけお書きになって、すやすやとそのまま眠っておしまいになった。ちょうど寝ておられたお部屋の下を小川がさらさらと、水音をたてて流れていたのでね。"と語っている。
「西」は、西方浄土。淡節の辞世の句となった。この碑は、淡節のお墓であり、もとは立花橋の西側にあったが、松山市の石手川公園工事のため現在地に移され、その際に、墓碑の下の遺骨を掘り上げて東京の方へ移したと言われている。
 



内海淡節の句碑/墓碑
松山市柳井町1
石手川堤


大島 梅屋
(おおしま ばいおく)
(おおしま ばいおく)
<大島梅屋の歴史>

・大島梅屋=明治〜昭和初期の俳人、松風会会員、松山尋常高等小学校教員。
・明治2/1869、松山城下二番町10番戸で生まれる。本名:嘉泰、号:梅屋。
・明治27/1894に、松山尋常高等小学校の教員が主体で発足した「松山松風会」に最初から参加した。しかも、彼の家が子規・漱石のいた愚陀佛庵の南隣りであったこともあり、いわゆる愚陀佛庵日参組の一人として活躍した。
昭和6/1931、松山市玉川町73番地の自宅にて没、享年62歳。

<大島梅屋と『散策集』>

・子規の書きのこした『散策集』によれば、明治28/1895年9月21日、午後、「稍曇りたる空の雨にもならで、愛松・碌堂(極堂のこと)・梅屋三子に促されて、病院下(今日の東雲学園の下)を通りぬけ、御幸寺山の麓にて引返し来る」とある。子規その日の吟行に同行した。子規は愛松・碌堂(極堂)・梅屋の三人に促されて、「愚陀仏庵を出て、病院下をぬけ、御幸寺山の麓にて引き返した」とある。

<梅屋の長建寺門前の句碑>

・『子規・漱石と松風会』(松山市民双書)に、明治28年10月上旬、課題は「秋の暮・鳴子・星月夜・鹿・野菊」の五題で、投句者は10名、選者はもちろん、子規子選とある。そのうち、感吟10句というのがあり、その最後に「圧巻」と朱書して、この「門前に 野菊さきけり 長健寺 梅屋」の句がある。それが、今は長建寺門前の句碑そのものとなっている。いくら見ても見飽きぬ子規のすばらしい書である。それに、会稿の右肩の、「圧巻」の二字まで句碑に再現されている。「圧巻」とは、古く、中国の官吏登用試験で、最も優れた答案を、他の答案の上にのせた故事から、書物・催し物などの中で、一番優れているところのことをいう。

<雅号「梅屋」を読み込んだ子規の句>

・明治28/1895年10月12日、二番町「花廼舎」という料亭での子規送別会で、子規が松山松風会の同人17人の雅号を読み込んだ俳句の中に、「梅屋」の分として「梅紅葉天満の屋根に 鴉鳴(く)」がある。



大島梅屋の句碑
松山市御幸1
長建寺


大原 其戎
(おおはら きじゅう)
(おおはら きじゅう)
<大原其戎の歴史>

・大原其戎=江戸末期〜明治前期の伊予を代表する俳諧師、正岡子規の俳句の師。
・文化9/1812
和気郡三津浜村において、代々松山藩の御船手大船頭をつとめた父-大原沢右衛門(俳号/四時園其沢)、母-春の長男として生まれた。通称:熊太郎、後に沢右衛門を襲名。
・家業の太物商(綿織物を扱う店)は家人に任せて俳諧を楽しみ、父没後、四時園二世を継ぎ、万延元/1860年、三津浜の南-大可賀に芭蕉の句碑(あら株塚)を建て、その傍に草庵を結ぶとともに、全国各地からも句を求めて、記念句集『あら株集』上下二冊を刊行した。
・同年上洛して桜井梅室の門に入り、文久2/1862年、二条家から宗匠の免許を得、その後、郷里に帰って、蕉風(正風)俳諧を広め、松山藩家老-奥平鶯居とともに、伊予俳諧の双璧といわれた。
・明治13/1880年年1月、俳諧結社「明栄社」を組織して、全国でも3番目に古いとされる月刊俳誌『真砂の志良辺』を発行した。其戎は、南海の僻地にありながら、他誌に先んじて月次集録に力を入れ、句は、いわゆる「旧派」に属するものであるが、素直な句風であり、折句・冠付などの技巧的な試みはない。「俳諧の連歌」、特に「角力句合せ」に興じていたようであるが、「明栄社」発足の辞に「蕉翁の像前にて草紙の垢を洒ぎ、月の明りに邪路の迷ひを晴らし」とあるように、真実一路、芭蕉の俳諧の心を求めていった。

・明治22/1889年、没、享年76歳。墓碑が松山市大可賀の三津公園にある。其戎亡き跡は、その息子-其然が三世を継いだ。

<大原其戎と正岡子規>

・明治20/1887年、7月下旬、夏季休暇で松山に帰省していた正岡子規は、勝田主計の紹介で、親友/柳原極堂をともなって、三津の俳諧の宗匠/大原其戎の家を訪れた。子規の随筆『筆まかせ』に、「俳句を作るは明治二十年、大原其戎宗匠の許に行きしを始めとす」「余が俳諧の師は実に先生を以てはじめとす。而して今に至るまで未だ他の師を得ず」とあるように、大原其戎は子規にとって唯一の俳諧の師である。
・子規の初期の句が、『真砂の志良辺』の中に44句載っていて、その当時、本名の「常規」をもじって「丈鬼」と称した一青年子規が、一生の大事となった「俳句」の世界へ入ってゆく一つの過程をそこに見ることができる。
・其戎は色白で眉秀で、頤長く鼻筋が通って、痩せ形で背高くおだやかで世事にこだわらず、人との応接も礼儀正しく、その温容は長者の風格があったという。また、日常の生活はきわめて簡素、服装もたいてい十徳姿であったが、夏は藍地に二尺もあろうという大きな鯉を染めぬいた、その頃としては派手な浴衣を着て腰に渋うちわを差し、雪駄をチャラチャラと音たてながら人と静かに話したという。



大原其戎の肖像画


大原其戎の住居跡
松山市三津二丁目


大原其戎の墓碑
松山市大可賀
三津公園

9

奥平 鶯居
(おくだいら おうきょ)

(おくだいら おうきょ)
<奥平鶯居の歴史>

・奥平鶯居=江戸末期〜明治前期の伊予を代表する俳諧師、松山藩松平家筆頭家老。
・寛政5/1809年、松山城下において、松山藩の筆頭家老で藩政の首班に列した奥平家に生まれた。
本名:貞臣、幼名:隼、通称:弾正、俳号:鶯居・梅滴(庵)。
・はじめ地元松山の塩見黙翁に俳諧の指導を受けたが、後、桜井梅室、成田蒼?(そうきゅう)とともに、天保の三大家の一人といわれた江戸の田川鳳朗の門に入り、後に俳諧宗匠の中の偉才として、中央の俳檀にもその名を知られた。
・明治14/1881年、松山市湊町風詠舎は、全国でも7番目に古い俳誌『俳諧花の曙』を創刊し、鶯居はその選者となった。同誌は、初め週刊のち月2回刊行され、通巻60号まで続いた。
・藩政時代の奥平家は、今の県庁のあたりに本屋敷があり、その下屋敷は雄郡神社の北(小栗5丁目6-15)の辺りにあった。鶯居の俳号「梅滴庵鶯居」に因み、句集『梅鶯集』がある。
・明治23/1890年、没、享年82歳。墓所は、松山市道後湯月町の円満寺にある。

<奥平鶯居と大原其戎>

・奥平鶯居は大原其戎より3歳年上であるが、鶯居と其戎は、その当時の地方俳壇の双璧といわれ、其戎は、『俳諧花の曙』の売捌所をも引き受け、一方鶯居は、其戎の主宰する「明栄社」月並抜萃なども同誌に掲載している事から、両者の親交のほどが偲ばれる。



奥平鶯居の墓碑
松山市道後湯月町
円満寺


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臥牛洞 狂平
(がぎゅうどうきょうへい)
(がぎゅうどう きょうへい)
<臥牛洞狂平の歴史>

・臥牛洞狂平=江戸時代の美濃派の俳人-各務支考(ががみしこう)の門弟で、松山を中心に活動した俳人で風早地方俳壇の指導者?
・生没年不詳(江戸時代)。
・道後の
円満寺にある「仮名詩碑」は、臥牛洞狂平が、蕉門十哲の一人・各務支考の25回忌に当たる宝暦5年(1755)2月に、追善仮名詩を作り建てた碑である。狂平は、支考の門人で、風早地方俳壇の指導者といわれているが、詳細はわかっていない。詩文の中にある「蕉下獅子菴(しょうかししあん)」は支考のこと。
この仮名詩は、新体詩の原点ともいわれてる。これら仮名詩碑は、宝永7/1710年、支考が、京都東山-双林寺に建てた芭蕉碑と、寛政2/1790年、支考の60回忌に、紀州藩の風悟が同じ寺に建てた支考碑の3基しかなく、きわめて珍しい詩碑である。碑の裏側にある「維石不言(これ石言わず)謎文以伝(なぞぶみもって伝ふ)の8文字は、京都の仮名詩を模したものであるが、「謎文」の意味はわかっていない。
・さらに狂平らは、宝暦13/1763年に、支考の33回忌の追善法要をこの円満寺で営んでおり、その後、それらのいきさつや句作を集めた俳諧選集『きさらき』(各務支考の追悼句集=風早近辺の俳人の句を集めている)を編集・刊行するなど、美濃派の俳句の普及に尽力した。
・支考の33回忌のとき、江戸の二六庵竹阿(小林一茶の師)も来遊していて、狂平のこの挙をたたえて、一文を草し、「桜は碑に高く碑はさくらに名高し」と前書きして、「此道の ひとへにしたれ 桜かな」行脚僧竹阿の句を残している。また、『きさらき』のはじめには、枝垂桜の下にこの碑を画いて、「右碑、伊予松山城東温泉上、円満寺本堂前糸桜下ニアリ」とある。その有名な糸桜は枯れ、碑も庭内の池のほとりに半ば埋もれていたが、碑だけは、昭和26/1951年に住職の手で掘り出された。

・寛政7年(1795)に、小林一茶が道後に来遊したとき、師・二六庵竹阿の足跡をたずねているので、一茶は、この碑にも足を運んでいる?。

<狂平の仮名詩碑 (臥牛洞)狂平>
           我師この世にいます比 もは ひとへに其師の道をになひて
            雪に氷に身をこらしつゝ 夏野は脚を草にこがして 
            道には秋の露いとはずも 門は葎のとぢも閉てん
            荻には風の音の有しを 二見の浦の貝の数々
            人をめぐみの深ければこそ 世の捨人のなみにあらずも
            この日のもとの国のすゑすゑ 蝦夷か千嶋もそとのはま辺も
            春のながめの心のとけく 岩のはさまも住うからねば
            咲ちる事も風にまかして 心の花は常に咲しを
            はるの嵐のさはつれなくて 寝屋にやどせる月も荒しよ
            そよ村雲のたちかくしにし 其きさらぎの宵の間の夢
            覚にし魂をこゝにうつして 今も花咲かげぞ尊ふとき
         
          「維石不言 これ石言わず 謎文以伝 なぞぶみもって伝ふ 
           蕉下獅子菴門人 臥牛洞狂平 宝暦五乙亥稔二月七日」


<「各務支考」とは>

・ 各務支考は、寛文5/1665年に、美濃の国山県郡北野村(現、岐阜市)に生まれ、享保16/1731年2月7日没、享年67歳。芭蕉十哲の一人。「各務」の姓は、姉の婚家の姓で、ここに入籍したため。はじめ、僧侶を志すが禅にあきたらず下山して、乞食僧となって諸国を行脚する。この間に神学や儒学を修めたといわれている。後に伊勢山田に蕉門俳諧を広めるなど政治的手腕もかなりあったようである。
・芭蕉との出会いは、元禄3/1691年、蕉門では許六と並んで遅い入門であったが、芭蕉の臨終を看取るなど、密度の濃い付き合いがあった。蕉門随一の理論家といわれる反面、生前に自分の葬儀をするなど風狂(ふうきょう=ふうてんと同じ=精神病)の風があり、毀誉褒貶(きよほうへん=褒めたり貶したりすること)もまた激しい。芭蕉も其角や去来のような信頼を支考に寄せることはなかったが、気の置けない弟子として許していたようである。死の床における支考の活躍は、獅子奮迅のそれであり、芭蕉の遺書を代筆するなど、その師弟関係は見事に有終の美を飾ったと伝えられている。

<「蕉門十哲」とは>                            

・蕉門十哲とは、芭蕉の門弟の中で、特に優れた俳人10人のことを言う。@ 宝井其角(たからいきかく)、A 服部嵐雪(はっとりらんせつ)、B 森川許六
(もりかわきょろく)、C 向井去来(むかいきょらい)、D 各務支考(かがみしこう)、E 内藤丈草(ないとうじょうそう)、F 杉山杉風(すぎやまさんぷう)、G 立花北枝(たちばなほくし)、H 志太野坡(しだやば)、I 越智越人(おちえつじん)

<「新体詩」とは>

・明治の初め、西洋の詩の影響を受け、日本で成立、発展した新しい詩のことを一般に「新体詩」という。原則として、詩形は自由とされているが、日本語の特性から、その多くは七五調、もしくは五七調で作られている。著名な新体詩に、島崎藤村「流れ星」、石川啄木「落葉の煙」などがある。



臥牛洞狂平の仮名詩碑
松山市道後湯月町
円満寺



円満寺本堂(左)


各務支考の肖像画

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河東 碧梧桐
(かわひがし へきごとう)
(かわひがし へきごとう)
<河東碧梧桐の歴史>

河東碧梧桐=明治中期〜昭和初期の俳人、書家、正岡子規の門人、新傾向俳句。
・明治6/1873年、松山市千船町(現、三番町4丁目)において、父/松山藩士(藩校明教館教授)-河東坤(号:静溪)、母:せい(竹村姓)の五男として生まれる。本名:秉五郎
(へいごろう)、号:碧梧桐
・明治20/1887年、松山中学校に入学。高浜虚子と同級。
・明治22/1889年の夏と12月、東京より帰省した子規から、ベース・ボールを教わったことがきっかけとなり、明治23/1890年に発句集を作り、はじめて子規の添削を受ける。子規は、東京にいる碧梧桐の兄-鍛から、弟への土産としてバットとボールを預かっていた。
・明治24/1891年、松山中学校を中退し、一高受験を志して上京し勉学に励んだが受験に失敗する。
・明治26/1893年、京都三高に入学、前年入学していた虚子と同居。翌年、学制の変革により二人とも仙台二高へ転学したが退学して上京、ともに子規を頼り俳句に携わることになる。碧梧桐は初め、印象的、絵画的な定型句を作り、子規没後は新聞『日本』俳句欄の選者となった。
・明治38/1895年頃から、新風を求めて「新傾向」に走り、明治39/1896年〜44/901年にかけて、前後2回にわけ全国旅行を企て、増々その傾向を強めていった。
・大正の初め頃からは、5・7・5の定型や、季題にとらわれずに表現する自由律の句を作っていたが、昭和8/1933年年3月、還暦祝賀会の席上で、俳壇引退を表明した。
・昭和11/1936年、門人の斡旋で、東京新宿戸塚4丁目に、初めて自分の家を持った。
・昭和12/1937年12年2月1日、腸チフスに敗血症を併発し没した。享年63歳。墓所は松山市朝日ヶ丘の宝塔寺にある。

<碧梧桐の俳句人生>

・碧梧桐は、高浜虚子とともに子規門下の双璧で、俳句の近代化のため新傾向俳句の先駆者となった。常に新生面を開拓し、俳句や書は前衛派の原点といわれる。
・旅を愛し、若くより宝生流の能に親しみ、書に長じ、囲碁に詳しく、多面・多趣味の人で、これぞと思う事には、一途に走る正直な型の人で、この走り方は、生涯変らなかった。
・漢学の名門の家(父:河東静溪)に生まれ、幼時より色白、眉目清秀で伸び伸びと育ち、小・中・高と虚子とともに学んだが、のち相容れずついに袂をわかち、近代俳句のたどるべき険しい茨の道の先駆けとなった。子宝に恵まれず、養女にも先立たれ、物欲に恬淡で清貧に甘んじ、晩年は寂しい路をたどったことになるが、今日の自由律系の俳句の流れに、碧梧桐の俳句修業の悩みが生きている。




河東碧梧桐の肖像


河東碧梧桐の生誕地
松山市千船町(現、三番町)


河東碧梧桐の墓

松山市朝日ヶ丘
宝塔寺

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栗田 樗堂
(くりた ちょどう)
(くりた ちょどう)
<栗田樗堂の歴史>

栗田樗堂=江戸中期〜末期の俳人、酒造業、松山城下の大年寄(町役)
・寛延2/1749年、松山城下松前町にある松山一の酒造業豊前屋-後藤昌信の3男として生まれる。本名:政範、通称:貞蔵、俳号:最初は蘭之、のち息陰・樗堂と改めた。
・同町内酒造家-廉屋こと栗田家の養子に入り、栗田家7代目として与三右衛門政範を名乗り、5代目与三左衛門政恒(俳号:天山)が初代二畳庵を興したのを継いで、同庵を再興した。
・栗田家は、松山有数の造り酒屋で、その銘酒「全世界長」「白玉」「呉竹」の名は有名で、近年まで続いており、値も他店の酒よりよかったという。敷地/700坪、総建坪/852坪、酒倉/33間×4間の総2階建、敷地の南は樽干し場になっていたという。
・樗堂は家業の酒造業で大をなした他に、明和8/1771年から大年寄役見習、大年寄、大年寄格などの町役を勤めてきたが、享和2/1802年、53歳の時、病のため辞した。
・一面、俳諧に親しんで、天明6/1786年、当時の全国諸芸の達人を示した書『名人異類鑑』に、38歳の樗堂は、早くも「俳諧上々、廉屋与三左衛門」と記されている。
・天明7/1787年に京都に上り加藤暁台に学び、近世伊予第一の俳人といわれるようになった。樗堂の句風は、上品で美しく、おだやかでわかりやすく、しかも俗に陥らず、荘重であることは人の認めるところである。
・寛政元/1789年、妻-とら女(羅蝶)、没。
・寛政7/1795年、小林一茶は讃岐から伊予に向かい、松山の樗堂の「二畳庵」を訪ねた。一茶はさらに、翌年の寛政8/1796に再び四国に渡り、樗堂を訪ねている。
・寛政12/1800年、庚申の年、樗堂52歳のとき、余生を風雅三昧に暮らそうと、松山城の西-味酒の地にあり、「古庚申」と称する青面金剛をまつる祠の近くに、その年の「えと」と祠の名に因んで「庚申庵」を建てた。藤の古木は美しい花房をつけ、いまは愛媛県文化財に指定されている。
・享和2/1802年、かねてより仕事から早く身を引いて、俳諧に専念したいと思っていた樗堂は、病気を理由に大年寄役を退き、隠居名:専助を名乗り、出家までして、庚申庵を中心に風雅に生き、俳諧活動に専念しようとした。
・文化2/1805年、庚申庵の詳細な様子とともに、“市中の隠”の難しさや、優れた俳人であるが故の、この地では理想とする(芭蕉のような)風雅な生活を送れないという苦悩をつづった俳文『庚申庵記』を書き上げた。
・同年、樗堂の跡を継いでいた栗田家8代目当主-政篤が病死したため、松山藩は、すでに引退していた樗堂の復帰を期待して、栗田家に「代々大年寄上」という役職を仰せつけた。しかし、樗堂はそれを受けず、政篤の子である政和が、わずか12歳で9代目当主となった。
・文化4/1807年、この頃、御手洗島に移住。庚申庵での生活に挫折を感じていた樗堂は、ついに意を決して公職を逃れるために、寛政元年に妻羅蝶が没した後、安芸三原藩の宇都宮氏より後妻を迎えた縁で、安芸国御手洗島(大崎下島)へ移り、ここにも二畳庵を営んで自ら「盥江老漁」と称し、没するまでの約10年間、殆んどこの地で過した。そして、瀬戸内の良港であった御手洗において、松山をはじめ全国の多くの俳友と交遊した。
・文化11/1814年7月、樗堂は病の床に臥し8月21日、俳友や門弟たちに惜しまれながら没した。享年65歳。生前、小林一茶に「生きているとは申すばかり」の老境を率直に書き送っている。
・樗堂は、松山市萱町-得法寺にある先祖の納骨堂に葬られた。また、御手洗-満舟寺にも「樗堂墓」と記された石碑が建てられいる。
・樗堂の建てた「庚申庵」は戦災を免れ、現在は、県指定の史跡となっており、平成14/2002年に保存修理された。樗堂は、『庚申庵記』『樗堂俳諧集』『萍窓集』『石耕集』などを残している。




栗田樗堂の肖像画


栗田樗堂の庚申庵
松山市
味酒町2


栗田樗堂の墓
松山市
萱町
得法寺



栗田樗堂の墓
広島県豊田郡豊町
舟寺
(大崎下島御手洗)


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坂村 真民
(さかむら しんみん)
(さかむら しんみん)
<坂村信民の歴史>

・坂村真民=昭和〜平成期の教育者、詩人(一遍上人の生き方に共感し、癒しの詩人と言われ、「念ずれば花ひらく」「二度とない人生だから」は有名)。
・明治42/1909年、熊本県荒尾市に生まれる。本名昂(たかし)
・熊本県立玉名中学校を経て、神宮皇學館を卒業。
・昭和9/1934年、朝鮮に渡る。朝鮮時代は短歌に傾倒する。
・昭和21/1946年、愛媛県に引き上げ、国語教師として教鞭を執りつつ詩作に従事。
・昭和28/1953年、尼僧-杉村春苔に出会い影響を受ける。
・昭和35/1960年、個人雑誌『ペルソナ』創刊。
・昭和37/1962年、自らの詩をつづった月刊詩誌『詩国』を創刊し、1,200部を無料で配布した。
・昭和42/1967年、新田高等学校に国語教師として赴任し、伊予郡砥部町に「たんぽぽ堂」と称する居を構えた。毎朝1時に起床して、近くの重信川で未明の中で祈りをささげるのが日課であった。詩は解りやすい物が多く、小学生から財界人にまで愛された。特に「念ずれば花ひらく」は多くの人に共感を呼び、その詩碑は全国、さらに外国にまで建てられている。
・昭和45/1970年、「念ずれば花ひらく」第1号碑が、京都市鷹峯常照寺に建つ。
・昭和49/1974年、新田高等学校退職し、詩作に専念する。
・昭和55/1980年、文部省中学校教育課『道徳指導要領三』に、詩「二度とない人生だから」が採録され、多くの教科書に掲載されるようになる。
・平成18/2006年、没、享年97歳。墓所は、松山市道後湯月町の宝厳寺にある。





坂村信民の肖像


坂村信民の墓

松山市道後湯月町
宝厳寺

14

寒川 鼠骨
(さむかわ そこつ)
(さむかわ そこつ)
<寒川鼠骨の歴史>

・寒川鼠骨=明治〜昭和期の正岡子規門下の俳人、病床の子規に侍り遺族を見守り、子規庵、子規の遺墨/遺稿の保存に尽す。
・明治8/1875年、松山城下三番町において、父-元松山藩士-寒川朝陽
(ともあき)、母-八重の三男としてに生まれる。本名:陽光(あきみつ)、号:鼠骨は「粗忽」に通じるといわれている。
・明治21/1888年、勝山小学校を卒業して経て松山中学校に入学。
・明治26/1893年、18歳で、京都第三高等中学校(京都三高の前身)へ進み、河東碧梧桐・高浜虚子(碧梧桐2歳、虚子1歳年上)と同じ下宿に住み、俳句を作り始める。
・明治28/1895年7月、神戸病院に碧梧桐に伴われて療養中の子規を見舞い、初めて子規を知り、後、新聞『日本』の俳句欄へ投稿し、選者の子規の選を受けた。同年、三高を中退し「京都日の出新聞」の記者になった。その後、「京都朝日新聞」に勤めたり、子規を慕って上京したりを繰り返した。
・明治31/1898年、陸羯南社長の了承を得て、子規の勧めで新聞『日本』に入社、子規に師事して『日本』の俳句欄で活躍した。その時 "最も少ない報酬で、最も多く最も真面目に働くのがエライ人なんだ" という子規の教えを座右の銘とした。
・明治32/
1899年、田中正造を取材で知り、彼の足尾鉱毒事件への取り組みを紙面から支援した。子規庵に出入りし、単行本『日記文』を刊行した。・
。明治33/1900年、25歳の時、日本新聞の社説が、第2次山県内閣への官吏誣告罪に問われ、雑誌の署名人であったために、15日間収監された。その翌年に出版した体験記『新囚人』
はすぐれた写生文として注目され、子規はこれを絶賛した。
・明治35/1902年9月、子規の臨終を看取り、その葬儀の執行にも参画した。
明治36/1903年から俳句の入門書を多く出版し、日本新聞社を退いた。
・大正2/1913年
、山谷徳治郎の週刊紙『医海時報』の編集者になる。
・大正3/1914年、政教社の客員となり、『日本及日本人』誌を編集、日本新聞の俳句選者にもなった。
・大正7/1918年、ホトトギス社が開始した『宝井其角の五元集』の輪講会の座長となり、下谷区上根岸38(現、台東区根岸)の自宅を主会場に、柴田宵曲を門弟とし、筆記/編集させ、「其角研究」の名で『ホトトギス』に連載した。
・大正9/1920年〜大正11/1922年にかけ、永井潜、石川千代松、宮入慶之助、宇野哲人、河口慧海らが書き寄った『長生不老研究録』の校正/発行事務を受け持った。
・大正13/1924年から、毎月19日の子規の命日に「子規庵歌会」を催すことに定め、その記事を『日本及日本人』誌に掲載した。
・子規庵を保存し子規の遺業を伝える案件が、大正12/1923年の関東大震災後に具体化し、敷地買収や庵の修理/改築作業が、昭和元/1926年に漸く終わった。
・昭和2/1927年、子規庵が落成した。その資金に『子規全集』15巻をアルスから出版した。碧梧桐・虚子・香取秀真が編集委員となっているが、実務は、鼠骨と宵曲が実施した。
・昭和3/1928年、子規庵の隣に移り住んだ。
・昭和4/1929年、ここ5年間の子規庵歌会の歌を整理し、歌集『わか艸』を編集。
・昭和5/1930年、子規庵歌会の機関誌として『阿迦雲』を創刊し、太平洋戦争中も歌会を続けた。
・昭和20/1945年、4月の空襲に、自宅も子規庵も焼失してしまったが、鼠骨が提案して設計し建てた土蔵に保管した子規の遺品・稿本類は守られた。
・昭和21/1946年9月、焼跡に仮宅が建つまで、斜め向かいの書道博物館に仮寓し、毎暁土蔵を盗難から守った。
・昭和22/1947年、子規庵を再建する資金に『子規選集全6巻』を編集し、その出版を昭和24/1949年春に、庵の再建を、翌年の昭和25/1950年に完了した。
・鼠骨は、再建された「子規庵」に住み、9月19日の子規の祥月命日の子規忌、及び母と妹の回忌の法要を続けた。さらに、参会者が減り間隔が開いたけれども、子規庵歌会を続けた。
・生来虚弱で、直腸狭窄、腎盂炎、蛋白尿、神経痛など、多くの病に苦しんでいた鼠骨は、昭和26/1951年から歩行困難となり、子規の行事には臥床のまま参加するようになった。
・昭和29/1954年、9月の子規忌を気にしながら、8月18日、肺炎のために没した。享年79歳。墓所は、東京都葛飾区の見性寺にある。



寒川鼠骨の肖像


子規の終の棲家/子規庵
東京都台東区根岸


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篠原 梵
(しのはら ぼん)

(しのはら ぼん)
<篠原梵の歴史>

・篠原梵=大正〜昭和期の「石楠
(しゃくなげ)系」俳人、中央公論事業出版社長。
・明治43/1910年、
伊予郡南伊予村(現、伊予市)に、警察官である父-篠原徳五郎、母-ちさとの長男として生まれる。本名:敏之、俳号:梵、この「梵」は、松山地方で子供のことを「ボンや」と呼んだことに因むともいう。
・大正6/1917年、御荘町立平城小学校に入学。
・大正9/1920年、松山市立第四小学校(現、東雲小学校)に転入学しが、父が警察官をやめ、商売(米穀・塩販売)を始めることになり、以後、松山に居を着く。
・梵は、松山中学校に入学し、この頃から俳句を始めた。中学校を卒業して松山高等学校に入学し「松高俳句会」に入り、「石楠」系の臼田亜浪門の川本臥風の指導を受けることになった。
・昭和6/1931年、松山高等学校を卒業し、東京帝国大学に進んだ梵は、「石楠社」に臼田亜浪を訪ね、以後、亜浪に師事することになり、以後「石楠」全盛期の花形として活動する。
・昭和9/1934年、東京帝国大学国文学科を卒業。
・昭和13/1938年、中央公論社に入社。
・昭和19/1938年、中央公論社を退社。愛媛高等師範学校教授に就任。
・昭和23/1948年、再び中央公論社に復職し、その後「中央公論」の編集長、出版部長、中央公論事業出版専務を経て社長に就任。また丸の内出版を設立、その社長も兼ねる。出版部長時代には新聞報告で「電通広告賞」を受賞している。
・昭和28/1953年に、第二句集『雨』を出してはいるが、昭和24/1949年よりしばらく俳句を絶っていた。その後、昭和45/1970年ごろより、口語俳句を作り始め俳句に復帰した。
・昭和50/1975年、家族と共に郷里松山に帰省中に肝硬変を発病、僅か一週間の入院生活で、松山の病院で没した。享年65歳。墓所は、松山市祝谷東町に常信寺にある。
・雪枝夫人(劇作家-村田修子)も、追悼遺稿集『葉桜』(梵の句碑の句に因んだ)の編集を終えたあと、昭和51/1976年9月5日、石手寺の梵の句碑建立も見ず没した。梵の句碑は、この「葉桜の 中の無数の 空さわぐ」一基のみである。

<篠原梵の俳句の作品>

・梵の作品は、鋭い感覚、斬新な知性、しなやかなリズムなどで当時の俳壇を驚かせた。独特の気品と冷厳な俳句眼が感じられる「扇風機止り醜き機械となれり」、また一面、「吾子」を詠んだ一連の作、「吾子立てり夕顔ひらくときのごと揺れ」の如き描写の正確さと句に溢れる愛情の温かさが美しさが感じられる。
・梵の句集『皿』『雨』、俳号「梵」、長男の名「土士」など、彼は左右相称の文字を好んだ。

<「人間探究派」の誕生>

・梵が、山本健吉が企画した「俳句研究」の座談会に草田男、楸邨、波郷と共に出席した時、。その中で健吉が「あなたがたの試みは結局人間の探求といふことになりますね」の言葉により、「人間探求派」の言葉が生まれたのは有名である。




篠原梵の肖像


篠原梵の句碑
松山市石手2
石手寺

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高浜 虚子
(たかはま きょし)
(たかはま きょし)
<高浜虚子の歴史>

・高浜虚子=明治〜昭和期の俳人、正岡子規の後継者、俳誌『ホトトギス』を継承。
・明治7/1874年、温泉郡長町新町(現、松山市湊町)に、父-旧松山藩士-池内政忠の5男として生まれ、9歳の時に祖母の実家-高浜家を継ぐ。本名:清、俳号:虚子。
・明治21/1888年、松山中学校(現、愛媛県立松山東高校)に入学。1歳年上の河東碧梧桐と同級になり、彼を介して正岡子規に兄事し俳句を教わる。
・明治24/1891年、子規より「虚子」の俳号を授かる。
・明治26/1893年、碧梧桐と共に京都の第三高等学校に進学。この当時の虚子と碧梧桐は非常に仲が良く寝食を共にし、その下宿を「虚桐庵」と名付けるほどであった。
・明治27/1894年、三高の学科改変により、碧梧桐と共に仙台の第二高等学校に転入するも二人して中退、上京して東京の根岸にあった子規庵に転がり込む。
・明治28/1895年12月、自身の短命を悟った子規より後継者となることを要請されるも拒否する。いわゆる「道灌山事件」である。
・明治30/1897年、元来碧梧桐の婚約者でありながら、碧梧桐の入院中に親密になった大畠いと(糸子)と結婚する。
・明治31/1898年、萬朝報
(よろずちょうほう)に入社するも、母の病気のため松山滞在中に、長期欠勤を理由に除籍され、生活に困窮する。
・明治30/1897年に、子規の協力を得て、柳原極堂が松山で創刊した俳誌『ほとゝぎす』を引き継ぎ東京に移転し、俳句だけでなく和歌/散文などを加えて、俳句文芸誌として再出発し、夏目漱石などからも寄稿を受ける。
・明治35/1902年、子規の没したのを期に俳句の創作を辞め、その後は小説の執筆に没頭する。
明治41/1908年、国民新聞の文芸部長となり、「俳諧師」「続俳諧師」「朝鮮」などの執筆に明け暮れるも、漱石の『ホトトギス』の連載終了とともに、経営難に陥った。丁度その頃、碧梧桐は、俳句の分野において、自由律などの新傾向の勢力を作り始めていた。
・明治43/1910年、一家をあげて神奈川県鎌倉市に移住。以来、亡くなるまでの50年間を鎌倉で過ごした。
・大正2/1913年、碧梧桐に対抗するため俳壇に復帰。この時、碧梧桐の新傾向俳句との対決の決意表明とも言える「春風や 闘志抱きて 丘に立つ」を詠んでいる。そして同年、国民新聞時代の部下であった嶋田青峰に、『ホトトギス』の編集一切を任せる旨を表明した。
・昭和12/
1937年、芸術院会員。昭和15/1940年、日本俳句作家協会会長。
・昭和19/1944年9月〜同22/1947年10月までの足掛け4年間、太平洋戦争の戦火を避けて、長野県小諸市に疎開した。
・昭和29/1954年、文化勲章を受章。
・昭和34/1959年、没、享年85歳。墓所は、鎌倉市扇ヶ谷の寿福寺にある。
・虚子は、生涯に20万句を超える俳句を詠んでいる。
・平成12/2000年3月28日、長野県小諸市に小諸高浜虚子記念館が、4月に兵庫県芦屋市に虚子記念文学館が開館した。

<高浜虚子と河東碧梧桐>

・子規の没後、575調にとらわれない新傾向俳句を唱えた碧梧桐に対し、虚子は、大正2年の俳壇復帰の理由として、俳句は伝統的な575調で詠まれるべきであると唱えた。また、季語を重んじ平明で余韻があるべきだとし、客観写生を旨とすることを主張し、「守旧派」として碧梧桐と激しく対立した。そして、昭和2年、俳句こそは「花鳥諷詠」「客観写生」の詩であるという理念を掲げた。しかし反面、碧梧桐が亡くなった翌年の昭和12年に、親友であり激論を交わしたライバルの死を悼む句「たとふれば 独楽のはぢける 如くなり」を詠んでいる。
・俳壇に復帰したのちの虚子、つまり『ホトトギス』は大きく勢力を伸ばし、大正〜昭和期(特に戦前)は、俳壇・即ホトトギスであったといえる。つまり虚子は、俳壇に君臨する存在であった。自ら守旧派と称し17字の定型と季題を守った「花鳥諷詠」を説き、俳壇の主流となった。主宰する『ホトトギス』を通じて、多くの俊才を育てた。そして『ホトトギス』からは、飯田蛇笏・水原秋桜子・山口誓子・中村草田男・川端茅舎・松本たかしなどを輩出している。



高浜虚子の肖像


俳誌『ホトトギス』

(2013年12月号)

17

種田 山頭火
(たねだ さんとうか)
(たねだ さんとうか)
<種田山頭火の歴史>

種田山頭火=明治後期〜昭和初期の「荻原井泉水」門下の行乞流転の自由律俳人、僧侶(僧名「耕畝(こうほ)」)
・明治15/1882年、山口県佐波郡西佐波令村第一三六番屋敷(現、防府市八王寺二丁目13)の大地主の父-種田竹治郎、母-フサの長男として生まれる。本名:正一、:山頭火(「納音」の一つ)。
・明治25/1892年、11歳の時、母が自宅の井戸へ投身自殺。翌年、弟は養嗣子として他家の人となる。
・明治29/
1896年、14歳の時、私立周陽学舎(現、山口県立防府高等学校)へ入学。学友らと文芸同人雑誌を発行。地元の句会によく顔を出していたという話もあり、正一が俳句を本格的に始めたのは明治30年前後で、周陽学舎在学の頃だとみられている。
・明治32/1899年7月、周陽学舎を首席で卒業、同年9月、県立山口尋常中学(現、山口県立山口高等学校)の4年級へ編入。新たな環境であまり親しい学友もおらず、土曜日には佐波山洞道を抜けて、防府の実家に帰るのが常だったという。
・明治34/1901年3月、山口尋常中学を卒業し、同年7月、東京専門学校(早稲田大学の前身)へ入学。
・明治35/1902年7月、20歳の時、東京専門学校を卒業し、同年9月、早稲田大学大学部文学科に入学。
・明治37/1904年2月、神経衰弱のため早稲田大学を退学。しばらく東京に留まるが病状が回復せず、同年7月、防府の実家へ帰郷する。
・明治39/1906年12月、24歳の時、父-竹治郎が、吉敷郡大道村(現、防府市大道)にあった古い酒造場を買収し一家で移り住み、その翌年頃から種田酒造場を開業したとみられる。
・明治41/1908年には、防府に残っていた家屋敷を全て売却する。

・明治42/1909年8月、佐波郡和田村高瀬の佐藤光之輔の長女-サキノと結婚。翌年に長男-健が生まれる。
・明治44/
1911年、防府の郷土文芸誌『青年』が創刊され、その雑誌にて「田螺公」という旧号で定形俳句を、「山頭火」の号で外国文学の翻訳などを発表する。
・大正2/1913年、31歳の時、荻原井泉水主宰の新傾向俳句誌『層雲』3月号にて、初めて投稿句が掲載される。 同誌5月号にて選ばれた2句で、俳号にも「山頭火」という号を使いはじめ、同年8月、編集兼発行人となって、個人で文芸誌『郷土』を創刊する。
・大正5/1916年3月、34歳の時、山頭火は『層雲』にて頭角を現し、俳句選者の一人となる。同年4月、酒倉の酒が2年にわたり腐敗したため、種田酒造場の経営が危機に陥り再建に奔走するも、結局、種田家は破産に追い込まれ、父-竹治郎は行方不明になり、山頭火は友人を頼って妻子と共に熊本へ移る。
・同年5月、熊本市下通町一丁目にて古書店「雅楽多書房」を開業する。しかし、経営は軌道に乗らず、間もなく額縁店「雅楽多」として再出発。その経営も次第に妻サキノに任せがちになっていく。熊本での生活では常に空虚感や欠落感が付き纏った。・大正7/1918年に、37歳の時、弟-次郎が自殺したこと、母親がわりの祖母が没したことが、山頭火をより一層酒に向かわせることになる。
・大正8/1919年10月、妻子を熊本に残したまま単身上京する。
・大正9/1920年11月、39歳の時、妻の実家の求めに応じて、結婚12年目の妻-サキノと戸籍上離婚となっている。

・大正10/1921年、40歳の時、父が没した。
・大正12/
1923年、41歳の時、関東大震災に遭い熊本の元妻のもとへ逃げ帰る。
・大正13/1924年、43歳の時、熊本市内で泥酔し、路面電車を止めたところを、顔見知りの記者に助けられ、市内の報恩禅寺(千体佛)の住職-望月義庵に預けられ寺男となった。
・大正14/1925年、44歳の時、得度して仏門に入り「耕畝」と改名。当時無住であった味取観音堂(熊本県鹿本郡)の堂守となる。
・大正15/1926年、45歳の時、寺を出て雲水姿で西日本を中心に旅し句作を行い、旅先から『層雲』に投句を続けた。
・昭和7/1932年、50歳の時、郷里山口の小郡町矢足(現、山口市小郡)に「其中庵」を結庵したが、体調不良から来る精神不安定から自殺未遂を起こす。
・その後、東北地方などを旅した後、昭和13/1938年、56歳の時、山口市湯田温泉街に「風来居」を結庵する。
・そしてまた旅の人となり、昭和14/1929年10月1日、母「釈順貞信女」の位牌を抱いて、松山市在住の高橋一洵/藤岡政一の二人を尋ねた。
・その後、四国巡拝などをして、同年12月15日、一洵らの世話で、市内御幸一丁目御幸寺の黒田和尚の好意で、境内の納屋を改造してもらって庵を結び、のち、大山澄太が「一草庵」と名づける。
・以来、「風の夜を来て餅くれて風の夜をまた」の句のように、松山の知友に温かく支えられて過ごした。
・昭和15/1940年10月10日の夜、同庵で「柿の会」の句会があり、山頭火はそのそばで酔って寝てしまったが、翌朝、11日午前4時(推定)頃没した。享年58歳。墓所は、山口県防府市の護国寺と、熊本市横手町の安国禅寺にある。




種田山頭火の肖像


山頭火終焉の地/一草庵
松山市御幸1



18

富安 風生
(とみやす ふうせい)

(とみやす ふうせい)
<富安風生の歴史>

・富安風生=明治末期〜昭和期の逓信官僚、俳人。
・明治18/1885年、愛知県八名郡金沢村(現、豊川市金沢町)で、父-佐久間三郎、母-富安なかの四男(兄三人、姉二人の末子)として生まれる。本名:謙次。母の父-九太夫は、「梅月」という俳号をもっており、この文学好きの血が母より風生に伝わる。
・一高(安倍能成と同級)を経て、明治43/1910年に、東大法科を卒業、直ちに逓信省に入ったが翌年喀血、保養後、大正5/1916年、再び逓信省に入る。
・大正7/1918年、福岡貯金局長となったころ、同地には俳句をよくする高崎烏城らの学友がおり、彼らの手引で吉岡禅寺洞を知り、俳句に親しむ。「風生」の号は、高崎烏城が、風生の母方の姓「富安」の「富」から「富生」と付け、後に「風生」に変えたと伝えられている。
・大正14/1925年に、貯金局有志の手になる『若葉』(大阪市)の課題句選者となる。この頃より虚子の指導を受け、昭和3/1928年に、ホトトギス同人に推された。この年、『若葉』は、発行所を東京へ移し、5月、第1号を発行し、これが今日の俳誌『若葉』の実質的創刊と見なされている。風生は、創刊号から雑詠選を担当し、これを主宰して来た。
・風生と愛媛県との縁は、昭和7/1932年、森薫花壇らによって、俳誌『糸瓜』が創刊された時、その雑詠選を担当したことにはじまる。以来、風生は、しばしば本県を訪ねた。中でも、当時、松山辰巳町の故・中西月龍との親交が深く、月龍が風生のために建てた「風生庵」を、再三訪れている。なお、県内に風生の句碑が16基ある。
・風生は、逓信省にあること27年、逓信次官を最後に昭和12/1937年12月、退官。戦後、電波監理委員会委員長をしばらく務めた外は、おおむね雑事を排し、俳諧一筋の道を歩んだ。昭和8/1933年の第一句集『草の花』より昭和53/1978年の第15句集『齢愛し』までの句集の外、多くの著作を残している。
・昭和54/1979年4月号より、高齢のため、雑詠選を清崎敏郎に任せることを、昭和53/1978年12月号誌上に発表したが、その号を待たず、同年2月没した。享年93歳。
墓所は、東京都小平市の小平霊園富安家墓地にある。



富安風生火の肖像


富安風生の句碑
「石鎚も 南瓜の花も 大い奈り」
松山市大手町
JR松山駅前


19

内藤 鳴雪
(ないとう めいせつ)
(ないとう めいせつ)
<内藤鳴雪の歴史>

内藤鳴雪=伊予松山藩-松平家藩士、明治期の愛媛県官吏、子規門下の俳人、漢学者、漢詩人。
弘化4/1847年、江戸-三田の松山藩邸で、父-内藤房之進、母-八十の長男として生まれる。本名:素行、幼名:助之進。俳句の号:鳴雪、漢詩の号:南塘。画家で俳人の下村為山の従兄。
・松山藩校/明教館や江戸幕府/昌平黌で漢学を修め、明治8/1875年、熊本県より転任して来た、土佐生まれで進歩的な権令(県知事)-岩村高俊によって、県学務課長を命ぜられた。
・明治9/年1876年、愛媛師範学校を創設し、末広鉄腸の推薦で、慶応義塾卒業の草間時福を招いて、変則中学校(松山中学校→県立松山東高校の前身)を創設した。
・明治13/1880年、学務課長を辞して文部省へ転任したが、思うところがあって明治24/1891年、44歳で退官し、それ以後、かねてより嘱託されていた、常盤会寄宿舎の監督が主務となる。
・翌、明治25/1892年、45歳の時、常盤会寄宿舎に在舎していた正岡子規の感化を受け、本格的に俳句を始め、これが彼終生の道となる。漢詩的情趣の句を得意とし『鳴雪句集』など多数の著書を残している。
・明治40/1907年、60歳の時、常盤会の監督を秋山好古に譲り、俳人としての選者生活が始まる。
子規の俳人としての人生は、約15年間であったが、鳴雪は45歳からの晩学で、35年間もの作句生活が続いた。この35年間は子規の全生涯に相当するのである。
・鳴雪は、少年時代、漢詩を子規の外祖父-大原観山に学んだが、のち、俳句を観山の娘の子である子規に学んだことから、次の句がある。「詩は祖父に 俳句は孫に 春の風」。
・子規から「高華」と評されているとおり、高く身を持し、しかも常に明るく、虚心坦懐、恬淡洒脱、脱俗飄逸な人柄であり、「日本」派俳句の顧問格長老として、党派を超えて敬愛せられた。
・「鳴雪」という号は「世の中の事は万事成り行きにまかす」の意のもじりであり、別号「老梅居」は、「狼狽している」ことから出たもので、よく物忘れしたとも、あわて者であったともいう。痩せこけて背が高く、あごひげを神経質にひっぱりながら高い声で、「・・でやす」「・・でやした」というのが口癖であったという。
・著書に、『鳴雪自叙伝』(大正11/1922年)、『鳴雪俳句集』(大正15/1926年)、などがある。
・大正15/1926年、没、享年78歳。墓所は、東京都港区の青山霊園にある。






内藤鳴雪の肖像


鳴雪髭塔
松山市末広町
正宗寺



内藤鳴雪の句碑
「元日や 一系の天子 不二の山」
松山市-道後公園

20

中村 草田男
(なかむら くさたお)
(なかむら くさたお)
<中村草田男の歴史>

中村草田男
昭和期の「人間探求派」とよばれる俳人
・明治34/1901年、清国福建省廈門生まれる。本名:清一郎。
・4歳の時、清国から父の郷里である松山に帰る。旧制松山中学校、松山高等学校を卒業して、東京帝国大学に進学。この間神経衰弱で一時休学する。
・昭和5/1939念、29歳の時、東大俳句会に入会し、高浜虚子に師事。33歳の時、正岡子規をテーマにした卒業論文を書き、卒業後は、成蹊学園に就職する。
昭和14/1939年、水原秋桜子の指導を受けつつ『ホトトギス』に投句、「降る雪や 明治は遠く なりにけり」などの名句の載る第一句集『長子』が出版されたのは、のことであった。
・昭和44/1969年、定年退職し成蹊大学名誉教授となる。

・高浜虚子に師事し『ホトトギス』の同人となったが後に離脱し、月刊俳誌『萬緑』を創刊して、思想詩としての俳句を結晶させた。
彼の俳風は、人生と深く関わろうとする苦闘のあとを示しているので、「人間探求派」と呼ばれた。石田波郷・加藤楸邨もこの派の俳人で、この三人のうちの二人までが愛媛の俳人であった。
・松山中学校で同期生だった二神伝三郎(元、松山北高校校長)は、「・・平素は無愛想にみえたが、しゃべりはじめるととめどなくなる。友人は少なかったようだが、人をひきつける大きな力があり、自然とつきあいも深くなった」と語っている。また、二神氏とのゆかりで、松山北高等学校の校歌の歌詞を作った。
・草田男の代表句、
         「降る雪や 明治は遠く なりにけり」
は、有名である。この句は昭和6/1931年、大学生だった草田男が、大雪の日にかつて学んだ母校の青南尋常小学校(現、東京都港区立青南小学校)を訪問した際に詠んだ句である。
・草田男の松山での住居は、二番町二丁目7の日の丸駐車場の辺りにあった。
・昭和58/1983年、没、享年82歳。墓所は、松山市鷺谷町の鷺谷墓地にある。








中村草田男の肖像


中村草田男の墓
松山市鷺谷町
鷺谷墓地



中村草田男の代表句

21

夏目 漱石
(なつめ そうせき)
(なつめ そうせき)
<夏目漱石の歴史>

・慶応3/186年-大正5/1916年、小説家・教育者
江戸牛込馬場下横町(現、東京都新宿区牛込喜久井町)にて、父/夏目直克、母/千枝の5男として生まれる。本名/金之助。号/愚陀仏。
明治21/1888年9月、東京大学予備門本科英文学一年に進学し、翌22/1889年1月、寄席を通じて正岡子規と親しくなる。この年、子規は漱石のことを「畏友」と称し、以後、生涯の交友がはじまる。
明治25/1892年8月中旬、子規を訪ねて松山に来たことのある漱石は、明治28/1895年4月9日、今度は愛媛県尋常中学校(松山中学校)の英語科の教師として赴任。月給80円(校長住田昇は60円)。城戸屋旅館に泊り、愛松亭を経て、6月下旬頃、二番町の上野義方氏の離れに転居、自らを「愚陀佛」と号し、この下宿を「愚陀佛庵」と称した。この年、子規は日清戦争の従軍記者として中国に行き、帰りの御用船の中で大喀血をして、5月23日より神戸で療養後、8月、松山へ養生に帰り漱石の仮寓に同居した。漱石は二階へ移り、子規は一階に入り、52日間ここに滞在した。この間、地元松風会の句会が子規を指導者として愚陀佛庵で連日行なわれ、漱石も誘われて俳句に熱中するようになる。
明治29年4月9日、松山中学校講堂で告別式、11日、三津浜港発、広島(宇品)、宮島経由で熊本へ赴任、13日、第五高等学校講師として熊本に着任する。
・明治33/1900年9月8日よりイギリスに留学する。二人の交友は、子規より漱石宛ての手紙が、明治34/1901年11月6日付、漱石より子規宛ての手紙は、同年12月18日付のものが最後となった。

子規没後の明治36/1903年1月24日帰国、一高・東大英文科講師となる。
・明治38/1905年1月から『吾輩は猫である』を『ホトトギス』に発表して文名大いに上り、明治39/1906年4月には『坊っちやん』を、9月には『草枕』を発表した。
・明治40/1907年、教職を辞して朝日新聞社に入り、『虞美人草』以下の数々の名作を発表して日本文壇に偉大な業績を遺した。
・大正5/1916年、没、享年50歳。墓所は、東京都豊島区の雑司ヶ谷霊園にある。






夏目漱石の肖像


復元された
「坊っちゃん列車」



愚陀仏庵跡
松山市二番町

22

西村 清臣
(にしむら きよおみ)
(にしむら きよおみ)
<西村清臣の歴史>

・西村清臣=江戸末期〜明治初期の松山を代表する歌人、正岡子規や秋山真之の和歌の師-井手真棹の父。
・文化9/1812年、松山城下の生まれる。
・幼時から文武を学び絵画・彫刻に秀で、国学に造詣が深かった。特に和歌は、江戸時代の松山の歌人-石井義郷の教えを受け、のち江戸の海野遊翁、香川景樹に学んで地方歌人として名をなした。
・明治12/1879年、没、享年78歳。清臣は、石井義郷と同年の生まれであるが、彼より30年も長生きした。
・清臣の長男が井手家を嗣いだ井手真棹(正雄)で、正岡子規や秋山真之に、短歌の手ほどきをした。

<西村清臣の歌碑>

・松山市御幸一丁目の「吉平屋敷跡」に、「孝子桜」の碑が建っている。この碑は、明治11/1878年1月16日に建てたもので、碑文は一千余字の長文で、清臣門下の青野清夫の書である。孝子桜の経緯を擬古文で書いたもの。原文は清臣の作で、井手家に今も存するそうである。その碑文結びに、清臣の歌がある。
        つくしけん 人のまことを にほはせて 
            さくかむ月の はつさくらばな (西村)清臣

・寛政7/1795年1月16日、俳人-小林一茶はこの地に訪れ、有名な桜を見ようとこの山中まできたところ、人々が大勢集まっているので、[玉櫛笥 二名の島の むつみ月 むつむや花の もとにつどへりの和歌を残した。



西村清臣の歌碑
松山市御幸1
吉平屋敷跡



西村清臣の和歌

23

野村 朱燐洞
(のむら しゅりんどう)
(のむら しゅりんどう)
<野村朱燐洞の歴史>

野村朱燐洞=明治期〜大正初期の自由律俳人。
・明治26/1893年、温泉郡素鵞村で生まれる。父は、温泉郡素鵞村の役場の職員、母は、機織りなどの家計を支えた。本名:守隣
(もりちか)、号:柏葉・朱燐洞。
・13歳の時に母を亡くし、その後、父と同じ道を歩み、守隣の上司が短歌の傾向を持ち「柏葉」と号した。
・河東碧梧桐が松山に帰った時、彼提唱する新傾向俳句に傾倒し、18歳の時に愛媛新報の俳壇に入選する。
・東京で自由律俳句の創始者-荻原井泉水と出会い、『層雲』を創刊し、俳号を「柏葉」から「朱燐洞」と改名、俳句結社「十六夜吟社」を結成、主宰する。
大正5/1916年、『層雲』松山支部を結成、翌6/1917年、支部の機関誌『瀬戸うち』を創刊し選者となる。同年、『俳界』の創刊号の評論に「朱鱗洞」と書いた。
・大正7/1918年、スペイン風邪が原因で没す。享年25歳。墓所は、松山市小坂一丁目の阿扶志共同墓地にある。
昭和14/1939に、種田山頭火が、松山市小坂の阿扶志(あぶし)共同墓地にある朱鱗洞の墓を訪れて、念願の墓参を果たした。その後、山頭火は「十六夜吟社」を復活させた。

<野村朱燐洞の代表句>
     
・倉のひまより見ゆ春の山夕月が
      ・淋しき花があれば蝶蝶は寄りて行きけり
      ・風ひそひそ柿の葉落としゆく月夜
      ・小さき火に炭起し話し暮れてをりせた。た。








野村朱燐洞の肖像


野村朱燐洞の墓
松山市小坂1
阿扶地共同墓地


24

野間 叟柳
(のま そうりゅう)
(のま そうりゅう)
<野間叟柳の歴史>

野間叟柳=明治〜昭和初期の俳人、教育者、正岡子規の竹馬の友、松風会会員。
・元治元/1864年、松山藩士の家に生まれる。本名:門三郎。
・3歳年下の子規とは家も近く、末広学校・勝山学校と同窓で、竹馬の友であった。
・明治14/1881年、愛媛師範学校入学、同17/1884年に卒業して、教員生活に入る。
・父が奥平鶯居門の号「一雲」と称する宗匠であったことから、早くから発句に親しむ。やがて下村為山に師事する。
・明治27/1894年年、松山高等小学校在職中の同校校長/中村愛松・伴狸伴・叟柳の3人が発起・主唱者となって開いた句会が「松風会」の発端であった。以来、同校教員を中心として、週1回の句会を重ねた。
・やがて明治28/1895年、日清戦争従軍記者となった正岡子規の歓送会を機に、この松風会と子規の交流が始まる。
・子規が帰国後、夏目漱石の下宿愚蛇仏庵で療養生活を送った52日間は、松風会の無上の勉強の場となった。やがて上京する子規の送別会の席上、叟柳は「行く秋を 君帰りけり 帰けり」と詠んだ。
・松山第三小学校校長・第一小学校校長を経て、晩年は松山市の私学第一課長の職にあった叟柳の、松風会への思いは並々ならぬものがあり、晩年に及んでもその重鎮として地方俳壇に尽くした功績は大きい。
・昭和7/1932年、没・享年69歳。墓所は、松山市柳井町の蓮福寺にある。



野間叟柳の句碑
松山市湊町3-中の川
緑地帯


25

波多野 晋平
(はたの しんぺい)
(はたの しんぺい)
<波多野晋平の歴史>

・波多野晋平=明治17/1884年〜昭和40/1965年、俳人・事業家。
・山口県萩市に生まれる。萩中学卒業後、大阪商船に入社。別府支店を経て松山の高浜支店へ赴任。
・昭和7/1922年、伊予商運設立に参加、取締役として同31/1956年に辞任するまで海運業に従事した。
・大正14/1925年、大阪商船高浜支店時代に、当時支店長とともに、酒井黙禅に師事して俳句をはじめ、翌年から『ホトトギス』に投句し、「漕ぎめぐる 濱の明りや ちちろ虫」で初入選した。
・昭和2/1927年、虚子・王城・橙黄子・久女・つる女などが松山に来て、道後で開いた関西俳句大会で大いに刺激を受ける。以来、虚子の帰郷の折々に親交を深め、池内家の墓所の管理にもあたった。「永く松山に住み、知己多く、地理にくわしく、松山人より松山を愛し、時によると松山言葉を使い、松山人になりきっている。また、世話好きであり、頼んだことは嫌とは言わず、労を惜しまずやってくれる。」と、虚子は晋平を評している。
・昭和20/1945年、黙禅より『柿』の主宰を引き継ぎ、愛媛ホトトギス会長となって後進を指導。同35/1960年、引退。句集「初凪」を残す。
・昭和40/1965年、没、享年82歳。



波多野晋平の句碑
教えたる ままに唯行く
遍路かな

松山市道後姫塚
義安寺

26

波多野 二美
(はたの ふみ)
(はたの ふみ)
<波多野二美の歴史>

・波多野二美=明治28/1895年〜平成2/1990年、俳誌「柿」二代目主宰・波多野晋平の夫人。本名:貞子。俳人、耳鼻咽喉科医、波多野精美の母。
・今井つる女に俳句の指導を受け、句集に『蛍籠』『草の戸』がある。


<「孝子桜と波多野二美の句>

・波多野二美の代表句、「永久(とは)眠る 孝子ざくらの そのほとり」の句碑が、松山市御幸1のロシア兵墓地にある。この墓地には、日露戦争の時のロシア兵捕虜で松山で死亡した兵士の墓98基がある。
・この句碑のほど近く、御幸の桜ヶ丘の吉平屋敷跡と天徳寺境内に市指定天然記念物の「十六日桜」がある。この花のことを、「孝子桜」呼び、小泉八雲が世界に紹介したので、よく知られるようになった。孝子桜の話は、「この地に住んでいる重病の父が桜の花を見たいと願うので、子の吉平が桜に祈ったところ、寒中の1月にかかわらず16日で花が咲いた。この奇跡によって、老父は以後長寿を保ったという。」これらの元の木は戦災で焼失、初代の形態のものはなく、実生による変異品種のみのようである。
・二美の句の「そのほとり」とは、そのようなゆかしい言い伝えの地のほとりに、永久に眠る98柱のロシア兵の墓地があるの意か。碑陰には、「松山赤十字奉仕団 昭和四十三年十一月三日建立 外人戦没者の霊に句を捧ぐ 波多野二美」とあるので、この句の意味が尊く偲ばれる。



波多野二美の句碑
永久眠る
孝子ざくらの そのほとり」
松山市御幸1
来迎寺

27

久松 粛山
(ひさまつ しゅくざん)
(ひさまつ しゅくざん)
<久松粛山の歴史>

久松粛山=江戸時代前期の松山の俳人、松山藩-松平家家老。
承応元/1652年、松山城下に生まれる。松山藩主-松平定直に仕えて重責を果たす一方、俳諧を好み、その才能を発揮した。
・天和3/1683年、31歳の時、松山に来ていた因播国鳥取の岡西惟中の門に入る。
元禄元/1688年、江戸詰となり、江戸在勤中に松尾芭蕉、宝井其角に俳諧を学ぶ。
元禄3/1690年、其角編の句集『いつを昔』が刊行され、粛山の句もその句集に収められている。
元禄4/1691年、其角編『雑談集』が刊行され、粛山が跋文(後書き)を寄せる。この頃、「俳諧三尊画賛」の三幅対を完成させる。
元禄5/1692年、松山に帰り、藩主-定直の俳友として蕉風俳諧を松山に広めた。後に、子規から伊予未曾有の俳人と評される。

また粛山は、芭蕉に烏頭巾を贈り、その時直接芭蕉と唱和する機会も得ており、文化7/1810年刊の『今はむかし』に収録され、永く伊予連衆の語り草となっている。
・粛山の場合も、その主たる活躍の場は彫棠同様江戸であり、「江戸粛山」として認められていたが、松山俳壇に及ぼした影響はかなり大きかったようである。特に、松山帰藩後は、松山俳壇に蕉風俳諧の新鮮な風を送り続けていった。

・宝永3/1706年、55歳で病没した。その間、藩の重責を果たし、定直の信任も厚かった。

<俳諧三尊画賛>

粛山は、狩野探雪の画に、芭蕉・其角・素堂の発句の賛(添え書き)を求め、松山に持ち帰った。この「俳諧三尊画賛」の三幅対は逸品とされ、来遊した小林一茶も感激の句、「正風の 三尊見たり 梅の宿」(松山市勝山町一丁目に句碑あり)をしたためている。



小林一茶の句碑
「正風の三尊見たり梅の宿」

松山市勝山町一丁目

28

正岡 子規
(まさおか しき)
(まさおか しき)
<正岡子規の歴史>

正岡子規=明治期の俳人、歌人、近代俳句の祖、俳句も門人に高浜虚子・河東碧梧桐など多数。
・慶応3/1867年、松山城下-藤原新町において、父-松山藩士-正岡常尚、母-八重の長男として生まれる。本名:常規、幼名:処之助、4・5歳のとき「升」と改名、号:子規、その他多し。
・明治6/1873年、末広学校に入学、同8/1875年に勝山学校に転入、卒業後、松山中学校に入学、5年で中途退学。
・明治16/1883年6月に上京し、共立学校(現、開成高校)から、大学予備門を経て、東京帝国大学哲学科に進学、後に国文科に転籍。共立学校では、秋山真之と同級。さらに、明治22/1889年、大学予備門で夏目漱石と出会い、交友が深まる。同年5月、喀血し、血を吐いて歌うホトトギスになぞらえて「子規」と号した。
・明治27/1894年、根岸の子規庵に転居。
・明治28/1895年3月、日清戦争の従軍記者として遼東半島に渡るが、帰路、船中で大喀血。神戸の須磨で療養後、8月、郷里の松山に帰り、夏目漱石の下宿/愚陀仏庵に同居する。10月、上京。それ以後、激しい腰痛(のちに、脊椎カリエスと判明)に悩まされるようになる。
・明治31/1898年、新聞『日本』の俳句欄の選者となるが、病状はいよいよ悪化、寝たきりになる。
・明治34/1901年1月から『墨汁一滴』、9月から『病臥漫録』の連載を始める。
・明治35/1902年5月から『病状六尺』の連載を始め、9月17日、亡くなる二日前まで書き続けた。
・明治35/1902年9月18日、絶筆三句を書き、翌19日、没した。享年満35歳。墓所は、東京都北区田端の大龍寺にある。また、正岡子規埋髪塔が、松山市末広町の正宗寺境内にある。

<正岡子規の功績>

・正岡子規は、万葉の時代から歌い継がれてきた和歌、松尾芭蕉に代表される俳諧、つまり、何人かの人が共同して作る文学いわゆる連歌を、その最初の575の17文字だけを取り出して独立させることにより、個人や個性を重んじる近代文学と相通じる文学(俳句文学)として確立した。子規が、35年という短い生涯に詠んだ俳句の数は、約24,000句といわれ、亡くなる直前まで俳句を作り続けた。そして、子規は、古き形式の文学に飽き足らず常に新しきを求め、文学の改革にあくなき情熱を燃やし、広い分野に亘る文章文学の革新に一生を捧げたのである。








正岡子規の肖像


子規記念博物館
松山市道後公園



子規堂
松山市末広町
正宗寺



子規埋髪塔
松山市末広町
正宗寺


29

松田 含芽
(まつだ がんが)
(まつだ がんが)
<松田含芽の歴史>

松田含芽=江戸時代中期の淡々流俳人、三津の商人。
・正徳5/1715年、和気郡三津浜村で生まれる。本名:信英。
松田家(唐津屋)7代目当主。

・和気郡三津を中心に活躍した俳人で、当時、松山は蕉風俳諧が主流であったが、含芽は、淡々流俳人として活躍した。
三津は、現在松山市内であるが、城下から一里余離れた港として栄えていた。
・山口羅人門下で、同門の正木風状が伊予を訪れた時には、往復共に立寄っており、その間の紀行『よよし簾』(寛延年刊)には、含芽の序文が、谷脇恩竹・高月狸兄・佐藤玄々の序と並んで載せられている。また、浦川富天の『棗亀
(なつめがめ)』にも、含芽の家を訪れたことが書かれている。
・明和6/1769年、没、享年55歳。

<「淡々流」とは>

・淡々流は、大阪の松木淡々によって、享保の頃に始められた。淡々は、宝井其角の弟子で、芭蕉の孫弟子にあたる。宝暦11/1761年、88歳で没するまで、享保期の上方俳壇に大きな影響を与えた。彼は、難解で人をおどかす体の俳風を広げ、性格的にも派手で俗臭を帯びていたこともあって、その評価は決して高くない。しかし、その選述書は多く、諸国から投句を募り、地方俳壇を活気づけた功は大きく、また、積極的に新風を起こそう点は評価されている。



松木淡々の発句集

30

松田 方十
(まつだ ほうじゅう)
(まつだ ほうじゅう)
<松田方十の歴史>

松田方十=江戸時代中期の俳人、三津の商人
・宝暦5/1755年、和気郡三津浜村で生まれる。本名:信得(のぶあり)
・松田家(唐津屋)9代目当主で、松田含芽の孫に当たる。妻-田鶴は、栗田樗堂の娘。
・寛政7/1795年に来松し、樗堂のもとに長く滞在していた小林一茶が、三津の方十宅に立ち寄り、2月5日から11日まで滞在し、9日、古深里の「洗心庵」で句会を開いた。
・その「洗心庵」の傍に、芭蕉の句碑が建っており、この碑は、芭蕉没後百年目の寛政5/1793年の祥月命日に、芭蕉翁自筆の句を塚の下に埋めて建てたもので、「亀水塚」と呼ばれている。この句は芭蕉の句集に見えず、『諸国翁墳記』に「亀水塚 伊予-松山-三津浜」として「笠を舗て 手を入てしる 亀の水」とあるくらいで、句意もはっきりせず、無季の句である。一茶は、この碑を見て翁を偲び、「汲みて知る ぬるみに昔 なつかしや」と詠み、「旧懐の俳諧をして浦辺を逍遙し」と前書きして、「梅の月 一枚のこす 雨戸哉」などの句を残した。当時既に二百年は越していたと思われる碑の脇の老松は枯れてしまった。「末弟三津社中」とは、当時41歳の松田方十(信得)が中心で設立した俳句結社である。
文化13/1816年、没、享年64歳。



一茶が句会を開いた
洗心庵跡



31

松根 東洋城
(まつね とうようじょう)
(まつね とうようじょう)
<松根東洋城の歴史>

松根東洋城=明治〜昭和初期の俳人(ホトトギス派)、俳誌『渋柿』を主宰、宮内省に入り式部官、書記官、会計審査官。
・明治11/1878年、松根権六(宇和島藩城代家老・松根図書の長男)の次男として東京築地に生まれる。母は宇和島藩主-伊達宗城の次女-敏子。本名:豊次郎、俳号:東洋城は、本名「豊次郎(とよじろう)をもじったと言われている。
・松山中学校時代に、同校に教員として赴任していた夏目漱石に英語を学んだことから、卒業後も交流を持ち続け、俳句の教えを受けて終生の師と仰いだ。一高の学生時代より漱石門下生を自認し、漱石山房で小宮豊隆・寺田寅彦・野上豊一郎らを相知った。また、漱石に紹介されて正岡子規の知遇を受けるようになり、子規らが創刊した『ホトトギス』に加わった。
・その後、
一高、東京帝国大学から転じて、京都帝国大学仏法科を卒業した。
明治39/1906年、宮内省に入り式部官、書記官、会計審査官等を歴任した。
大正3/1914年、宮内省式部官のとき、大正天皇から俳句について聞かれ「渋柿のごときものにては候へど」と答えたことが有名となった。
・大正4/1915年、俳誌『渋柿』を創刊主宰。

・子規没後『ホトトギス』を継承した高浜虚子により、『国民新聞』俳壇の選者から下ろされ、代わって虚子自身が選者になったことを契機に、大正5/1916年に『ホトトギス』を離脱した。以降、虚子とは一切の付き合いを持たなかったという。
大正8/1919年、公職を退き『東京朝日新聞』俳壇の選者となる。

昭和27/1952年、隠居を表明し、『渋柿』主催を野村喜舟に譲る。
昭和29/1954年、日本芸術院会員。

・昭和39/1964年、没、享年86歳。墓所は、宇和島市金剛山-大隆寺にある。

<東洋城の俳句論>

東洋城は、虚子らが掲げる「俳句こそは花鳥諷詠、客観写生である」という理念に飽き足らず、俳諧の道は「生命を打ち込んで、真剣に取り組むべきものである」として芭蕉の俳諧精神を尊んだ。東洋城が週に一度開催した句会には、長谷川零余子、岡本松浜、野村喜舟、飯田蛇笏、久保田万太郎、小杉余子ら後世に名を残す俳人が数多く集った。各地で渋柿一門を集めて盛んに俳諧道場を開き、人間修業としての「俳諧道」を説き子弟の育成に努め、門下から多数の優れた俳人を輩出した。また、生涯定まった住居をほとんど持たず、俳壇にも参加せず、生前には句集も出さず、俳句に情熱を注ぎ続けた偏屈な孤高の俳人という印象があるという。



松根東洋城の肖像


松根東洋城の句碑
「春雨や 王朝のタ(うた) 今昔」
松山市太山寺町
太山寺


32

村上 杏史
(むらかみ きょうし)
(むらかみ きょうし)
<村上杏史の歴史>

村上杏史=大正〜昭和期の愛媛の俳人(ホトトギス派)。
・明治40/1907年、温泉郡東中島村大浦(現、松山市中島町大浦)で生まれる。
昭和4/1929年、東洋大学を卒業後、朝鮮の木浦で新聞記者に従事。
・昭和8/1933年、高浜虚子と出会う。
・昭和9/1934年、木浦で俳誌『かりたご』を主宰。
・戦後、愛媛ホトトギス会(酒井黙禅会長)に参加する。
・昭和30/1955年、俳誌『ホトトギス』同人となる。
・昭和36/1961年、愛媛ホトトギス会会長、同会誌『柿』主宰し組織発展につとめ、会員数を200人から1,500人へと、飛躍的に増大させる。
・昭和59/1984年、松山市民文化功労章受賞。
・昭和62/1987年、松山俳句協会会長となり、愛媛の短詩系文学のリーダー役をつめるとともに、日本伝統俳句協会に加わり、同協会の四国支部長就任した。
・句集に、『高麗』『玄海』『朝鶴』などがある。
・昭和63/1988年、没、享年80歳。









村上杏史の肖像


村上杏史の句碑
「金色の 仏の世界 梅雨の燈」
松山市御幸1
千秋寺


33

村上 霽月
(むらかみ せいげつ)
(むらかみ せいげつ)
<村上霽月の歴史>

村上霽月=明治〜昭和初期の俳人、漢詩人。実業家として経済界で活躍する一方、漢詩に俳句で唱和する転和吟を創始、さらに、絵に俳句を配する題画吟も始め、俳句の伝統性に新生面を開いた。
・明治2/1869年、伊予郡西垣生村に生まれる。本名:半太郎。
明治19/1876年、松山中学校(現・松山東高等学校)を卒業し、第一高等学校に入学するも、明治24/1881年、叔父が急死のため退学、家業を引き継ぎ今出絣株式会社の社長になる。このころ俳句への関心が生まれる。
明治28/1895年、松山の漱石の仮寓・愚陀仏庵に居住していた正岡子規の指導を受け、子規を通じて夏目漱石や内藤鳴雪とも親しくなり、ともに句作に興じる。
子規より「霽月初より全く師事する所無し。其造詣の深きは潜心専意古句を読みて自ら発明する所に係る。畏るべきかな。・・最も初に蕪村を学びたるも霽月なり。最も善く蕪村を学びたるも霽月なり」と評されている。
・霽月は、愚陀仏庵に子規を訪うこと二度、明治28/1895年10月7日には、子規が今出の霽月邸を人力車で訪ね、「霽月村居」と題して「粟の穂に 鶏飼ふや 一構へ」などの句をのこした。又この年11月、霽月は子規庵を訪うこと二度、これ以後二人の面談のことはなかったが、この孤高独往の俳人を子規は畏敬の念をもって遇して「雄健」と評している。
・明治29/1896年、伊予農業銀行(後に、愛媛銀行→芸備銀行→広島銀行)を創設に参加し、頭取となる。
・同年、霽月門下の俳句結社「今出吟社」を結社し、晩年まで地元俳人の指導に当たった
・明治30/1897年に、柳原極堂が松山で創刊した俳誌『ほととぎす』に参加、のちに選者となる。

・昭和3/1928年に、銀行救済のため、全財産を投げ出す。
・昭和6/1931年に『霽月句集』を刊行するかたわら、昭和8/1933年には、絵に俳句を配する「題画」(だいが=容に合わせて詩や文を書き添えた絵)をはじめ「業余俳諧」を主唱して、俳句の伝統性に新しい分野を開いた。
・昭和7/1932年に、俳誌『鶏頭』を創刊して、これを主宰する。
・昭和17/1932年に帰郷し、子規の研究と顕彰に専心する。
・昭和21/1946年、没、享年
78歳。墓所は、松山市西垣生町の長楽寺にある。また、松山市南堀端町のJA愛媛の前に、村上霽月の胸像がある。










村上霽月の肖像」


「村上霽月の胸像」
松山市南堀端町-JA愛媛


「村上霽月邸」
松山市西垣生町


「村上霽月()墓所」
松山市西垣生町-長楽寺

34

  円月
(もり えんげつ)

(もり えんげつ)
<森円月の歴史>

・森円月=明治3/1870年〜昭和30/1955年、俳人・教育者・新聞記者。姉婿/森河北らと蛙友会を作り、地元俳句の発展に尽くした。
・温泉郡余土村余戸(現、松山市余戸中四丁目)で、父/久次、母/キクの長男として生まれる。本名:次太郎。
・正岡子規の父の兄で、藩の祐筆をしていた佐伯政房が、廃藩後、余戸の妻の実家・森源蔵の家に郷居していたが、少年子規は妹の律を連れて、よく訪れた。
・子規の『散策集』に、「鳩麦や 昔通ひし 叔父が家」(正しくは「伯父が家」)の句がある。その「伯父が家」の前の道路を隔てて東側が、子規より3歳年下の森円月の家で、円月や姉のシカは、子規とは幼なじみの遊び仲間であった。
・子規の『散策集』によれば、明治28/1895年10月7日、松山の愚陀佛庵を人力車に乗って出かけた子規は、今出の村上霽月を訪ねての帰り、夕暮に森円月の家に寄り「柱かくしに題せよ」と言われて、「籾ほすや にわとり遊ぶ 門のうち(子規)」の句を詠んでいる。
・松山中学校を経て、京都の同志社大学卒業後、アメリカのエール大学に学び、明治30/1890年から3ヵ年、母校の松山中学で英語科教員として勤めたが、大阪時事新聞の記者となり、後に東洋協会に入って、雑誌の編集にあたり、政界・財界・学界に交友が広く、愛蔵の書画が多かった。

・昭和30/1955年、没・享年85歳。

<森円月、漱石・子規と吉田蔵澤>

・夏目漱石が、吉田蔵澤の墨竹図を得たのは、明治43/1910年11月5日のことである。漱石が、伊豆の修善寺の大患の後に帰京して、胃腸病院に入院中、子規の幼なじみで松山市余戸出身の森円月が見舞いにやってきた。円月は、同志社からエール大学に進み、松山中学の教師をした後、『東洋協会雑誌』の編集者をしていた。
・漱石と子規の3歳年少で、漱石とは、書画の付き合いがあった。漱石の日記に「森円月来る。疲労を言訳にして不会。一時間程して小使いが手紙をもって来る。蔵澤の墨竹の軸を添う。お見舞いともお土産ともいたし進呈すとあり、早速床にかく。病院に入ったら好い花瓶と好い懸物が欲しいと云っていたら、偶然にも森円月が蔵澤の竹をくれる。禎次が花瓶をくれるという報知をする。人間万事こう思うように行けばありがたいものである」などとある。
・漱石はすぐに、会わずに帰した円月に「大驚喜」という礼状を返し、さらに一週間後に、蔵澤の竹を病院の壁に掛けて毎日眺め暮らしているが、「先ず家に帰りたるときの光景とお思いくださるべく候」と書いて「蔵澤の 竹を得てより 露の庵」という句を短冊にして円月におくった。
・正岡子規は、根岸の子規庵の床の「蔵澤の墨竹」を常掛にしていた。友人の漱石も松山で蔵澤を見て以来、欲しくてたまらなくなったようである。伝えられる蔵澤の自由で無欲、剛直な人柄に加えて、子孫が会津から養子を取ったことや、脱藩して彰義隊に入ったことなども、漱石の蔵澤への親近感を増したかも知れない。小説『坊っちゃん』の山嵐も、会津の出身であった。



森円月邸の付近
松山市余戸中


子規と漱石が
森円月に送った句碑

(右・正岡子規)
「ふゆ枯や 鏡にうつる 雲の影」
(左・夏目漱石)

「半鐘と 並んで高き 冬木哉
松山市道後講演
公園北口

35

 薫花壇
(もり くんかだん)

(もり くんかだん)
<森薫花壇の歴史>

・森薫花壇=明治〜昭和期の愛媛の俳人、月刊俳誌『糸瓜』創刊/主宰、刑務官。
・明治24/1891年、伊予郡余土村(現、松山市余戸)で生まれる。本名:福次郎、号:薫花壇、刑務官-林務課に勤める。
・明治41年、18歳の頃より句作をはじめ、最初は河東碧梧桐、荻原井泉水の指導を受けたが、地元の南山会に参加し、森田雷死久に指導を受ける。のち、富安風生を知り『ホトトギス』に投稿する。
・昭和7年、野間叟柳に強く勧められて、月刊俳誌『糸瓜』を創刊し、終生、同誌を主宰した。選者に、俳誌『若葉』の創設者・富安風生を迎え、愛媛俳壇の発展と向上に貢献した。
・昭和44/1969年、県教育文化賞を受賞。
・昭和51/1976年、没、享年84歳。

<森薫花壇の句集と句碑>

・第一句集の『蟹目』というのは、「釜鳴りは 蟹眼かなでに 松の花」(昭和27年)からとったという。「蟹目」とは、「魚眼蟹目」と熟し、茶道の方の言葉で湯の沸く形容であるとのこと。魚眼は大きな泡で、泡の形が蟹の目のように小さくなることを蟹目というらしく、中国の大詩人-蘇東坡の詩に「蟹目すでに過ぎ、魚眼生ず」ともあるそうである。その「蟹目」という字面をおもしろく思って句集の名としたといわれている。第二句集『凌宵花』は、薫花壇が、この花を大変好み、この花の身近さと色彩感の豊かさに、かねてより強く心惹かれていたことから、句集の名としたといわれている。
・松山市御幸1-東栄寺「萩静かなる とき夕焼 濃かりけり」、松山市辰巳町-観月庵句碑庭園「すいすいと 風のあとより 松落葉」に句碑がある。



森薫花壇の肖像


森薫花壇の句碑
「萩静か奈るとき夕焼濃かりけ里」
松山市御幸1
東栄寺


36


森田 雷死久
(もりた らいしきゅう)

(もりた らいしきゅう)
<森田雷死久の歴史>

・森田雷死久=明治時代の俳人(新傾向俳句)、松風会会員、真言宗の僧侶、農政家。
・明治5/1872年、伊予郡高柳村五地戸(現、松前町西高柳)で、父-弥市郎、母-キヨの次男として生まれる。本名:愛五郎、僧名:貫了、号:雷死久、これは、彼の句「雷公
(かんこう)の 死して久しき旱(ひでり)かな」によるものといわれている。
・父-弥市郎は、伊予郡恵久美村の庄屋-喜安喜右衛門の7男として生まれ、幕末の頃に西高柳の森田善平の養子となる。雷死久は、明治8/1875年、3歳の時、出生番地において分家し戸主となっている。その要因は原因であるが、自宅裏に教願寺という寺があり、その寺に入ったともいわれている。
・雷死久は、12歳の頃、温泉郡中島町大浦(現、松山市中島町)の真言宗-長隆寺に入り、2年位ここで修行し、14歳で長隆寺を出て、伊予市上吾川の谷上山-宝珠寺に入り、約5年間修行した。
・明治22/1889年、京都仏教大学林へ入学し、真言宗智山派-権田雷斧に師事し、本格的な佛法を学び、明治25/1892年、21歳の時、少僧都となり、僧名-貫了となって帰郷し、伊予郡南山崎村上唐川の真成寺の住職となった。
・雷死久は、明治28/1895年頃から、本格的に俳句を始めている。その動機は不明であるが、父-弥市郎が販売していた愛比売新報は、日曜集として俳諧『花の曙』を発行しており、また、父の友人に武智英俊がおり、英俊は子規の友人-武市幡松の叔父でもあり、これらの縁があったのではないかといわれている。
・明治33/1900年に、初めて『ほとゝぎす』に投句し、10月には、4点句(5点句が最高)に入選。12月、上京して子規庵での蕪村忌に参加し、翌年には、海南新聞俳壇の選者に推される。
・明治34/1901年、唐川小学校の代用教員になる。
・明治36/1903年、温泉郡潮見村平田(現、松山市平田町)の常福寺住職となる。
・明治37/1904年には、松山松風会復興大会を中心となって開催するなど、地方俳壇活性化に努めている。
・明治39/1906年9月24日の、海南新聞30年記念号では、1ページ全紙を使って「30年間に於る愛媛県の俳句界」の記事を載せる。
・明治42/1909年頃、新傾向俳句を唱える河東碧梧桐を知り、翌年、全国俳行脚の途中に本県に姿を見せた碧梧桐を迎えて、荏原村大蓮寺での「俳夏行
(はいげきょう)」に10日間つづけて参加し、以後、新傾向俳句に走った。
・雷死久は、なにより実践を尊ぶ真言行者の一人として、地域果樹栽培の必要性を強く説き、自ら住職を務める常福寺の寺領2反歩あまりをそっくり梨園と変えた。さらに、明治42/1909年には、温泉郡小野村(現、松山市)にも「赤々園」という梨園を開いている。
・大正2/1913年頃から、持病の喘息が悪化するなど健康に恵まれなかったが、この年6月、伊予果物同業組合を結成して初代専務となるなど、雷死久は、「果樹王国」といわれる愛媛県の今日を築いた先覚者ということができる。
・大正3/1914年、没、享年42歳。墓所は、松山市平田町の常福寺にある。



森田雷死久の肖像


森田雷死久の句碑
「木の芽日和 慶事あるらし
村人の」
松山市平田町
常福寺


37

森  連甫
(もり れんぽ)
(もり れんぽ)
<森連甫の歴史>

・森連甫=江戸末期〜明治期の俳人、大原其戎の門弟、三津の商人。
・天保8/1837年、和気郡三津浜村の商家-森家に生まれる。本名:栄次郎、俳号:連甫、諱:重遠。
・森家は、江戸末期の天保5/1834年に、忽那諸島の中島から三津浜に移り、その後、港に近い夷子町(後、三穂町)に家を建てて住み、よろず問屋・精米・精麦業を営んでいた。
・連甫は、三津の俳句の宗匠-大原其戎を師としており、正岡子規は其戎門下の弟弟子の関係にある。

・子規が作句に励んだ明治25/1892年6月には、虚子や碧梧桐宛の書簡で、其戎の高弟三津の森連甫の俳句「ニツ三ツ 重なりあふて 雪の嶋」「呼かとて 耳立てゐる 鹿の子哉」など7七句を名句として紹介して、二人の奮起を促しており、郷里明栄社の俳人への関心の深さを示している。

・明治42/1909年、没、享年72歳。墓碑:松山市大可賀(小松原)?

<子規の『なじみ集』と其戎・連甫>

・子規の選句稿『なじみ集』に、伊予小富士を詠んだ句「日永さや いつまでこゝに いよの富士」(大原其戎)、「瀬戸落す 舟もかすむや 小ふじ山」(森連甫)がある。
・其戎は子規が唯一の師と仰いだ俳諧の宗匠、連甫はその高弟。二人はともに三津の住人である。伊予小富士は、興居島の南に聳える標高282mの山。山容が富士山に似ているので小富士の名がある。三津浜からすぐ近くに見える。「日永さや〜」も「瀬戸落す〜」も春の小富士の光景。小富士は穏やかで明るい伊予の典型的な風景の一つである。
・『なじみ集』は永く所在が不明であったが、近時出現して話題となった。子規集録のこの書の巻頭を飾るのは、大原其戎の20句、続いて森連甫の36句。次に其齢1句、夢大(宇都宮丹靖)7句、仙女6句、江左(林江左)4句とつづいた後、其戎の長男-其然の20句が掲載されている。
・其戎、連甫、其然、この三津の三人の俳人は、子規にとっては故郷の先達といえる存在で、かれらの句によって子規は懐かしい故郷の風光を想い起こしていたのかもしれない。



森連甫の肖像


現在の森家(鯛屋)
松山市三津3丁目

38

柳原 極堂
(やなぎはら きょくどう)
(やなぎはら きょくどう)
<柳原極堂の歴史>

柳原極堂=明治〜昭和期の正岡子規門下の俳人、松風会会員、俳誌『ほととぎす』を創刊、実業家、伊予日々新聞社長、新聞記者。
・慶応3/1867年、温泉郡北京町(現、松山市二番町)に、父-松山藩士-柳原権之助、母-トシの長男として生まれる。本名:正之、幼名:喜久馬、俳号:碌堂、のち極堂。
・明治7/1874年に明教館に入り、大学の素読を受ける。
・明治14/1881年に松山中学に入学、このとき在学していた同じ年の正岡子規と親交を深め、のち、明治16/1883年に、子規と謀って松山中学を中退し上京する。
・共立学校(現、開成高校)を卒業し、明治22/1889年に松山へ戻り海南新聞社に入社し、新聞記者の仕事に携わる傍ら、明治27/1894年)に俳句結社「松風会」に参加して「碌堂」と号する。
明治28/1895年、日清戦争の従軍から帰還して松山で療養中の子規を、夏目漱石の下宿-愚陀仏庵に訪ね、松風会員と共に俳句の指導を受ける。
・明治29/1896年には、子規に勧められて号を「極堂」に変える。
・明治30/1897年に月刊俳誌『ほとゝぎす』を創刊。翌年、21号以降、東京に移して高浜虚子に引き継ぐ。
・明治32/1899年に松山市議会議員に当選し、以後4回市議を務め、明治39/1906年に再創刊した伊予日々新聞の社長として、昭和2/1927年の廃刊まで新聞の発行にも力を注いだ。

<子規の顕彰に盡した極堂の晩年>

・昭和7年/1932、俳誌『鶏頭』を創刊したが、118冊刊行したものの戦中の紙不足のため、昭和17/1942年に廃刊となった。
・昭和18/1943年、極堂の提唱で「松山子規会がを結成され、また『友人子規』などを著し、子規の研究・顕彰に半生を捧げた。松山子規会は、俳人のみならず松山市の官民一体となって、人間子規を顕彰することを中心として、現在も続いている。昭和56/1981年、松山市子規記念博物館が開館したのも、俳句愛好者から全市民のための子規への潮流の一つである。
・昭和28/1953年、第1回愛媛文化賞、並びに第1回教育文化賞を受賞。
・昭和29/1954年、句集「草雲雀」を刊行。

・昭和32/1957年、松山市初の名誉市民、さらに、愛媛県民賞を贈られ、「秋風の 何処をくゝり 県民賞」の句が最後となった。
・昭和32年10月7日、没、享年90歳。墓所は、松山市山田町(伊台)の妙清寺にある。




柳原極堂の肖像


柳原極堂の句碑
「春風や ふね伊豫に寄りて
道後の湯」

松山市道後湯之町
放生園





いで湯と城と文学のまち松山