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文化芸術

天野 方壺
(あまの ほうこ)
池内 信嘉
(いけのうち のぶよし)
伊丹 十三
(いたみ じゅうぞう)
伊丹 万作
(いたみ まんさく)
井上 正夫
(いのうえ まさお)
木子 七郎
(きご しちろう)
下村 為山
(しもむら いざん)
杉浦 非水
(すぎうら ひすい)
土居 市太郎
(どい いちたろう)
富岡 鉄斎
(とみおか てっさい)
早坂  暁
(はやさか あきら)
松浦 厳
(まつうら がんき)
松田 三千雄
(まつだ みちお)
松山 容子
(まつやま ようこ)
丸山 定夫
(まるやま さだお)
三輪田 米山
(みわだ べいざん)
森   一生
(もり かずお)
森田 樵眠
(もりた しょうみん)
森  律子
(もり りつこ)
八木 彩霞
(やぎ さいか)
吉田 蔵澤
(よしだ ぞうたく)


文化・芸術



天野 方壺
(あまの ほうこ)
(あまの ほうこ)
<天野方壺の歴史>

・天野方壺=江戸末期〜明治中期の日本画家。
・文政11/1828年、和気郡三津浜村の豪商「天野屋」に生まれる。本名:俊、通称:太吉(吉太)、号:葛竹城・景山山本(大山)・雪眠・方壺・壺道人・白雲外史。
・出生は、三津の新町にあった天野姓の問屋「天清・天元・天惣」のうち方壺の出は「天惣」であろうと言われている。
・天野方壺は、謎の多い画人であり、三津の出身であることは確かであるが、生涯の事跡については伝説の域を出ないものが多い。
・若くして三津の絵師-森田樵眠の指導を受け、23歳の頃、三津を出て旅絵師となったということ(推定)。
・京都画壇の大御所-中林竹洞の門下に入る。富岡鉄斎と交流があり、鉄斎宅(京都室町通一条下ル薬屋町)から遠くないところに居を構えていたということ(推定)。
・明治19/1886年に一時帰郷して、三津の豪商(近藤家・川崎屋など)のもとめに応じた作品をいくつか残している。
・竹洞の没した後の30歳のころ中国に渡り、明・清文人画家最後の大家といわれる胡公寿に師事。以後、中国への遊学は数回に及ぶ。英照皇太后(孝明天皇妃)より揮毫を命ぜられたこともあるという(推定)。
・維新後は、京都府画学校で教鞭を執った。

・明治27/1894年、没、享年67歳。
・研究者によると、墓があるとされる「霊厳寺」という寺は存在せず、岐阜での死亡も不明、中国への遊学も真偽未詳とのこと。
・方壺の作品は山水・花鳥・人物、いずれも俗塵を離れ、気宇広大で自在の境をゆくものであるといわれる。それらの作品は県内だけでなく、全国各地に散在していて見る機会を得るのは難しい。
・松山城天守閣に方壺の代表作「山水花卉図屏風」(六曲一双/明治19年)が、長期にわたって展示されていたが、平成18/2006年に展示終了となった。










天野方壺の肖像


天野方壺の屏風絵
平成18年まで
松山城天守閣に展示



池内 信嘉
(いけのうち のぶよし)
(いけのうち のぶよし)
<池内信嘉の歴史>

・池内信嘉=明治期〜昭和初期の能楽研究家。
・安政5/1858年、松山城下(長町新丁)(現、湊町四丁目)におて、松山藩士-池内信夫の二男として生まれる。幼名:嘉源治、号:如水・如翠。
・愛媛県立師範学校卒業後、一時期、教職に就く。後、養蚕事業を興し、一時、県会議員として活躍したが、日本能楽の前途を憂え、明治35/1902年に、一切を投げ打って上京、能楽館を設立、雑誌『能楽』を発刊し、能楽会理事に就任するなど、能楽界の発展に貢献した。
・大正12/1923年に彼の活動が容れられ、東京音楽学校(現、東京芸術大学)に、能楽囃子科が設置されるや、同校の嘱託(後、教授)となり、後進の育成に力を尽くすなど、能楽の振興に半生を捧げた。
・昭和9/1934年、没、享年77歳。墓所は、築山共同墓地にある。






池内信嘉の肖像


伊丹 十三
(いたみ じゅうぞう)
(いたみ じゅうぞう)
<伊丹十三の歴史>

・伊丹十三=昭和〜平成初期の映画監督、俳優、脚本家。
・昭和8/1933年、京都市右京区鳴滝泉谷町で生まれる。父-映画監督の伊丹万作、-女優の宮本信子。戸籍名:池内義弘、家庭では岳彦(たけひこ)と呼ばれて育った。
・監督映画の代表作としては、「お葬式(1984)・タンポポ(1985)・マルサの女(1987)・マルサの女2(1988)・あげまん(1990)・ミンボーの女(1992)・大病人(1993)・静かな生活(1995)・スーパーの女(1996)・マルタイの女(1997)、etc
・平成9/1997年、十三は、伊丹プロダクションのある東京麻布のマンション下で遺体となって発見された。当初から、経緯について様々な諸説が飛び交うことになった。享年63歳。
墓所は、伊予郡砥部町の理性院にある。
・平成19/2007年、妻-宮本信子が、十三が少年時代の一時期を過ごした松山市東石井に「伊丹十三記念館」を開館させた。




伊丹十三の肖像


伊丹 万作
(いたみ まんさく)
(いたみ まんさく)
<伊丹万作の歴史>

・伊丹万作=大正期〜昭和初期の日本映画監督、脚本家。
・明治33/1900年、松山市湊町で生まれる。映画監督-伊丹十三の父、大江健三郎は娘婿にあたる。
・昭和初期に映画「国士無双」などを監督し、第一級の評価を得る。また、「無法松の一生」など3千本以上の脚本を書いている。
・昭和21/1946年、没、享年46歳。墓所は、伊予郡砥部町の理性院にある。

<伊丹万作の遺稿の映画>

・伊丹万作の没後に映画化されたのに、「手をつなぐ子等」(監督/稲垣浩、1948年)、「俺は用心棒」(監督/稲垣浩、1948年)、「恋風五十三次」「東海道膝栗毛」(監督/中川信夫、1952年)がある。







伊丹万作の肖像


井上 正夫
(いのうえ まさお)
(いのうえ まさお)
<井上正夫の歴史>

井上正夫=明治期〜昭和期の新派俳優、映画監督。
・明治14/1881年6月15日、砥部焼の窯の煙りが立ちのぼる静かな山峡の村-浮穴郡大南村(現、伊予郡砥部町)中通において、砥部焼仲買人で砥部座という劇場をしきっていた父-小坂春吉、母-タイの長男として生まれる。本名-小坂勇一。
・井上らの演劇は「新派」と呼ばれているが、これは、明治21/1888年に、日本演劇のジャンルのひとつで、自由党の壮士・角藤定憲(すどう さだのり)らが大阪で旗揚げしたのに始まり、川上音二郎を中心とする壮士芝居を経て発展、歌舞伎と新劇との中間の位置を占め、取り上げる題材は、その時代の風俗・人情・世相に取材したものが多く、「新派」の名称は、明治33/1900年代後半に、ジャーナリズムが便宜的に歌舞伎を「旧派」、新しい演劇を「新派」と呼んだのに始まる。井上は、歌舞伎の「市川団十郎」に対して、新派の団十郎と呼ばれるほどの名優であった。
・本名小坂勇一。映画で活躍しながら、芸術的な大衆演劇を目指して井上演劇道場を作り、後進の指導育成と演劇の向上に努めた。
・明治29/1895年、家業の後継ぎとして大阪の陶器商に奉公にだされていた中、道頓堀角座で新演劇大阪成美団(せいびだん)の新派の芝居「探偵実話百万円」を見て期するところあり、家人の反対を押し切り一転新派俳優を志した。
・明治31/1898年、松山市の新栄座に興行中の敷島義団に入り、小坂幸二の芸名で初舞台を踏む。
・他方、一時期映画監督もこなし、「搭上の秘密」、「大尉の娘」など。アメリカに渡り、帰国後は、映画やラジオドラマにも積極的に取り組んだ。
・新派全盛期の昭和6/1931年には、東京-明治座で「丘を越えて」「二筋道」「金色夜叉」が上演され、出演者は伊井容峰・河合武雄・喜多村緑郎・井上正夫・花柳章太郎・小堀誠・梅島昇・英太郎・大矢市次郎・伊志井寛・柳永二郎・水谷八重子という空前絶後の超豪華メンバーで、これだけの新派俳優が一同に会したのは後先これだけであった。
・昭和23/1948年、新派で、水谷八重子と合同で尾崎紅葉の「金色夜叉」に、また映画では、菊田一夫の終戦直後の人気の作品の「鐘の鳴る丘」に出演した。
・なお、松山市駅前にある井上の胸像の名盤の文字は、山本有三の筆になる。山本有三の小説「真実一路」「路傍の石」などの舞台化、映画化を通して、二人の親交が深かったといわれている。
・昭和25/1950年、没、享年69歳。墓は、伊予郡砥部町大南にある。






井上正夫の肖像


井上正夫の銅像
伊予鉄道松山市駅前


井上正夫記念館
伊予郡砥部町拾町
真砂家


木子 七郎
(きご しちろう)
(きご しちろう)
<木子七郎の歴史>

・木子七郎=大正期〜昭和期の西洋建築家。萬翠荘・愛媛県庁舎などを設計。
・木子家は、日本の建築界の名門であり、室町時代までその系譜を遡ることができると言われている。先祖代々、宮中の修理職棟梁の家柄で、明治維新前から宮中に奉仕し、東京遷都後に宮内省に入った。
・木子七郎の父-木子清敬
(きよよし)は、弘化元/1845年、山城国上京区中立売通宝町(現在の京都市上京区)に生まれる。なお、木子家は、先祖代々、宮中の修理職棟梁の家柄で、明治維新前から宮中に奉仕し、東京遷都後に宮内省に入った。また清敬は、明治22/1889年〜明治34/1901年まで、工科大学造家学科において、日本で初めて大学における日本建築史の授業を受けもち、さらに、顧問として、日光東照宮や東大寺大仏殿の修復工事にも携わった。
・木子七郎は、明治44/1911年、東京帝国大学建築学科を卒業して大林組に入社。

・大正2/1913年、大阪に個人の設計事務所を開設。日本赤十字病院関係の建物の設計に当たる。
・大正10/1921年より、フランスをはじめ多くの外国を訪問し、建築の歴史・様式を学び、公共建築をはじめ銀行・事務所ビル・学校・病院などの設計を手がける。
・大正11/1922年、「萬翠荘」、大正13/1924年、「石崎汽船本社ビル」完成。
・大正12/1923年に、東京の麹町に東京事務所を開設し、大正15/1926年まで続く。
・昭和4/1929年、「愛媛県庁舎」完成。
・昭和12/1937年、フランスよりシュバリエ・ド・ラ・レジオンドヌール勲章を受賞。
・木子七郎と松山との関係は、妻-カツの父が、愛媛県松山出身のニッタ(株)の創立者で、実業家の新田長次郎であったことから、愛媛県内にも多くの建造物を残した。

・昭和30/1955年、没、享年71歳。



木子七郎の肖像


木子七郎設計の萬翠荘
松山市一番町


下村 為山
(しもむら いざん)
(しもむら いざん)
<下村為山の歴史>

・下村為山=明治期〜昭和初期の洋画家、俳人。後年は俳画(近代南画)の第一人者。
・慶応元/1865年、松山城下出渕町(現、松山市三番町)において、松山藩士-下村純の次男として生まれる。本名:純孝、号:為山・留華洞・不觚庵・雀蘆。俳号:冬邨・百歩・牛伴。
・幼少より絵を好む。明治15/1882年、18歳で上京。初め岡松甕谷の紹成書院に漢学を学び、のち本多錦吉郎の画塾「彰技堂」に入塾。23歳にして小山正太郎の不同舎に学ぶ。
・明治22/1889年頃、従兄の内藤鳴雪を介し、同郷の正岡子規と知り合い、俳句の研究に熱中する。俳句については門弟、絵に関しては師匠格で互いに協力・啓発し合う仲となる。子規も幼少から絵を好み、子規も負けずその論争はしばらく続いたが、新鋭洋画家の専門理論には子規も歯がたたずついに屈服する。彼の説く写生論は子規の俳句革新に大きい影響を及ぼした。
・明治23/1890年の内国勧業博覧会出品の「慈悲者殺生」は二等妙技賞を受賞し、新鋭洋画家として脚光を浴びる。同24/1891年の明治美術会春季展に「池辺秋暁」、同年秋季展に「敗荷鴛鴦図」を連続出品し好評を博し、中村不折らと同門の四天王また双璧とうたわれ、大いに将来を嘱望される。
・後、俳画の研究に没頭、改めて南画を見直し、次第に日本の伝統絵画にひかれ、遂に、本業の洋画を投げうち日本画に回帰することとなる。
・明治27/1894年春から一年あまり松山に私事帰郷、同年3月、松山に日本派俳句会の「松風会」が結成された時は、その推進力となった。それまでに彼は洋画と日本画を学び、特に俳画に一家をなしていた。『ほとゝぎす』(松山版)創刊号表紙の題字は牛伴の筆といわれ、日本派最初の句集『新俳句』(明31)や『ホトトギス』に彼独特の俳画などの作品が多数あり、画才のほどを示した。
・晩年は俳画家として新境地を開いき、牛伴という号で、俳人としても知られる。
・子規の没後は郷里に帰り、俳画の研究に没頭し、俳画家として名声を博す。後年彼は「俳句は日本特有の文芸、俳画もまた日本芸術の光」といい,古今独歩、俳味横溢の画境を開拓し、現代日本水墨画に新境地を開いた。
・昭和20/1945年、長野県へ疎開、さらに富山県へ移り、この間、東京空襲により家財一切を失い、右半身不随・臥床・清貧のうちに、昭和24/1949年に疎開先の富山で没した。享年85歳。墓所は、東京港区の青山墓地にある。
・松山市章のデザインや、松山市末広町/正宗寺にある「正岡子規埋髪塔」及び「鳴雪先生髭塔」のデザインも手掛けている。




下村為山の肖像


下村為山の絵
「明治31年・子規庵の句会の絵」


杉浦 非水
(すぎうら ひすい)
(すぎうら ひすい)
<杉浦非水の歴史>

・杉浦非水=明治期〜昭和期の商業美術家、近代日本のグラフィックデザイナー。
・明治9/1876年、松山城下に生まれる。本名:杉浦朝武

・明治30/1897年、松山から日本画家を志して上京し、黒田清輝がパリ万博から持ち帰ったアール・ヌーボー様式のポスターを見て「図案家」になる事を決意する。
・明治34/1901年、東京美術学校(現・東京芸大)日本画科を卒業。
・明治43/1910年、「三越呉服店」の「図案主任」(デザイナー)になり、以後ポスターや広報誌の表紙デザインを描く一方、日本初の地下鉄開通や、観光案内のポスター、たばこのパッケージデザイン、書籍の装丁を手がける。
・大正11〜13年のヨーロッパ遊学を経て、大正14/1925年に、ポスター研究団体七人社を結成するなど、初期商業デザイン界に指導的な役割を果たした。
・昭和10/1935年、多摩帝国美術学校(現、多摩美術大学)校長となる。
・与謝野晶子の『夢之華』、田山花袋の『髪』、最初の円本の改造社版『現代日本文学全集』などの装幀ほか『非水百花譜』20集(昭和4〜9/春陽堂)など著書も多い。
・正岡子規、高浜虚子、河東碧梧桐などを輩出している俳句王国の松山市の生れであることから、俳句の教養は幼い頃から身についており、「翡翠郎」という俳号で俳句を作り、明治38/1905年に、東京中央新聞入社に際し、非水と改めるまでこの号を用いていた。
・与謝野晶子の激烈な歌集『みだれ髪』が出版されるや、藤島武二のアールヌーボー風の表紙にも刺激されて、「みだれ髪カルタ」をつくるなど、非水には詩的精神が濃厚に漂っていた。
・昭和40/1965年、没、享年89歳。墓所は、松山市祝谷東町の常信寺にある。



杉浦非水の肖像


杉浦非水の絵


土居 市太郎
(どい いちたろう)
(どい いちたろう)
<土居市太郎の歴史>

・土居市太郎=明治期〜昭和期の将棋棋士(名誉名人)、関根金次郎十三世名人門下、日本将棋連盟会長。
・明治20/1887年、温泉郡三津刈屋町で生まれる。
・明治40/1907年、関根金次郎に入門。弟弟子に金易二郎、花田長太郎、木村義雄、渡辺東一らがいる。
・明治44/1910年に四段。大正4/1915年に七段。大正6/1917年、10月に師の関根を破った坂田三吉八段を破り、坂田の名人への野望を砕く。同年に八段。
・その結果として、大正10/1921年に、関根が十三世名人を襲位するが、実質は土居が実力トップであったといわれている。
・その後、師の関根と離れて、「将棋同盟社」を率いていたが、昭和12/1923年の関東大震災を受けた棋界再編で、昭和13/1924年に、関根の「東京将棋倶楽部」と大崎熊雄七段の「東京将棋研究会」と合同し、「東京将棋連盟」を結成し初代会長となる。
・昭和15/1940年に、第2期名人戦で木村義雄に挑戦するも、土居は、52歳と盛りを過ぎており、1勝4敗で敗退する。
・昭和24/1949年に引退。
・昭和29/1954年に名誉名人を贈られる。
・昭和48/1973年、肺癌のため死去。葬儀は将棋連盟葬として行われた。
弟子に金子金五郎、萩原淳、梶一郎、加藤博二、大内延介らがおり、梶は土居の次女と結婚している。

<名誉名人>

・土居市太郎に名誉名人が贈られたことから、「名誉名人は、名人になっていない者の称号」という認識が生じ、後に名誉名人の称号を打診された升田幸三が「土居名誉名人と同じではいやだ」と言って断り、実力制第四代名人を授与されている。




土居市太郎の肖像


「坂田三吉(左)・土居市太郎(右)」

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富岡 鉄斎

(とみおか てっさい)
(とみおか てっさい)
<富岡鉄斎の歴史>

富岡鉄斎=明治〜大正期の文人画家、儒学者。日本最後の文人と謳われる。
・天保7/1837年、京都三条通新町東の法衣商・十一屋伝兵衛/富岡維叙の次男として生まれる。幼名:不明、通称:猷輔、後に、道昴・道節と称し、明治のはじめ頃、一時名を鉄斎としたが、のち百錬に改名。字:無倦、号:鉄斎。別号:鉄人・鉄史・鉄崖などあり。
・耳が少し不自由であったが、幼少の頃から勉学に励み、はじめ、富岡家の家学である石門心学、15歳頃から大国隆正に国学・勤王思想、岩垣月洲らに漢学・陽明学・詩文などを学ぶ。
・安政2/1855年、18歳頃に、女流歌人/大田垣蓮月尼に預けられ薫陶を受ける。翌年、南北合派の窪田雪鷹、大角南耕に絵の手ほどきを受け、南画を小田海僊に、大和絵を浮田一宸ノ学んだ。
・文久元/1861年には長崎に遊学し、長崎南画派の祖門/鉄翁・木下逸雲・小曽根乾堂らの指導を受けた。
・文久2/1862年に山中静逸と出会いをきっかけに、画業で生計を立て始めた。この頃私塾を開設。藤本鉄石・板倉槐堂・江馬天江・松本奎堂・平野国臣らと交遊した。
・維新後の30歳から40代半まで、大和国石上神宮や和泉国大鳥神社の神官(宮司)を務め、この頃、大和国の式内社/加夜奈留美命神社を復興している。
・彼の座右の銘である「万巻の書を読み、万里の道を往く」を実践し、明治7/1874年には、松浦武四郎との交流から北海道を旅し、アイヌの風俗を題材にした代表作「旧蝦夷風俗図」を描いている。
・30歳で中島華陽の娘と結婚。長女が生まれるが妻とは死別。のちに再婚し長男を授かる。明治14/1881年、兄-伝兵衛の死に伴い京都薬屋町に転居し、終の住処とする。
・教育者としても活躍し、明治2/1869年、私塾立命館で教員になる。明治26/1893年、京都市美術学校で教員に就任し、明治37/1904年まで修身を教える。
・大正13/1924年、大晦日、持病であった胆石症が悪化し、京都の自宅にて没する。享年90歳。

<鉄斎の画業>

・鉄斎の画業は、歳を重ねるごとに次第に認められ、順風満帆であった。京都青年絵画研究会展示会の評議員(明治19/1886年)、京都美術協会委員(明治23/1890年)、京都市立日本青年絵画共進会顧問(明治24/1891年)、帝室技芸員(大正6/1917年)、帝国美術院会員(大正8/1919年)。この間の明治29/1897年に、田能村直入・谷口藹山らと日本南画協会を発足させ、南画の発展にも寄与しようとした。また、今尾景年を通して橋本雅邦と知己となり、明治関東画壇との交流も深まった。
・鉄斎は多くの展覧会の審査員となったが、自らは一般の展覧会に出品することはあまりなかった。明治30/1897年以降、自らが評議員である日本南画協会に定期出品している。賛助出品という形で、大正9/1920年、聖徳太子御忌千三百年記念美術展に「蘇東坡図」を出している。また大正11/1922年、大阪高島屋で個展を開催している。

<「最後の文人」鉄斎>

・「最後の文人」と謳われた鉄斎は、学者(儒者)が本職であると自認し、絵画は余技であると考えていた。また「自分は意味のない絵は描かない」「自分の絵を見るときは、まず賛文を読んでくれ」というのが口癖だったという。その画風は博学な知識に裏打ちされ、主に中国古典を題材にしているが、文人画を基本に、大和絵・狩野派・琳派・大津絵など様々な絵画様式を加え、極めて創造的な独自性を持っていた。彼の作品は生涯で一万点以上といわれる。80歳を過ぎてますます隆盛で、色彩感覚の溢れる傑作を描いた。生涯を文人として貫き、その自由で奔放な画風は近代日本画に独自の地位を築き、梅原龍三郎や小林秀雄らが絶賛。日本のみならず世界からもいまなお高い評価を受けている。



富岡鉄斎の肖像


鉄斎の三津魚市の図

11

早坂  暁
(はやさか あきら)
(はやさか あきら)
<早坂暁の歴史>

・早坂暁=昭和期〜平成期に活躍中の小説家、脚本家。
・昭和4/1929年、温泉郡北条町の商家で生まれる。本名-富田祥資
(とみたよしすけ)
・旧制松山中学を経て、海軍兵学校(江田島)在学中に終戦。被爆直後の広島の惨状を目撃している。
・旧制松山高等学校卒業後、東大医学部に合格するも、医業に疑問を持ち入学せず、日本大学藝術学部演劇学科に進学し同校卒業。
・新聞社編集長を経て、いけばな評論家として活躍。その後、千本以上の映画やドラマの脚本や小説、また、ドキュメンタリーや舞台脚本、演出なども手がけている。
・代表作に「天下御免・夢千代日記・花へんろ・ダウンタウンヒーローズ・華日記・昭和生け花戦国史・戦艦大和日記」など多数あり。
・特に、初期の必殺シリーズでは、脚本をはじめ、オープニングナレーションも多数手掛けており、既存の必殺シリーズとは趣の異なった内容で評価が高いようである。
・生家が遍路みちに面した大きな商家で、幼少よりお遍路さんに接してきたこと、また、遍路に置き去りにされ、生家が引き取って「妹」として育った少女が、広島で原爆に遭い死亡したと思われることなどから、四国八十八カ所遍路や、原爆に関する作品や論評活動も多く、生家をモデルにした「花へんろ』、胎内被爆者が主人公の「夢千代日記」につながっている。
・勉誠出版から『早坂暁コレクション』を刊行。初の単行本化となる長編小説『戦艦大和日記』や主なシナリオ作品を収録している。










早坂暁の肖像


早坂暁の代表作/夢千代日記

12

松浦 厳
(まつうら がんき)
(まつうら がんき)
<松浦厳の歴史>

・松浦厳=江戸時代末期〜明治期の日本画家。
・生年不詳。
・京都の岡本豊彦の門下森田樵眠に就き、四条派の画流を学んだ。松山で画塾を開き多くの後進を育てた。
・樵眠の荒っぽい絵に対して、堅い地味な絵を描いた。松山で画塾を開く前、京都画壇で名を成し、大阪の内国博覧会で「安宅の弁慶」が評判となったこともあったが、名利を求めない清潔な画人で、揮毫料も教授料もとらなかったという。花鳥を得意とし、松山市高岡町の弓敷天満宮に、明治24年作の絵馬「梅花美人図」が残っている。
・矢野翠鳳、桜井忠温は巌暉の手ほどきを受けた。三津浜には森田樵眠、天野方壺、岡本熊眠、松田南雅などの画人が住み、一種の文化的環境を形成していた。
・三津浜港のフェリー待合所には、松浦巌暉作「愛媛県三津魚市之賽況図」は、松山市中央卸売市場水産市場管理事務所蔵の拡大写真(原画は縦1.2m、横1.8m)が展示されている。
・大正元/1912年、没、享年?歳。



松浦厳暉の三津の魚市の図
松山市三津一丁目
フェリー乗り場

13

松田 三千雄
(まつだ みちお)

(まつだ みちお)
<松田三千雄の歴史>

・松田三千雄=江戸時代末期の文人、三津の豪商-三津の松田家(唐津屋)10代目。
・天明5/1785年、松山新町の素封家
(そほうか=金持ち、財産家)-永木甚五兵衛の二男として生れ、本名:信順(のぶまさ)は、三津町大年寄-松田方十の養子となり、養父の後を継いで大年寄りを在職する傍ら学を好んだ。号:渙卿(あきさと)・浩斎・寒桃・三千雄。
・俳人-栗田樗堂の孫娘/歴を妻としており、樗堂にとっては義理の孫にあたる。
・樗堂との親交が深く、また、豊かな財力をもって、三津の洲崎(現、三津一丁目)に「九霞楼」「帯江楼」という瀟洒な別邸を建て、各地の文人墨客たちと交流しその詩文を求め、『九霞楼詩文集』と題する漢詩文集を編纂しており、この書には頼山陽をはじめ、215人もの文人墨客が詩文を寄せている。
・九霞楼は、現在の三津一丁目の森家(鯛や)の東側辺りにあり、帯江楼は、さらにその東側にあったと云われているが、それらの跡を偲ばせるものは、残っていない。
・天保13年/1842年、没、享年58歳。



松尾芭蕉と栗田樗堂の句碑
松山市神田町
三津厳島神社

14

松山 容子
(まつやま ようこ)

(まつやま ようこ)
<松山容子の歴史>

・松山容子=昭和前期〜中期の舞台女優、映画女優、テレビ女優。
・昭和12/193年、松山市で銀行経営者の名家に生まれる。本名:田中曠子。
・県立松山南高校卒業してNHK松山支局の事務員となり、『アサヒグラフ』の表紙モデルを務めたことで、松竹映画の役員の目にとまり、松竹のニューフェイスとして入社し、旧芸名-松山清子。
・昭和32/1957年、6月4日公開の「勢揃い桃色御殿」に新人女優-松山清子として端役デビュー。11月19日公開の「侍ニッポン」で本格デビューを飾る。主に時代劇映画で活躍する
・昭和34/1959年、芸名を松山容子に改名する。
・昭和35/1960年、テレビドラマ「天馬天平」で演じた男装で新撰組と闘う勤皇の姫君-千也姫役が評判となり、この千也姫をモチーフとした「琴姫七変化」が製作され、2年間にわたり継続され、その容姿と華麗な立ち回りから「アクション女優の先駆け」として人気を博した。
・昭和43/1968年の「ボンカレー」発売以来、長らくパッケージモデルを務め、CM、ホーロー看板でも知られる。
・昭和46/1971年、「くれないお仙」や主演映画「めくらのお市」シリーズの原作者である棚下照生と結婚して、人気の絶頂期に芸能活動を縮小・休止し、事実上の引退となった。


<松山容子の「琴姫七変化」>

・琴姫七変化(時代劇テレビドラマ)は、読売テレビの制作により、日本テレビ放送網系列で、昭和35/1960年12月31日〜昭和37/1962年12月29日の間、全105話が放送された。大塚製薬の一社提供で、放送時間は、毎週土曜19:00〜19:30。
・主演は松山容子で、制作は日本電波映画。松山の容姿と次々変わる扮装、華麗な太刀さばきが評判となり、番組は2年にわたり継続され人気作品となった。
・徳川11代将軍・家斉の末娘ながら、柳生新陰流免許皆伝の腕前を持つ琴姫は、因習と追従に明け暮れる生活を嫌がり、御前試合で結婚相手候補の男たちを次々と打ち負かすと、江戸城を飛び出して旅に出る。姫装束から機に応じて小姓・若衆姿・股旅・鳥追い・芸者・渡世人等に姿を変え、行く先々で「許しませぬぞ!」の決め台詞とともに悪を懲らしめてゆく。第一部(前期)は、旅先で起こる事件を従者と共に解決する行状記、第二部(後期)は、城に戻った姫が、江戸の庶民を苦しめる悪を倒す物語となっている。



松山容子の肖像


松山容子の琴姫


「松山容子のボンカレー」

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丸山 定夫
(まるやま さだお)
(まるやま さだお)
<丸山定夫の歴史>

・丸山定夫=大正期〜昭和前期の映画・舞台俳優(新劇)。
・明治34/1901年、松山市北京町(現、二番町)で生まれる。
・丸山が8歳の時に父が亡くなり、中学の進学をあきらめて、職を転々とした。文学少年だった丸山は、その後戯曲に興味を持つようになり、広島を拠点として全国を回る「青い鳥歌劇団」に入団した。その時分知り合った榎本健一(エノケン)から、新劇を勧められたという。
大正13/1924年に上京して「築地小劇場」の研究生となった。その時の同期生には千田是也・山本安英・田村秋子がいた。
昭和3/1928年、劇団の中心人物であった小山内薫が死去して、劇団は分裂した。
昭和4/1929年、土方與志を新しい支柱として「新築地劇団」が結成され、以来昭和15/1940年の劇団解散まで、丸山は山本安英・薄田研二らと共に劇団の中心となって活躍した。その間エノケン一座に出演したり、PCL(後の東宝)の映画にも出演している。・丸山は、映画俳優としても名声があがり、代表作として「兄いもうと、妻よ薔薇のやうに、彦六大に笑ふ、巨人伝(レミゼラブルの日本版)、坊ちゃん(山嵐役)、忠臣蔵(吉良上野介役)」などがある。
昭和20/1945年、丸山は広島で原爆に遭い10日間苦しんだ後、8月16日に45歳の生涯を終えた。死を迎えた地である広島へは、移動演劇団「桜隊」として出発した。
・墓所は、京都市の知恩院、鎌倉市の妙隆寺にある。


<築地小劇場>

築地小劇場とは、関東大震災直後の大正13/1924年に、土方与志・小山内薫らが私財を投じて有志とともに、東京築地二丁目に設立した日本で最初の新劇専門の劇場およびその劇団をいう。劇場は、80坪で定員500名弱、ゴシックロマネスク様式の一階建の小劇場で、翻訳劇・創作劇を実験的に上演した。劇団は昭和5/1930年に解散、劇場は昭和20/1925年に戦災で焼失してしまった。



丸山定夫の肖像


丸山定夫の坂本龍馬

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三輪田 米山
(みわだ べいざん)
(みわだ べいざん)
<三輪田米山の歴史>

三輪田米山=江戸末期〜明治期の書家、神官、国学者、漢学者、歌人。
文政4/1821年、久米郡日尾八幡神社神官-三輪田清敏の長男としてに生まれる。本名:常貞または清門、幼名:秀雄、字:子謙、号:米山、別号:得正軒主人。
・神官宅は鷹子村、神社は南久米村であるが、両所は村境を挟んで隣接しており、出身地に鷹子村・南久米村の二様があるのはこのためである。
・嘉永元/1848年、父-清敏、没。神官を嗣ぐ。国学・漢学・和歌を、国学者-大国隆正に学ぶ。また書を日下陶渓(字:伯巌)を手本に学び、僧明月・細井広沢・王羲之の書法を研究する。
・明治4/1871年、旧松山県より日尾八幡神社祠官に任命される。
・明治13/1880年、隠居。
・明治41/1908年、没、享年88歳。墓所は、神社・自宅に近接する松山市鷹子町の四国霊場第49番札所-西林山浄土寺にある。

<米山の書>

・僧明月、僧懶翁とともに伊予三筆と並び称される。
・愛媛県中予地方を中心に、約3万の揮毫を残す。酒が入らぬと良い書は書けぬと、二〜三升の酒を浴びるように飲み、倒れる寸前まで飲んで、おもむろに筆を取るのが常であったという。書風は豪放磊落にして気宇壮大、雄渾にして天衣無縫、何物にも捉われない破格の書体は、近代書の先駆として、今なお独自の輝きを放つ。また、明治天皇の侍候を務め書の訓導にあたった。

<三津厳島神社の米山揮毫の石柱>

・松山市神田町の三津厳島神社の境内入口に、明治18/1885年に、米山が揮毫した「年豊人楽(としゆたかにして ひとたのしむ)の石柱が建っている。



三輪田米山の肖像


米山書の注連石
「年豊人楽」

松山市神田町
三津厳島神社

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森   一生
(もり かずお)
(もり かずお)
<森一生の歴史>

・森一生=昭和期の日本の映画監督(通り名で「もり いっせい」とも呼ばれる)。
・大正14/1911年、松山市に生まれる。
・今治中学(現、今治西高校)から松山中学(現、松山東高校)卒業を経て、京都帝国大学文学部を卒業。
・昭和8/1933年、日活太秦撮影所に入社。京都大學時代、郷土松山の先輩で、尊敬する映画監督の伊丹万作の許を訪れ、弟子にして欲しいと懇願するが、「ちゃんと学業を終えてからにしなさい」と諭されたという。
・その後、新興キネマに移り、伊藤大輔、犬塚稔らの助監督を経て、昭和11/1936年、「仇討膝栗毛」で監督デビューする。その後、新興キネマを吸収した大映に移籍し、「大阪商人」などを監督するが、程なく応召になる。
・黒澤明とは、ほぼ同世代の映画人ということで戦前から友誼を結び、復員後、黒沢脚本の「決闘鍵屋の辻」を撮り、注目された。
・昭和34/1959年には、勝新太郎と市川雷蔵を主役にした「薄桜記」が好評を博し、以降多くのプログラムピクチャーを監督した。
・昭和42/1967年の「ある殺し屋」も、新しいタイプの現代劇として、主演の市川雷蔵と共に注目された。
・昭和46/1971年の大映映画倒産後は、テレビドラマなどのの演出を手がけ、「木枯し紋次郎」「座頭市物語」「横溝正史シリーズ」など多くの作品を残した。
大映時代劇の黄金期を支えた功労者であり、その独特の語り口はファンも多い。また子供好きで、子役の活躍する「大魔神逆襲」を撮ったとき、「子供というのは神さまだね」と語っていたという。
・平成元/1989年、没、享年79歳。

<森一生の主な作品>

・主な作品としては、「
座頭市シリーズ」「日露戦争勝利の秘史 敵中横断三百里」「赤胴鈴之助・三つ目の鳥人」「若き日の信長」「薄桜記」「新源氏物語」「新・忍びの者」「忍びの者」「忍びの者 新・霧隠才蔵」「大魔神逆襲」「ある殺し屋」「四谷怪談 お岩の亡霊」などがある。



森一生の肖像


撮影中の森一生監督

18

森田 樵眠
(もりた しょうみん)

(もりた しょうみん)
<森田樵眠の歴史>

・森田樵眠=江戸末期〜明治初期の日本画家。
・寛政7/1795年、
和気郡三津浜村に生まれ、当地三津の商人たちに支持されながら活躍した画家。号:樵眠、別号:養神斎・惺々翁・魯樵などがあるが、作品には森田樵眠と記されているものが多い。
・樵眠の生涯については、ほとんど分かっていない。特に、社や寺院に奉納される絵馬の作品が多く、松山市平田町の阿沼美神社や、伊予郡中山町の大興寺の絵馬などを残しており、今治藩の絵師-山本雲渓と並んで、中予の代表的絵馬の作家として知られている。
・樵眠は、屏風や掛け軸にも筆を執っているが、それらの遺品はあまり多くない。始め京都の四条派の祖-松村呉春の門人で、備前の岡本豊彦に絵を学び、伊予に四条派を伝えた人としても名高い。
・門下生に岡本熊眠・松岡南雅・松浦厳暉を生み、三津の画家で名高い天野方壷も樵眠に学んだと伝えられている。
・明治5/1872年、没、享年78歳。



森田樵眠の絵/鶴

19

森  律子
(もり りつこ)
(もり りつこ)
<森律子の歴史>

・森律子=明治後期〜昭和期の新派女優、映画女優。
・明治23/1890年、東京市京橋区日吉町(現、東京都中央区)に生まれ。父は愛媛県松山出身の弁護士で衆議院議員の森肇。この森肇は、長髪がトレードマークの熱血漢であると同時に、癇癪を起こすと自宅で銃や日本刀を振り回すような暴君でもあり、法曹界の名物男として有名であった。
・森律子は、日本映画の最初期の女優として、またお嬢様女優として話題を集め、喜劇を得意とした。
・跡見高等女学校卒業後、築地のサンマース、女子語学校専科で英語を学ぶ。
・明治41/1908年、川上貞奴の帝国女優養成所に入り、帝劇女優第一期生となる。しかし女優になったことで、跡見高女の同窓会から除名され、第一高等学校生であった弟は自殺した。そして、益田太郎冠者の喜劇「ドッチャダンネ」などに主演しスターとなる。
・大正2/1913年には、半年間の旅程で欧州訪問。
・昭和4/1929年に松竹に移り、昭和10/1935年以降は、新派に移った。
・昭和31/1956年、女歌舞伎の名跡-4代目桐大内蔵を襲名した。帝劇のスター女優として華やかな生活を送る一方、新しき女として迫害や中傷も多く受けたという。

・女優の森赫子は姪で、後に養女にしいる。
・昭和36/1961年、没、享年72歳。





森律子の肖像


森律子の舞台/中央の芸者

20

八木 彩霞
(やぎ さいか)

(やぎ さいか)
<八木彩霞の歴史>

・八木彩霞=大正〜昭和期の洋画家。
・明治19/1886年、松山市北夷子町(現、三番町)で生まれる。本名:熊次郎。
・明治43/1910年、愛媛師範学校を卒業し、大正5/1916年まで愛媛県内の小学校で教鞭を執る傍ら、古代文様デザインの研究、色彩学の論文発表により、愛媛県知事から表彰される。
・大正5/1916年、横浜市元街小学校に転勤し教師として勤務する。
・大正7/1918年、「森永ミルクキャラメル」のパッケージングデザインを作成、現在もそのままで、90年余のロングランとなる。
・同年、関東連合教育会付設資料展に、油彩作品5点「現代の横浜」「開港当時の横浜」「ハリス」「ペリー」「井伊大老」を出展する。
・大正9/1920年、宮内省より明治天皇のご尊像の謹写のご用命を受け奉納する。
・大正11/1922年、再び、明治天皇のご尊像の油彩によるご下命があり、1面は宮内省にもう1面は明治神宮に奉納し宝物殿に現存する。
・同年、松平久松家-15代当主-久松定謨伯爵の久松家別邸の建築にあわせて、愛媛県松山市「萬翆莊」の壁画を依頼される。
・大正14/1925年まで横浜市元街小学校に勤務、同年退職してパリへ留学し、ソルボンヌ大学文学部に在籍、グランショミール美術学校で学ぶ。この時、藤田嗣治画伯、藤原義江(テノール歌手)、石黒敬七(柔道をフランスに紹介)、蕗谷紅児らとの交友を深める。
・昭和元/1926年、「サロン(宮殿での大展覧会)」に3点入選し、ソルボンヌ大学よりゴン・アーティストの称号を取得する。
・昭和2/1927年、帰国する。
・昭和3/1928年、東京目黒にアトリエ完成、以降創作活動を続ける。
・昭和43/1968年、藤田嗣治の訃報を知り、以降絵筆をもたなくなる。
・昭和44/1969年、没、享年83歳。




八木彩霞の肖像


八木彩霞の絵
「萬翠荘の壁画/神奈川お台場」

21

吉田 蔵澤
(よしだ ぞうたく)
(よしだ ぞうたく)
<吉田蔵澤の歴史>

吉田蔵澤=江戸中期〜末期の松山藩士、南画家
享保7/1722年松山城下において、松山藩士-吉田直良の長男として生まれた。本名:良香、通称:久太夫。
・松山藩に仕え、功績顕著で、剛直爽快な人柄は長く士の規範と語り伝えられた。その墨竹は古今独歩、神品といわれ「竹の蔵澤」といわれた。
・宝暦4/1754年、この頃より南画研究を深める。
宝暦13/1763年、
風早郡や野間郡の代官となり、その在職中、善政を行い信望を集めた。一方、絵を好み、20歳代に狩野派系の画を学ぶ。
明和6/1769年、風早・野間両郡代官となる。
・安永元/1772年、この頃「予章人蔵澤」の落款あり。「多功入道」、「筆硯精良人生一楽」の印章使用。50歳代には南画の世界に向かう。南画当初は、画題も多様で、誠実な描法であるが、生硬な作風であった。
安永8/1779年、この頃より落款
(らっかん=書画の署名/捺印)が乱れ多様となる。天明元/1781年、持筒頭(もちづつがしら=鉄砲隊の長)となり、中央藩政に参画。
・天明4/1784年、禄を200石に加増され、者頭(ものがしら=足軽大将)
に昇進。
天明8/1788年、「酔桃館主人」の落款が、この頃より始まる。寛政2/1790年、この頃独自の画風を確立。自在の境地に達す。
・70歳代に入り、変幻自在な境地を見せる墨竹画に至る。その完成度は「竹の蔵澤」と言われる程である。
寛政8/1796年、円熟完成の境地に入り、77歳まで名作が多く生まれる。
・寛政9/1797年、雀印を後続者-大高坂南海に譲り、一時、魚印を使用。その後、寅印を愛用した。
・寛政10/1798年、山田五郎兵衛事件に連座、役を免ぜられ隠居。この年、墨竹に激しい誇張、緊迫感に満ちた傑作が多く生まれている。
・享和元/1801年、この年の作品が最後で、優品が多い。
・後に、正岡子規や夏目漱石も彼の墨竹をめで、句を詠んでいる。「蔵澤の竹も古しや庵の秋」(子規)/「蔵澤の竹を得てより露の庵」(漱石)
享和2/1802年、没、享年81歳。墓所は、松山市本町5丁目の大法寺にある。



吉田蔵澤の墨竹


吉田蔵澤の墓
松山市本町5
大法寺





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