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藩主・武将

         河野家時代 河野 通信(23)
(こうの みちのぶ)
河野 通有(26)
(こうの みちあり)
河野 通盛(27)
(こうの みちもり)
河野 通春(34)
(こうの みちはる)
河野 通直(39)
(こうの みちなお)
河野家家系図
加藤家時代 加藤 嘉明
(かとう よしあき)
加藤 明成
(かとう あきなり)
加藤 忠明
(かとう ただあき)
足立 重信
(あだち しげのぶ)
佃  十成
(つくだ かずなり)
堀  主水
(ほり もんど)
蒲生家時代 蒲生 忠知
(がもう ただちか)
松平家時代 松平 定行
(まつだいら さだゆき)
松平 定頼
(まつだいら さだより)
松平 定長
(まつだいら さだなが)
松平 定直
(まつだいら さだなお)
松平 定英
(まつだいら さだひで)
          松平 定喬
(まつだいら さだたか)
     
            松平 定功
(まつだいら さだかつ)
 
松平 定
(まつだいら さだきよ)
松平 定国
(まつだいら さだくに)
松平 定則
(まつだいら さだのり)
松平 定通
(まつだいら さだみち)
松平 勝善
(まつだいら かつよし)
松平 勝成
(まつだいら かつしげ)
松平 定昭
(まつだいら さだあき)
松平 勝成
(まつだいら かつしげ)


藩 主・武 将
河 野 家 時 代


河野 親経(20)
(こうの ちかつね)
(こうの ちかつね)
<河野親経の歴史>


・河野親経=生没年不詳。平安中期の伊予国の武将。越智氏42代、河野氏20代。通称/河野新太夫。父/北条太夫親孝、母/不明。
・親経は伝承的な人物で、風早郡河野郷に移り高縄城に拠り、以後、この地を河野家の本拠地とした。
・親経には男子がなく、伊予の国司・源頼義(988〜1082)の四男/三島四郎を養子とした。頼義は奥州での活躍の後、伊予国の国司となり、この間、もし男子が産まれれば大明神の氏子として、この国に残し仕えさせますと祈願し、産まれた子が後の親清であったと言われている。

<頼義と親経が建立・再興した寺院と薬師堂>


・伊予の国司・源頼義と河野親経が協力あるいは単独で、建立・再興した寺院及び49の薬師堂の今も幾つかが残っている。
・繁多寺(50番札所-真言宗・松山市畑寺)は、頼義・親経が再興。49薬師堂の一つを建立。
・石手寺(51番札所-真言宗・松山市石手)は、延久5/1073年、頼義・親経が再建。本尊は薬師如来で、伊予七薬師の一つ。
・東禅寺(真言宗・今治市蔵敷)も、頼義・親経の再建、旧薬師堂はもと国宝。
・福王院(西条市北条福王院)は、頼義が京都に建立した七薬師を移したもの。49薬師堂の一つ。
・浄明寺(真言宗・西条市丹原町)は、古くは道場寺といって念仏の寺であったが、後に頼義・親経によって再建。寛永12/1635年に浄明寺。現在の本尊は不動明王。
・薬師堂(松山市北条-庄)は、頼義と親経の建立。
・医王寺(真言宗・東予市川内町北方)は、延久3/1071年、頼義の再建。薬師如来を本尊とする。
・大蓮寺(真言宗・松山市東方)は、延久4/1072年、頼義の再建。
・佛性寺(天台宗・松山市菅沢)は、頼義・親経による再建の伝え。本尊は十一面観音である。






加藤一青作
河野親経の兜


石手寺本堂(薬師寺)
西松山市石手/石手寺


源頼義の肖像画





河野 親清(21)
(こうの ちかきよ)
(こうの ちかきよ)
<河野親清の歴史>


・河野親清=生没年不詳。平安時代後期の伊予国の武将。後に通明(みちあき)に改める。伊予守・源頼義の四男で、河野親経の養子(妻/親経の女)となって家督をつぐ。
・永暦元/1160年に伊予権介となり、風早郡河野郷の高縄山城を本拠とし、越智姓をあらため河野姓を名乗った。通称/三郎四郎・河野冠者。
・親清の経歴については、伝承的な要素が多い。『予章記』では、親清を源頼義の四子としているが、源家の史料にはその史実は認められないという。

<高縄神社の由緒>

・往時、河野氏の祖先とされる越智益躬(おちのますみ)(別名、越智高縄)が、高縄山の頂上に居城を築き、大山積神を尊崇していたという。そして、新羅征討に従軍の節に、大勝を得てから一層敬神の念を深め、後に社殿を造営し一族の氏神として篤く祀ったとされる。
・保延2/1136年に河野親清が、ト占の結果、現在の地(松山市宮内)に奉還して「高縄三島神宮」と称し、神田を寄進し祭祀を執行した。
・福島正則が伊予領主になってからは、神田を没収したため社運衰えた。
・慶長5/1600年、松前城の将・中島勝右衛門の放火で神器宝物が灰塵となった。
・その後、松山城主となった松平・久松氏が社殿を再建し、明治3/1870年に、社号を「高縄神社」と呼称、同4/1871年に郷社に列し、同28/1895年に県社に昇格して現在に至っている。




高縄神社
西松山市石手
石手寺



河野 通清(22)
(こうの みちきよ)
(こうの みちきよ)
<河野通清の歴史>


・河野通清=生年不詳養和元/1181年。平安時代末期の河野氏の惣領。伊予国衙の在庁官人。河野新太夫、伊与権介、伊予守。父/河野親清、母/北条太夫・越智盛親の女。子/河野通信・甲曽通経・河野通孝。
・治承4/1180年の冬、各地の源氏があいついで反平氏の兵をあげ、平家と源氏の戦いが始まった時、通清は伊予国で反平氏の行動を起こし、翌、治承5/1181年には、伊予国を監督・統率した。
・養和元/1181年、平氏方の田口成良(たぐち しげよし)と、備後国の住人・奴可入道西寂(ぬかにゅうどう せいじゃく)伊予へ派遣し、通清を攻めさせた。西寂は3千余騎の兵を率いて、通清の立て籠もる高縄山城を攻めたて、清通は、伊予国風早郡高縄山城(松山市北条)に立て籠もって抵抗したが、味方から裏切り者が出て大敗し、最後は城から打って出て壮烈な戦死を遂げた。
・通清の墓所は、松山市小川の「河野通清供養塔」。
・通清の死後、子の通信があとを継ぎ、国内の平氏勢力を一掃した。

<「高縄山城」はどこにあったか?>
この山を居城とするにはどう考えても不向きで

・河野氏が挙兵当初以来、一族の本拠の城として絶えずその名があげられていた「高縄山城」はどこにあったのであろうか。こんな山深く険しく、高い所に城があるわけがない。集落もなく、戦略的価値も見出せないが、古い文献にはしばしば高縄山城に触れるものが多い。
・つまり高縄山城は、一般には高縄山系に連なる、風早全域の河野氏の支配する城々の総称と捉えているようである。
・海抜 986m の高縄山山頂は、旗揚げなどで一時的に軍用に使われたのかも知れないが「楯籠(たてこ)もる」城には相応しいとは言えない。当山麓の台地に居館を置き、農耕地を展開し、武士団の常住可能な条件を備えている場所が近くにある城は、その東端に位置し、 特に高縄山から真西へ流れる河野川を挟むように配された「高穴(たこな)城」「雄甲城(おんごう)城(260m)」「雌甲(めんごう)(192m)」、および北東に屹立する「高穴(たこな)城(292m)の諸城の三城と、背後にそびえる高縄山一帯を総称して「高縄山城」と言ったのではないかと『北条市誌』には記載されている。

<河野通清に関する伝承-1>

・河野通清は、河野家の当主の名前に「通」という字を、最初に名前につけた人物。父/河野親清、母/河野親経の女。
・親清には子がなったことから、通清の母は大三島の大山積神に、子を授かるようにと祈願し、その願いが通じ男児が生まれた。三島明神から授かった子であることから「神に通じた子」とされ、通清という名前がつけられた。そして、それ以後の河野氏は当主が、代々「通」の字を用いるようになったと伝えられている。

<河野通清に関する伝承-2>

・松山市川の郷甲167番地にある三島神社は、往時、河野通清が、この山中に隠れ住み、氏神として三島大神(大山積神)を勧請し、子孫永住の地と定めた場所と伝えられている。

<河野通清に関する伝承-3>

・通清の父・親清には子が生まれなかったので、妻が河野家の血を残すため、大三島神社の大宮司と密通し産まれた子であるという説もある。
・『予章記』は,親清の妻が三島神社(大山祇神社)に参籠し、三島の神の化身である大蛇によって身罷って誕生したのが通清であるとの伝承を記している。

<河野通清・通信の高縄山城>

治承4/1180年12月、河野通清が、九州の菊池氏らによる反乱(鎮西反乱)などと呼応して、高縄山城で反平氏の兵を挙げ、平維盛の目代を追放した。
・平家方である備後国の住人・奴可(額)入道西寂が討伐軍として伊予国へ攻め寄せ、通清は翌、養和元/1181年の初めころ、高縄山城で敗死した。通清が討たれた時、子の通信は、母方の伯父である安芸の奴田次郎のところ(広島県三原市)にいたという。
・奴可入道西寂は、四国の反乱を平定したのち、備後国鞆へ押し渡り、酒宴を開いていたところへ、河野通信が百余人の兵を率いて急襲した。不意を突かれた西寂は生け捕られ、通信は父の仇である西寂を伊予国の高縄山城へ連れて行き、鋸で首を斬ったとも磔にしたとも伝えられている。






高縄山山系


高縄山頂上


河野通清供養塔
松山市小川



河野 通信(23)
(こうの みちのぶ)
(こうの みちのぶ)
<河野通信の歴史>

・河野通信平安末期〜鎌倉時代初期の伊予国の武将、伊予水軍の将(始祖)、河野通清の子、一遍上人の祖父。
・保元元/1156年-貞応元/1222年、
平安末期-鎌倉時代初期の伊予国の武将・伊予水軍の将・河野通清の子・一遍の祖父
・治承4/1180年に、源頼朝が反平氏の兵を挙げると、それに呼応し、治承5/1181年に、父/通清と共に本拠の伊予国風早郡高縄山城に拠って平維盛の目代を追放した。しかし伊予内外の平氏方の総攻撃を受け、通清は同城で討ち死にした。その後、通信は高縄半島でゲリラ戦を展開し、進入していた備後国の額入道西寂を倒し、阿波国の田口成直を喜多郡比志城(現、大洲市)で撃破して主導権を握った。
・文治元/1185年、源義経が平氏追討のため四国へ下ってくると、通信は軍船を率いて屋島へ赴き、不在中に田口教能の襲撃を受けるが、志度合戦で義経に軍船を献上して源氏方に加わった。壇ノ浦の戦いにも参加し、通信の軍船が中堅となって活躍した。戦後は鎌倉幕府の御家人となり、守護職は与えられなかったものの、伊予国内の一部の御家人を統括する強い権限を認められた。
・文治5/1189年の奥州合戦に従軍。頼朝の死後は、梶原景時の変にも加わっている。
・通信の子の通政が西面武士として、院庁に仕えていたことから、通信は、承久の乱(3/1221年)で後鳥羽上皇方につくが、朝廷方が敗北すると通政と共に領地へ戻り、高縄山城に籠もって反抗を続けた。しかし、翌年に幕府方に居城を攻められ降伏、捕虜となって陸奥国江刺に流罪となり通政は斬られ、所領の多くは没収された。
・通信は、貞応元/1222年、江刺郡稲瀬(現、岩手県北上市稲瀬町)にある国見山極楽寺でに没した。享年68歳。墓所は、岩手県北上市稲瀬町水越-聖塚にある。
・通信の墓所は、現在も稲瀬町水越地区に聖塚として残る。孫にあたる一遍が全国を遊行した様子を描いた絵巻物である「一遍上人絵伝」に、弘安3/1280年に、祖父の墓で供養を行う様子が描かれていることが、この墓所を発見する手がかりになった。
・河野本家は、ひとり幕府方に付いた通信の子の通久によって辛うじて存続することとなったが、以後伊予国内での影響力が低下することとなった。

<河野通信と源平合戦>

河野通信は元暦2/1185年の源平合戦の時鎌倉方に従い、屋島・壇ノ浦の合戦で、河野水軍を率い源義経の軍に加わり源氏の勝利に貢献した。
・この戦いにより、平家は、25年にわたる栄耀栄華の幕を閉じる。勝利を収めた清和源氏の頭領・源頼朝は、西国支配を確立し、鎌倉に鎌倉幕府を開くことになる。この戦功で河野通信は守護・佐々木盛綱(ささき もりつな)の支配から独立して伊予国内の御家人の統率権を公認される。

<河野氏の紋章>

・河野氏の紋章は、傍折敷に三文字といい、四角い盆(折敷)の形に三の字のデザインで、その由来は壇ノ浦の戦いの後、鎌倉の由比ヶ浜で催された戦勝祝いの宴席で、
通信が頼朝の前で第三席に連なった事によると云われている。



河野通信の像
松山市北条
北条ふるさと館



河野通信が奉納した鎧
今治市大三島町
大山祇神社



河野通信の墓
岩手県北上市稲瀬町水越
聖塚



河野 通久(24)
(こうの みちひさ)
(こうの みちひさ 24)
<河野通久の歴史>


・河野通久=生年不詳〜永享7/1435年。鎌倉時代の武将。河野通信の子。母は北条時政の女。はじめ河野通豊、後に通久に改める。通称/九郎左衛門。官職/刑部太夫。
・承久の乱(鎌倉時代・承久3/1221年)に、父/通信を始め一族が後鳥羽上皇方に付くなか、通久は母が時政の女であったために幕府方に付いた。乱後、その功により伊予国久米郡石井郷の地頭職をあたえられる。
・朝廷方についた父や一族は壊滅したが、通久が宗家をついで家督を保ち、河野家を存続させた。
・永享7/1435年6月29日、大友氏と室町幕府軍が戦った姫岳の合戦で、幕府軍として参加した河野通久は、この地で討死した。享年42歳。


<姫岳の合戦>

・豊後国の大友氏で、海外貿易を最初に始めた12代当主・大友持直(もちただ)は、朝鮮に10回の貿易船を派遣している。この頃に、室町幕府/6代将軍・足利義教(よしのり)は、海外貿易を独占しようとして、大内盛見(もりはる)を博多に幕府御料所代官として送り込んできた。
・盛見は、海外貿易の窓口となる博多の港を、大友氏・少弐(しょうに)氏から奪い取ろうとして争ったが、敗北して自害する。これに怒った義教は、盛見の甥である大内持世(もちよ)を総大将とする九州・中国・四国勢で編成された幕府軍に、持直討伐を命じた。
・持直は姫岳(臼杵市と津久見市の境にある標高620mの山)に籠り、幕府の大軍と攻防戦を繰り広げ、地の利を生かした戦いで幕府軍を翻弄した。戦いは永享7/1435年7月〜翌、永享8/1436年6月に及んだ末、持直軍は内通者が続出したため、ついに敗れ去った。
・その後、持直が始めた海外貿易は、15代の大友親繁(ちかしげ)が盛んにし、21代の宗麟(そうりん)へと受け継がれることになる。


<姫岳の合戦と河野通久の供養塔>

・伊予国の守護職を務める河野通久は、幕府軍として姫岳を攻撃したが、大友持直の反撃を受け、討ち死にした。
・津久見市大字上青江の臼津葬斎場の奥を進んだ畑地区の高台に村上神社がある。急勾配の石段を登ると境内の右側に白い柵に囲まれた宝篋印塔があり、これが、姫岳の合戦で戦死した河野通久の供養塔と伝えられる。




姫岳
大分県津久見市青江


河野通久の供養塔
大分県津久見市上青江
村上神社




河野 通継(25)
(こうの みちつぐ)
(こうの みちつぐ)
<河野通継の歴史>


・河野通継=生年不詳〜正応2/1289年。鎌倉時代の武将。父/河野通信の子。母/北条時政の女、通久の異母弟とも。通称/弥九郎。官職/上野介。
・兄/通久が早世したため家督を継ぎ、通久に引続き伊予国久米郡石井郷の所領をつぎ、縦淵(たてぶち)城主となる。
・文永4/1267年、弟の通時と所領をめぐって争うが、翌年、幕府の仲介で和解。
・正応2/1289年、没。

<河野通継の寺院寄進>

・河野通継は、松山市内に現存し国宝の指定を受けている大宝寺本堂・太山寺本堂・石手寺仁王門を建造・寄進している。
・大宝寺(たいほうじ)は、松山市にある真言宗豊山派の寺院で、大宝元/701年(飛鳥時代)に、地元の豪族・小千(越智)伊予守玉興が創建したと伝えられている。本尊は阿弥陀如来坐像(国の重要文化財)。本堂は、愛媛県内最古の木造建築で、貞享2年(1685年)再興の銘がある修理棟札と共に国宝の附(つけたり)として指定されている。国宝に指定されている。
・大宝寺(たいほうじ)は、松山市南江戸にある真言宗豊山派の寺院で、大宝(701〜703)年間に、越智玉興による創建と伝えられる。本尊は阿弥陀如来坐像(国の重要文化財)。本堂の建物は、愛媛県内最古の木造建築で、平安時代末期の阿弥陀堂形式を用いた鎌倉時代初期の建築と推察されており、貞享2/1685年再興の銘がある修理棟札と共に国宝に指定されている。
・太山寺(たいさんじ)は、松山市太山寺町にある真言宗智山派の寺院。本尊は十一面観世音菩薩(国の重要文化財)。四国88箇所霊場の第52番札所。本堂は、国宝の指定を受けており、嘉元3/1305年の建立であることが判っているが、地盤が2度の火災にあっていることも判明し、現在の本堂は河野通継の寄進で、3度目の建立と伝えられている。
・石手寺(いしてじ)は、松山市石手にある真言宗豊山派の寺院。本尊は薬師如来。四国88箇所霊場の第51番札所。遍路の元祖とされる衛門三郎の再来伝説ゆかりの寺でもある。仁王門には大きな草鞋が吊してあり、鎌倉時代の文保2/1318年に河野通継の寄進によるもので、両脇の仁王像は運慶の作といわれ、仁王門は、国宝の指定を受けている。




大宝寺本堂
松山市南江戸


太山寺本堂
松山市太山寺町


石手寺山門
松山市石手



河野 通有(26)
(こうの みちあり)
(こうの みちあり)
<河野通有の歴史>


河野通有建長2/1250年〜応長元/1311年。鎌倉中期〜後期の伊予国の武将。鎌倉幕府御家人。元寇の役で活躍した伊予水軍の将。
・建長2/1250伊予国石井郷を相伝知行し、縦淵城を本拠とした河野通継の子として生まれた。母/井門長義の女。
・承久の乱で一族が壊滅した河野氏は、鎌倉幕府の重鎮/北条時政の女を母とした河野通久の一族だけが生き延び、その家名を細々と伝えていた。通有はその通久の孫にあたる。
・通有は、風早郡善応寺の双子山城に勢力を置き、また六波羅探題の命を受け、国内の水軍を束ねて、伊予国の海上警備の任に当たっていた。
・弘安4/1281年の弘安の役のとき、通有の率いる伊予水軍衆は、博多の石築地(元寇防塁)のさらに海側にある砂浜に戦船を置いて、海上で元軍を迎え撃つべく陣を張った。この石塁を陣の背後とした不退転の意気込みは "河野の後築地(うしろついじ"と呼ばれ、島津氏をはじめとする九州諸将も、通有に一目置いた。博多湾に現れた元軍は、石築地を回避して志賀島を占領し、この周囲を軍船の停泊地とした。これに対して、通有は志賀島の戦いにおいて、叔父の河野通時とともに元軍船を攻撃したが通時は戦死し、通有本人も石弓により負傷するも、元船に乗り込み散々に元兵を斬って、元軍の将を生け捕る武勲を挙げた。
・通有は、恩賞として肥前国神崎荘小崎郷(現、佐賀県神埼市)や伊予国山崎荘(現、伊予市)を得て、失われていた河野氏の旧領を回復し、河野氏中興の祖と呼ばれた。

・応長元/1311年、没。享年62歳。墓所は、西条市北条の長福寺にある。

<河野通有の逸話>

・弘安4/1281年、蒙古襲来に備えて国を出立するとき、10年のうちに蒙古が来襲しなかった場合は、異国に渡って合戦するとの起請文を書き、それを焼いて飲んだとされている。

<弘安の役の後河野氏と鎌倉幕府>

弘安の役から4年の後、肥前国神崎庄内小崎郷を幕府から与えられ、伊予国内においても伊予郡山崎荘を宛行われている。幕府 は河野氏の実力を高く評価し、その後しばしば海賊鎮圧などに当らせた。こうして河野氏は次第に勢力を回復して行くことになる。なお、通有は通時始め元寇で戦死した一族郎党の菩提を弔うため、周布郡北条郷に長福寺を建立した。通有自身も応長元/1311年没後、この寺に葬られた。
元寇は外敵との戦いであるため、勝っても恩賞として与える土地が得られることはない。そのため幕府は戦功のあった武士達に与える恩賞の工面に苦し んだ。これが鎌倉幕府の衰退の一因となったのであろうか、間もなく幕府は滅亡の時を迎える。




河野通有の肖像


河野通有の石像
松山市北立花町/井出神社


河野通有の墓
西条市北条/長福寺


河野 通盛(27)
(こうの みちもり)
(こうの みちもり)
<河野通盛の歴史>

河野通盛=生年不詳〜貞治3/1364年。鎌倉末期〜南北朝期にかけて活動した河野氏惣領家の武将。河野通有の子、あるいは、通有の弟で家督を継いだとの説もある。幼名/九郎、のち通治ともいい、官職・対馬守。晩年、出家して善慧(恵)と号した。
・元弘の変(1331)の時、鎌倉幕府の命により上京し、六波羅探題府を援けて、蓮華王院・内野に転戦するも、幕府の滅亡により、鎌倉で出家し隠遁生活に入ったが、足利尊氏が中興政府に反するに及んで、還俗してその配下となり、河野氏の旧領を安堵された。さらに通盛は、尊氏の九州からの東上に従軍し、湊川・東坂本・鞍馬口に宮方の軍と転戦し、後醍醐天皇が吉野に赴いた時,尊氏の要請によって、河内国東条における宮方の軍を撃破した。
・その後(14世紀前半)、通盛は帰郷し、温泉郡道後に湯築城を築いて、本拠を高縄山城からここに移した。それは優勢であった宮方に対抗するうえに、道後平野を抑える必要があったからである。通盛は征西将軍滞在中の風早郡忽那島を攻撃したのをはじめとして、温泉・浮穴・喜多郡方面の宮方との間に激闘を繰返し、次第に要衝を占拠した。彼の不撓の努力によって宮方勢力を制圧し、伊予における統率者として地位を確保したばかりでなく、河野政権を安定させた。
・貞和6/1350年、室町幕府から伊予国守護に任ぜられ、将軍足利家との間に緊密な関係が成立した。将軍・足利義詮(よしあきら)が、南朝討伐を企てた時、通盛は孫・通行を河内国に派遣している。
・貞治元/1362年に通盛は、子/通朝に惣領職を譲って隠退し、余生を彼の創立した風早郡善応寺の居宅で送った。
・貞治3/1364年、隠居先で逝去した。墓は、通盛の隠居所の跡に建てた松山市北条の善応寺にある。

<河野氏と湯築城>

・湯築城は、源平合戦で源氏方に味方して功績を上げ、伊予守護に任じられた河野氏の居城として、その期間は南北朝時代(14世紀前半)から天正13年(1585)まで、約250
年間存続した。築城者は河野通盛とされる。
・湯築城の築城により通盛は、それまで河野氏の拠点であった風早郡河野郷(現、松山市北條)からこの道後の地に移った。その時期は、河野郷の居館が善応寺になった時期、怱那家文書の記述から、遅くとも建武年間(1334〜1338)には築城されたと推測されている。その後、天文4年(1535)には、河野通直が湯付掘(現在の外堀か?)を造り、二重の掘を持つ現在の形になったと伝えられている。
・河野氏は、その後、讃岐から攻め入った細川氏との戦いに敗れ、湯築城は一時占拠されたことがあったが奪い返している。しかし、近隣諸国から幾度となく攻撃を受けたり、お家騒動(惣領職の継承をめぐる分裂)や内紛(家臣の反乱)を繰り返し、その地位は決して安泰ではなかった。
・天正13年(1585)、全国統一を目指す羽柴(豊臣)秀吉の命を受けた小早川隆景に湯築城は包囲され、河野通直は降伏し福島正則が城主となるが、ほどなくして正則は転封となり、その後、廃城となった。
・湯築城は、小高い丘陵を二重の水堀が囲む輪郭式の縄張りで、中世の城郭らしく石垣のない土の城である。 外堀、内堀がほぼ現存し、土塁も多く残されている。二重の掘と土塁を巡らせ、その中に居住空間を持つ先駆的な「平山城」の形態をなす。





河野通盛の肖像画


湯築城跡
松山市道後公園


善応寺
松山市北条善応寺


河野通盛の墓
松山市善応寺-善応寺


河野 通朝(28)
(こうの みちとも)
(こうの みちとも)
<河野通朝の歴史>


・河野通朝=生年不詳〜貞治3/1364。南北朝時代の河野氏の惣領。河野通盛の子で、通称/毘沙丸かたは,対馬六郎官職/遠江守。
南北朝時代には、父とともに北朝方として戦い、貞治2/1363年の通盛の引退のあとを受けて、河野氏の家督を継承する。
・貞治3/1364、四国統一をめざす讃岐国の細川頼之(よりゆき)が伊予国に侵入し、これを桑村郡と越智郡の境にある世田山城に迎え撃ったが、城中に寝返る者があり城は落ち、通朝も討死した。松山市北条の大通寺に墓がある。
北条の善応寺文言の中には、新居郡西条荘内菊一名光明寺如来堂などを、善応寺に寄進する寄進状や、正堂士顕に善応寺住持職を安堵する置文などが残されている。
通朝の後は、通朝の子/徳王丸(後の通尭)が継承した。



10

河野 通堯(29)
(こうの みちたか)
(こうの みちたか)
<河野通堯の歴史>

・河野通堯=貞和2/1346年〜康暦元/1379年。河野通朝の子。幼名/徳王丸。南北朝期に武家方に、あるいは宮方に組して活動した河野氏正系の武将。
・貞治3/1364年11月に、通朝が世田山城で細川頼之に攻められて戦死した後を受けて家督を継ぐが、祖父/通盛の逝去に合い悲嘆にくれる暇もなく、讃岐国守護・細川氏の進撃を避けて風早郡の神途城に入った。さらに恵良城で元服して通堯を名乗り、細川氏が占拠していた湯築城を奪還した。
・しかし予想に反して、細川氏は強大であった。通堯は要衝の高縄山城にたてこもって反抗したが武運つたなく破れ、越智郡島嶼部に地盤を持つ今岡通任・村上義弘らに救援を求めた。そこで彼らは通堯に対し南朝に帰順し、伊予における宮方の援助を得て、伊予国における諸勢力を綜合する必要性を力説した。そこで通堯は一族の重見通宗・同通勝らに対し、九州征西府への帰順の斡旋を依頼した。
正平20/1365年に征西府の懐良親王はこれを承認し、通堯を伊予守護職に補し、その本領を安堵した。やがて通堯は大宰府に赴き、親王に謁見して南朝への忠誠を誓った。この時、彼は通直の名を賜わり、讃岐守・刑部大輔に任ぜられたという。
・正平23/1368年に入り、伊予国へ足利方の驍将・仁木義尹が侵入したので,通堯は征西府と連絡のうえ、通任・義弘をはじめ、旧臣戒能・二神・久枝氏らの援助をうけて、伊予郡松前に上陸した。まず宍草入道父子の軍を撃破し、義尹の軍を追うて彼らを野間郡大井に潰走させた。
・通堯は、中予地域の掃討を完了すると、東予における細川・仁木氏と戦闘を交え、新居郡高外木城で細川勢を全滅させた。
・一方幕府では、将軍足利義満の管領としてこれを補佐しかつ政界に敏腕を振った細川頼之は、宗教界から反撃をうけたばかりでなく、土岐・斯波氏らの諸将とも衝突していた。
・康暦元/1379年、細川頼之は管領職を斯波義将にとって代わられ、やむなく出家して常久と称し、讃岐国に引き揚げた。この中央政界の変動は、河野氏にとって緊要事であって、通堯は身の保全を計るために、宮方との親善関係を絶って、武家方における反細川派との接近をはかった。反細川派の諸将は頼之討伐に踏み切り、通堯にも頼之追討の将軍の御教書が発せられた。窮状に陥った頼之は機先を制して、東予地区に向かって進撃を開始した。通堯は康暦元/1379年11月、桑村郡吉岡郷佐志久原に陣をとったが、頼之の奇策戦法にかかり、総攻撃をうけて一族とともに自害した。




11

河野 通義(30)
(こうの みちよし)
(惣領家)(1)
(こうの みちよし)
<河野通義の歴史>


・河野通義=応安3/1370年〜応永元/1394年。南北朝・室町時代の河野氏の惣領で、伊予の守護。河野通尭の嫡子。弟に通之がいる。幼名/亀王丸。
・嘉慶2/1388年に伊予守の官途を与えられる。
・康暦元/1379、父/通堯の戦死のあとを受けて、10歳の幼少で河野氏の家督を継承する。
・永徳元/1381年、父/通堯を死に追いやった宿敵・細川氏と和議を結び、宇摩・新居2郡を細川氏領とすると同時に、残りの地域についての守護職を確保した。
・明徳3/1392年、出雲国で反乱を起こした山名氏幸(うじゆき)の討伐に加わる。
・応永元/1394年、京都の邸宅で病死した。 享年25歳。死の直前、弟の通之に家督を譲った。その時の譲状では,懐妊中の夫人が男子を生めば,通之に子があっても,その男子に跡をつがせることを希望していた。松山市北粂の善応寺文書に禁制(きんせい=行為を禁止すること)、早稲田大学所蔵文書に寄進状、長州河野文言に譲状などが残されている。



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河野 通之(31)
(こうの みちゆき)

(予州家)(1)
(こうの みちゆき)
<河野通之の歴史>


・河野通之=応安5/1372年〜没年不詳。室町時代の河野氏の家督で、伊予の守護。河野通堯の二男で、兄/河野通義。幼名/鬼王丸。通称/六郎。官職/対馬守。
・応永元/1394年、兄/通義病死の直前、通義夫人が懐妊中の子が男子であればその成長後跡をつがせることを条件に、河野氏の家督と伊予の守護職を譲られた。
・応永6/1399年の応永の乱に際しては、足利義満の率いる討伐軍に加わる。
・『予陽河野家譜』によると、応永16/1409年、通之は成長した通久に家督を譲ったという。その後まもなく出家して道宗と名乗った。松山市北条の善応寺文書には10通の、中島町の忽那家文書には1通の通之発給文書が残されている。それらのうち最後のものが応永20/1413年の年号を有するから、少なくともこのころまでは生存を確認することができるという。
通之の死後、通之の子/通元が予州家のあとを継いだ。




河野通之と父/河野通義


13

河野 通元
(こうの みちもと)
(予州家)(2)

(こうの みちもと)
<河野通元の歴史>


河野通元=生没年不詳。室町時代の河野氏(予州家)の家督。父/河野通之の長男、母/得能備中守通興の女。
・応永22/1415年7月25日、和気郡御幸寺麓合戦において、河野通之・通元の子/犬法師丸・土居三郎・得能兵部、等数輩討死。
・応永24/1417年、河野通元が、忽那通経に和気郡久枝六郎左衛門名田職などを安堵する(忽那家文書)。
・応永26/1419年、通元が忽那通経に忽那島本知行分などを安堵する(忽那家文書〕。
・通元の子/河野通春は、河野氏・予州家3代当主となる。
・河野氏の家督は子の教通が継いだが、惣領の座を狙う通元や、その嫡子/通春と争っている。

<河野通元・通春と河野通久・教通の争い>

・河野通義は早世したため、通義の弟で、河野氏/予州家の祖である通之が、河野氏の家督を継いだ。しかし、通之の死後の家督を、通義の没した後に生まれた通久の相続に不満を持っていた通之の子/通元と対立し、河野氏の家督をめぐる内紛が始まった。この争いは両者の死後も続き、応仁の乱以降まで続くこととなる。




14

河野 通久(32)
(こうの みちひさ)
(惣領家)(2)
(こうの みちひさ 32)
<河野通久の歴史>


河野通久応永元/1394年〜永享7/1435年。室町時代に河野氏の惣領職を継承して活躍した武将。河野通義の嫡子。河野通堯の孫。幼名/大正丸。
・応永元/1394年、通久は、父/河野通義の病死の後に出生したが、その時、通義の弟/通之(通久の叔父)が,河野家を継承して勢力の維持をはかっていた。なお、通久の父である通義が死去する直前、通義の弟である河野通之に、懐妊している女(通義の妻)が男子を出産し成長した暁には、家督を譲れと遺言している。しかしこの事が後々、河野氏の内紛に繋がっていった。
・成長した通久は、応永13/1406年に、湯築城で元服して河野持通(もちみち)を名乗り、その後に「通久」と改めた。
・応永16/1409年に河野通之の譲りを受けて、河野氏の家督を継ぎ、のちに刑部大輔に任ぜられた。この通久の治世は、室町幕府/4代将軍・足利義持(よしもち)〜6代将軍・足利義教(よしのり)の時代にわたっている。
・永享7/1435年、将軍/足利義教は、混乱した九州の安定を図るため、伊予・安芸・石見の諸国に出兵を命じた。この時、河野通久は幕命を奉じて出兵したが、大友勢の策略にかかり、同年6月29日の姫ヶ嶽城(現、広島県三次市)の戦いで、41歳の若さで討死してしまった。

<足利義教の治世と河野通久>

・6代将軍・足利義教は、幕府における綱紀の粛正を断行するとともに,将軍の統率権を強化しようとはかった。
・義教の治世作戦の一として、周防・長門・豊前の守護・大内盛見(もりはる)の権勢を利用して、混乱した九州の経営に当ったことにあった。
・大内盛見は、永享3/1431年に筑前国を巡視して、同国内の大友持直の所領を没収しようとした。この所領の問題をめぐって、大内氏対大友・少弐・菊池氏との間に抗争を繰返したものの、逆に、盛見は筑前国萩原で戦死をとげ、大内氏の側では、紛争はその子/大内持世(もちよ)に引き継がれた。
・翌、永享4/1432年10月、持世は幕府に対して、大友・少弐(しょうに)両氏の討伐を要求した。そこで義教は安芸・伊予・石見等の諸国の兵を動員することにした。
・翌年、永享5/1433年5月、持世は、家督争いをしていた弟の長門国守護職・大内持盛(もちもり)を豊前国に倒おして大内氏を統一すると、すすんで筑前国に入り、少弐満貞(みつさだ)を攻め滅して肥前国をも併合した。この間九州の各地で紛争が起り、かえって少弐氏は勢力を回復したので、持世は再び幕府に援軍の派遣を求めた。
・足利義教は、永享7/1435年、伊予・安芸・石見国に出兵を命じた。この時、通久は幕命を奉じて豊後国に出兵したが、大友氏の策略にかかって、同年6月29日に姫嶽城の戦いに討ち死にした。享年 41歳。




15

河野 教通(33)
(こうの のりみち)

(惣領家)(3)
(こうの のりみち)
<河野教通の生い立ちと家督相続>


河野教通=生年不詳〜明応9/1500年。室町末期から戦国初期に、河野氏の宗家を継承した武将。河野通久の嫡子で、幼名/犬正丸。後に教通(通直)と称し、剃髪して道治・道基と号した。
永享7/1435年に父/通久の戦死の後、河野氏の家督を継ぎ、将軍・足利義教から豊後国臼杵庄を給与された。

<河野教通と足利義教・大覚寺義昭>

・一方、関東公方・足利持氏(もちうじ)は、義教の将軍職を認めず、両者の対立は激しさを加えた。
・永享10/1438年、持氏と義教は衝突し永享の乱が起ると、義教は諸将に持氏の討伐を命じた。この時、教通も動員され美濃国で待機を命ぜられた。これより先、義教は南朝の皇統を絶ち,禍根を除こうとした。ところが義教の弟に大覚寺義昭(だいかくじよしあき)がおり、将軍職継承についても激しく相争ったことがあり、以来両者は不和が続いていった。
・義昭は機を見て義教を排斥しようとし、ひそかに南朝の後裔の円満院円胤(えんまんいん えんいん)(=円悟/えんご)と結び、大和国の豪族・越智維通(これみち)および南朝の残党と組んで挙兵した。
・義教は彼らを討滅するため、諸将に動員を命じた。教通もこれに応じて大和国に進発し、細川勢に協力して義昭らの反乱軍を壊滅した。のちに教通が近江国馬淵庄を給与されたのは、その功労によるのであろう。
・嘉吉元/1441年、義教は播磨の赤松満祐(あかまつみつすけ)の権勢を削除しようとし、かえって満祐のために殺害された。その後、満祐は一族とともに播磨国に引き揚げたので、幕命を奉じて教通も、山名持豊(やまなもちとよ)(=山名宗全/やまなそうぜん)・細川持之(ほそかわもちゆき)らと播磨に赴き、満祐の軍を撃破した。満祐は万策尽き果て木山城で自殺した。教通はその地に留って、引き続き残党の殲滅に当たった。このころから惣領家/教通と予州家/河野通春(みちはる)との抗争が始まった。

<河野教通・通生と応仁・文明の大乱>

・文安元/1444年に幕府は、安芸国の小早川煕平(こばやかわ ひろひら)と吉川経信(きっかわ つねのぶ)に出陣を命じて渡海させ、河野通春の軍を温泉郡・和気郡等の各地に撃破させた。
・寛正5/1464年、通春は讃岐の細川氏の兵と衝突し、幕府は通春討伐のため周防国守護・大内教弘(のりひろ)に伊予へ出兵を命じた。しかし教弘は伊予に来ると、幕命に反して通春を援助した。教弘が和気郡興居島に病没した後も、教弘の子/政弘(まさひろ)も同じく通春を援助した。教通と通春の抗争は、和議の成立によって,一時休止の状態となった。しかしこの和議は永続せず、やがて両者の争闘は再開された。
・応仁元/1467年、中世社会の矛盾が爆発し、応仁・文明の大乱(1467〜1477)が勃発し、教通は西軍の山名宗全の陣営に属し、大内政弘と気脈を通じて活動した。
・文明5/1473年11月、教通は将軍/足利義政から伊予国守護職に補任された。この時の文書が、なぜ、教通と反対の立場の東軍から発せられたかについては、明らかになっていないが、将軍側近のものが、教通を東軍の陣営に招くためであったともいわれている。
文明11/1479年、細川義春(よしはる)が、阿波・讃岐の兵を率いて伊予に侵人してきたとき、教通の弟/河野通生(みちお)が風早郡神途城に籠り、諸将に命じて東予・中予・南予の要害を防備させた。義春は諸城の攻略をはかったが、かえって村上・忽那氏らの水軍の襲撃をうけて、郷国へ潰走した。


<河野教通の寺院造営>

教通は、その後、病気のため出家して道治さらに道基と称した。
・信仰心の厚い教通は文明13/1481年、石手寺本堂・山門を修理、同17/1485年には、和気郡太山寺に三重塔婆を造営し、明応7/1498年に大山祇神社の本殿を修造した。しかし、その頃河野氏は、政治的に守護大名としての領国支配が困難になっていたから、教通も権勢の維持に苦心したといわれている。
教通は、明応同9/1500年に湯築城で逝去し、その遺骸は善応寺の塔頭の宗玄院に葬られた。




河野教通の肖像画


足利義教の肖像画


善応寺
松山市北条善応寺

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河野 通生
(こうの みちお)
(こうの みちお)
<河野通生の歴史>

河野通生=生誕年不詳。室町後期〜戦国時代の伊予国武将。河野通久の次男、教通の弟。

<河野通生の人物像>

・河野通生は、兄の教通と表裏一体の活躍で河野宗家を支え、秀吉を支えた秀長を思わせる人物であったという。
・文明11/1479年に細川義春(よしはる)が、阿波・讃岐の兵を率いて伊予に侵入してきたとき、河野通生は、風早郡神途城に籠り、諸将に命じて要害を防衛させます。義春は諸城の攻略を図ったが、村上、忽那氏らの水軍の襲撃をうけ郷国に潰走します。この時も、河野教通は通春と和睦しているが、その和も永続せず再び争う事になる。



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河野 通春(34)
(こうの みちはる)
(予州家)(3)
(こうの みちはる)
<河野通春の歴史>

河野通春応永28/1421年〜文明14/1482年。室町後期〜戦国時代の伊予国武将で港山城主、河野氏/宗家と対抗した分家/予州家当主。父/河野通元、通之の孫。
文安6/1449年、通春は伊予守護に就任したが、翌年に教通に交替する。その後、享徳2/1453年に守護職に再任されるが、享徳4/1455年に細川勝元に交替させられる。
・長禄3/1459年、3度目の守護職に補任されたが、寛正3/1462年に、勝元の同族の阿波守護・細川成之(なりゆき)と戦い勝元と対立、寛正5/1464年には、伊予の混乱を見た勝元の軍勢が攻め込んで来たため危機に陥ったが、細川氏と対立関係にある大内教弘(のりひろ)の援軍を受けて細川氏を撃退する。直後に教弘は興居島で死去したが、なおも、教弘の子の大内政弘(まさひろ)の援助を受けた。
応仁の乱(応仁元/1467から)では、通春は西軍に組したが、通春の在京中に東軍についた教通が、勝元の死後の文明5/1473年に守護職を確保し、伊予における基盤を固めてしまう。
・文明9/1477年、応仁の乱後に伊予に帰国した通春は、4度目の伊予の守護に任じられるが、翌、文明10/1478にも教通と和気郡にて戦ったが敗れている。
・その後も教通と抗争を繰り返しながら、文明14/1482、港山城の戦いで流れ矢に当たって戦死したという説と、戦いの後に病死したとの説がある。その後、通春の子/通篤が後を継いだが、本家に対抗出来ず没落していった。通春と教通の抗争は河野氏の衰退を招き、河野氏が守護大名から戦国大名へ成長できなかった一因を成した。
現在、松山市新浜町の民家の一角に、通春の霊を祀る祠が港山地区の篤志家の人々により建立されている。

<河野氏宗家と予州家の抗争>

・河野氏宗家と予州家による家督をめぐる抗争は、河野通義が応永元/1391年に死没する前に、弟/通之に家督を譲る際に「妻(通義の)が男児を出産したら、その子に家督を相続させるように」と遺言したことに始まる。
・やがて通義の妻が男児(後の河野通久)を出産したため、通之は通久に河野氏惣領の地位を譲るが、これを不満とした通之の子/通元が通久に敵対した。この内訌は、室町幕府が調停に介入したにも関わらず、解決を見ないまま、次の世代に持ち越されることとなった。
・通元の子/通春は、嘉吉元/1441年の嘉吉の乱以来、河野氏の主導権をめぐって宗家の教通と対立していたが、この対立において、通春が反宗家の将卒を糾合したのに対し、教通は安芸国/小早川氏らの支援を取り付けていた。
・この河野氏惣領をめぐる内訌は、幕府における細川氏と畠山氏の管領職の争いにも結びつき、通春は細川勝元、教通は畠山持国(もちくに)の派閥に与することとなる。
・享徳4/1455年に畠山持国が没したことにより、管領職の争いでは勝元が、河野氏惣領の争いでは通春が優位に立つことになるが、寛正6/1465年に、伊予国の直接支配を目論む細川勝元が、大内・小早川・毛利氏ら中国地方の軍勢を派遣したことから不和となった。
・この細川氏の軍勢に対して、通春は教通と共同して対抗するが、かねてから細川氏に不満を持つ大内教弘(のりひろ)が離反して通春を援け、教弘の没後、その子/政弘(まさひろ)が通春を援けたことによって、勝元の伊予征服は頓挫した。
・その後、通春は、応仁の乱に際しては、大内氏との関係から西軍に属して京都に出征したが、この間に東軍に与した教通が、伊予国内での地歩を固めて巻き返しを図ったため、乱が終息して帰国した後にも再び激しい家督争いを展開することとなる。
・細川義春(よしはる)が伊予国に侵攻したときには、一時的に教通と和睦してから細川勢を国外に追放するという戦略を採ったが、その後も教通との対立は解決することなく、結果としてこの内訌が、伊予の守護家としての河野氏の勢力を弱めることとなった。

<寛正(かんしょう)年間/伊予の乱>

・室町時代の伊予国は、河野氏が守護に任じられていたが、永享年間(1429〜1441)には、惣領家と予州家と呼ばれる分家との間で対立が生じていた。この抗争は幕府内の実権を握る管領職をめぐる権力闘争とも密接に関係し、河野惣領家の河野教通は、畠山持国(もちくに)から、予州家の河野通春は細川勝元から支持を受け、畠山氏が管領の時期は教通が、細川氏が管領になると通春が、伊予守護職に就くという具合であったが、畠山氏でも内訌が起こり、さらには、享徳4/1455年(=康正元年)3月に持国が没すると、畠山氏の権勢の衰退は明らかとなり、同年の暮れに細川勝元が伊予守護に補任されると河野通春方が優勢となった。
・しかし通春と細川氏の蜜月は長くは続かず、寛正年間(1460〜1466)になると決裂することになり、勝元は「通春の不義が露顕した」として幕府に働きかけて、通春討伐の命令を出させることに成功した。勝元の言うこの「不義」とは定かでないが、当時の細川氏は、一族で阿波・讃岐・土佐の3国の守護職にあり、伊予守護には河野通春が復していたが、勝元はその河野氏を排除し、伊予守護を収奪しての四国制覇を企てたとものと考えられる。
・細川氏の伊予国への攻勢は、寛正3/1462年には、阿波守護の細川成之(なりゆき)が通春とが交戦しており、寛正5/1464年11月には、幕府は周防守護・大内教弘(のりひろ)に伊予国への出陣を求め、翌、寛正6/1465年3月には了承する旨の返答を得ている。また同年6月には、安芸国の毛利・吉川・小早川氏や、石見国の出羽・徳屋氏らにも細川勝元への合力が要請されており、これらの軍勢は8月頃には安芸灘の島々から渡海して在陣している。
・また細川勝元は、伊予の隣国である讃岐・土佐国の守護を兼ねていたことから、両国の国人・領主らを通じて伊予国に影響力を浸透させ、大野・森山・重見氏らをして通春に反抗させて圧迫し、ついには居城である湯築城から逐って土佐守護代・新開遠江守を入城させた。これに対して通春は、湊山城に籠もり、教通の留守を守って在国していた河野通生(教通の弟)と結んで細川勢に対抗した。

・しかし間もなく、興居島に布陣して湊山城を牽制していた大内勢が、突如として河野方に転じるという予期せぬ出来事が起こった。
・大内氏と細川氏は瀬戸内海を通じて勢力を接しており、伊予国までをも細川氏の分国とすることは、大内氏にとって好ましからざる事態であった。また、安芸国での勢力拡張を推進して、安芸国の分郡守護であった武田氏との紛争を抱えていた大内氏にとって、戦略的見地からも瀬戸内海西域は、是が非でも確保しておかなければならない地域であり、この抗争に細川氏の主導する幕府が武田氏を支援したことなどが相まって、大内氏を背反に向かわせたものと思われる。
・大内教弘は興居島に上陸して間もなくの9月3日に病没し、これを伝え聞いた細川勝元は「上意に叛いたから天罰が下ったのだ」と述べたというが、同道していた教弘の子・政弘は河野氏支援の姿勢を変えることなく、興居島から湊山城を救援しつつ湯築城へ兵を送って陥落させた。9月16日付の大内政弘から内藤弘矩に与えられた感状にある「井付合戦」とは、この湯築城の攻城戦だと思われる。また、細川方であった森山・重見氏らも討ち果たされ、細川勢は駆逐されたのである。

・この寛正伊予の乱において、屈指の有力大名であった細川氏と大内氏の決裂が決定的となった。そしてこの2年後に起こる応仁の乱において、東軍の総帥となった細川氏に対抗して大内氏が、西軍に与する遠因のひとつになったといえる。




河野通春の肖像画


河野通春に扮した写真


港山城のあった西港山
松山市港山町


河野通春の祠
松山市新浜町

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河野 通篤
(こうの みちあつ)
(予州家)(4)

(こうの みちあつ)
<河野通篤の歴史>

・河野通篤=生誕年不詳〜亨録3/1530年。戦国時代の河野氏の予州家/通存の子、予州家4代。父/河野通春。通称/七郎。官職/伊予守。
・松山市伊台西法寺に、河野通篤のものと思われる位牌(詔光院殿故近州大守迦亨宰典清晃大居士)がある。亨録3/1530年、没。

<伝説「鯉のぼりを立てない伊台の里>

・大永年間(1521)頃、梅子城(勝岡城)を居城としていた河野通篤が、湊山城との戦いで形勢悪く、伊台の入口「オオマツリ」まで逃げ帰った。時に伊台の里では、菖蒲の節句で鯉のぼりや幟を立てていた。それに驚いた馬が立ち上がって前進せず、通篤は討ち取られた。それ以来、伊台の里では鯉のぼりを立てなくなったと言う。




19

河野 通宣(35)
(こうの みちのぶ)
(惣領家)(4)
(こうの みちのぶ 35)
<河野通宣の歴史>

・河野通宣(刑部大輔)=寛正5/1464年〜永正16/1519年。戦国時代の河野氏の家督。河野教通(通直)の子。幼名/代益丸、通称/六郎、官職/刑部大輔(ぎょうぶたいふ)の官途を有する。
・明応8/1499年12月の忽那一族賀島衆にあてた掟書が初見史料で、その後、善応寺・国分寺・天徳寺・忽那氏などに対して多くの文書を発している。
・父/河野教通が、明応9/1500年に死去したあと家督を継承したが、河野予州家と抗争になり、予州家の河野通篤に湯築城を奪取されるが、直ぐまた奪回するという攻防を繰り返した。
・文亀元/1501年、幕府から大内義興(よしおき)討伐を命じられたが、永正5/1508年に義興が足利義材(よしき)を奉じて入京した時には、これに従ったといわれる(予陽河野家譜)。
・永正16/1519年7月死去。諡号は天徳寺殿天臨宗感大禅定門。あとを子の通直(弾正少弼)が継いだ。



20

河野 通直(36)
(こうの みちなお)
(惣領家)(5)
(こうの みちなお 36)
<河野通直の歴史>

・河野通直(弾正少弼=だんじょうしょうひつ)=生年不詳〜元亀3/1572年。戦国時代に河野家正系(惣領家)を継承。河野通宣(刑部大輔)の嫡子。河野教通の孫。
・永正16/1519年、河野通宣病没の後、惣領家を継承した。幼名/太郎。のち弾正少弼に任ぜられる。このころ河野氏の統制力は、予州家との内証によって、次第に弱体化したばかりでなく、恩顧の部将のなかにも離反するものが現れた。
・大永2/1522年、越智郡鷹取城主・正岡経貞(つねさだ)が兵備を整え、一族とともに河野家に反抗したため、通直は重見・村上の将兵を派遣し、その討伐に当たらせた結果、経貞は敗れ降伏した。
・享禄3/1530年、重臣の重見通村(みちむら)が、越智郡石井山城によって反乱を興したため、通直は村上通康に命じ征討軍を送らせ、激戦の末に城郭を占領したので、通村はやむなく周防国へ逃亡したと伝えられる。
・その頃、中央の政界では管領・細川高国が勢威を振っていたが、細川晴元らとの衝突に敗れて自殺するに至った。通直は、これより先に上洛し、高国に交わりを通じていたが、政情の変化にともない晴元に接近した。その後、幕府に対し官位を要望した結果弾正少弼に補せられた。
・天文2/1533年、通直は、将軍・足利義晴に対し太刀・青銅等を献上して,その厚意を謝した。『大館常興日記』によると,天文8年(1539)通直を幕府の相伴衆に加えられる措置がとられた旨を述べている。同10年安芸国守大内義隆の家臣白井房顕が越智郡大三島に,同13年に風早郡中島に来長した。幸いにして,大祝・忽那・村上氏らの家臣団の奮闘によって排撃することができた。通直には男子がなく,その後継者については,通直の主張する女婿の村上通康と,家臣団の擁立する予州家の通政との両人が有力な候補者であった。家臣団は通直らの機先を制し,通政を奉じて湯築城を占領した。通直は通康に迎えられ,その本拠来島城に避難した。やがて両者の間に和議が成立し,通直は通政(のち晴通)を後継者にすることを承認した。晴通は天文12年(1543)に病死し,弟通宣(のち左京大夫)がそのあとをついだ。通直と通宣とは不和で,その内証は,河野氏の没落を早める一因となった。通直は、元亀3/1572年8月に竜穏寺で逝去した。




21

河野 通存
(こうの みちまさ)
(予州家)(5)
(こうの みちまさ)
<河野通存の歴史>

・河野通存=生没年不詳。河野氏/予州家の当主。父/河野通篤。子に晴通(通政)・通宣(左京大夫)・石川通昌・能島直信。通称/六郎。官職/伊予守。
・河野氏本家の継承問題の争いの際は、実子の晴通に宗家を継がせている。晴通の死後は、次男・通宣が宗家に入った。



22

河野 晴通(37)
(こうの はるみち)

(予州家)(6)
(こうの はるみち)
<河野晴通の歴史>

・河野晴通=大永2/1522年〜天文12/1543年。戦国時代の河野氏の37代家督。予州家/通存の子、予州家6代。通直(弾正少弼)のあとを継承。通直の養子(実子とも)。通称/六郎。はじめ通政(みちまさ)と名乗り、のち将軍・足利義晴(よしはる)の一字をもらって晴通(はるみち)と改めた。

<河野晴通の系譜関係>

・河野晴通の系譜関係は、諸書によって相違し、必ずしも明らかではない。『予陽河野家譜』は予州家の惣領とし、『築山本河野家譜』は通直の子とする。前者は、嗣子のなかった通直の後継者を決定するにあたって、娘婿の村上通康をおす通直と、通政をおす老臣との対立があったとし、後者は、通直と晴通との間に不和があり、河野家が分裂して一戦に及んだと伝える。
・天文11/1542年に、室町幕府が豊後の大友氏に対して、「河野父子不快」のことを和解させるよう命じた文書も残っている。晴通に関することは明らかではないが、天文2/1533年に、将軍・足利義晴から御内書を与えられたのを初見史料とし、その後二神氏平(うじひら)、石手寺・善応寺などに安堵状などを発給している。
・天文12/1543年、病死。弟/通宣(左京大夫)があとをついだ。ただし高野山上蔵院の『河野家御過去帳』には、天文13/1544年に死去と記している。諡号は、法雲寺殿天質宗性大禅定門。一説には天文12/1543年4月24日に早世し、義安寺の側に葬られたという。





河野晴通の肖像画

23

河野 通宣(38)
(こうの みちのぶ)
(惣領家)(6)
(こうの みちのぶ 38)
<河野通宣の歴史>

・河野通宣(左京大夫)=生年不詳〜天正9/1581年。戦国時代の河野家の家督。先の家督/晴通の弟といわれ、天文13/1544年、晴通の死後その跡を嗣いた。通称/宗三郎。官職/左京大夫。妻は、安芸国の宍戸隆家の女といわれる。
・室町将軍・足利義輝とのつながりが深く、多くの通宣あての幕府関係文書が残されている。この時期は、河野家臣団の抗争が頻発した時期で、久万大除城主・大野氏と久米郡大熊城主・戒能氏の争い、久米郡岩伽羅城主・和田氏の反乱などの対応に苦慮した。
・永禄11/1568年、病により引退し家督を通直(牛福丸)に譲った。天正9/1581年に死去し、諡、日勢院殿洞月良恵大禅定門と称した。

<河野通宣の出生>


・河野通宣は、予州家の河野通存(みちまさ=河野通春の孫)の子と言われてきたが、近年では河野通直(弾正少弼)の実子であったことが確認されつつある。
・天文12/1543年に、当主であった兄の河野晴通(通政/みちまさ)が早世したため、家督を継ぐこととなった。しかし若年であったため、河野通直(弾正少弼)の後見を受けることとなる。


<河野通宣の時代の河野氏>

・河野通宣が家督を継いだ頃の河野氏は、家臣の謀反や豊後国の大友氏、土佐国の一条兼定の侵攻を受け、国内では宇都宮豊綱とも対立し、領内はまさに危機的状態にあった。重臣の村上通康や平岡房実が遠征を繰り返し鎮圧に及んだが、もはや国内を独力でまとめる力もなかった通宣は、以前より姻戚関係であった中国地方の雄・毛利元就と従属的同盟を結び、小早川隆景を中心とする毛利軍の支援によって、土佐一条氏や伊予宇都宮氏を撃退している(毛利氏の伊予出兵)。

・しかし、伊予国内への相次ぐ侵略や家臣団の離反など、内憂外患が続き心労がたたったのか、通宣は病に倒れる。嗣子が無かったため、永禄11/1568年に家督を一族の河野通直(伊予守)に譲って隠居し、天正9/1581年に死去した。ただし、近年の研究によるとその死は永禄13/1570年頃ではないかとも言われている。




河野通宣(左京大夫)の肖像画

24

河野 通直(39)
(こうの みちなお)
(惣領家)(7)
(こうの みちなお 39)
<河野通直の歴史>

・河野通直(伊予守)=永禄7/1564年〜天正15/1587年。戦国〜 安土桃山時代の武将、伊予国の戦国大名・河野氏最後の当主。
・永禄7/1564年、伊予国河野家の家臣で、来島村上水軍を率いる村上通康の子として生まれる。
・永禄10/1567年、4歳の時、父/村上通康が死没し、翌、永禄11/1568年、母が主君である湯築城主の河野通直(先代)に再嫁したため、河野家の後継者となる。
・河野家は、大友家のうしろ盾を得ていた土佐国の一条兼定(かねさだ)や、伊予国大洲城の宇都宮豊綱(とよつな)に攻められていたが、母が毛利家の家臣・宍戸隆家の娘だったことから、毛利家のうしろ盾を得てこれに対抗、鳥坂峠の戦で勝利した。
・元亀3/1572年、9歳の時、養父/通直(先代)が死没すると、翌、元亀4/1573年、家臣で菅田城主の大野直之(なおゆき)が離反し、長宗我部元親(もとちか)と通じるなど弱体化が進んだ。
・天正13/1585年5月、豊臣秀吉の四国征伐が始まると、秀吉の命により小早川隆景が伊予に進攻し、湯築城を包囲した。隆景の降伏勧告に、河野通直は湯築城を開城して降った。
・通直は、命こそ助けられたが所領は没収され、ここに伊予の大名として君臨した河野氏は滅亡した。通直は隆景の本拠地である備前竹原に蟄居となり、天正15/1587年に病死した。
・小早川隆景が通直を弔った墓は、広島県竹原市本町の長生寺に現存している。
・その後、湯築城は、四国平定の功により伊予を得た隆景に与えられ、隆景が筑前名島城に移封となり、福島正則が湯築城に入ったが、正則が居城を府中城(国分山城)へ移し、湯築城は廃城となった。








河野通直(伊予守)の肖像画


河野通直の祠
広島県竹原市・長生寺


長生寺
竹原市本町



25

河野 通軌(40)
(こうの みちのり)

(惣領家)(8)
(こうの みちのり)
<河野通軌の歴史>

・河野通軌=生没年不詳。安土桃山〜江戸時代初期の武将。伊予河野氏の名目的当主である。養父は河野通直(伊予守)。
・慶長5/1600年の関ヶ原の戦いと同じ頃、河野通軌は、安芸国より村上武吉・元吉親子らと共に、旧領回復を目指して、加藤嘉明が留守中の伊予国に攻め込むが、元吉が討死するなどして敗退、安芸国に撤退し(三津刈屋畑の戦い)、河野氏の再興はならなかった。

<河野通軌の人物像>

・河野通軌は、毛利家の武将・宍戸景好と同一人物とされているが、宍戸景世が通軌であったという説もある。
・「河野家譜・築山本」では、河野通直の後に宍戸氏出身の人物が河野氏を継ぎ、通軌と名乗ったとされ、同書は後に通軌が周防国山口で死去したと記している。



加 藤 家 時 代


加藤 嘉明
(かとう よしあき)
(かとう よしあき)
<加藤嘉明の歴史>

・加藤嘉明=安土桃山〜江戸時代初期の武将・大名、初代/伊予松山城主(外様/20万石)(1600年〜1627年)。
・永禄6/1563年、
三河国の松平家康の家臣-加藤教明の長男として生まれる。
・嘉明誕生の年の三河一向一揆で、父が一揆側に属して家康に背き、流浪の身となったため、嘉明も放浪する。やがて尾張国で、加藤景泰の推挙を受けて羽柴秀吉に見出され、その小姓として仕える。
・織田信長死後の天正11/1583年、秀吉と織田家筆頭家老-柴田勝家が戦った「賤ヶ岳の戦い」で、福島正則・加藤清正・脇坂安治・平野長泰・糟屋武則・片桐且元 と共に活躍、「賤ヶ岳七本槍」の一人に数えられた。
信長の天下統一政策を継承した秀吉に、天正13/1585年の四国攻めに水軍を率いて参加した嘉明は、その武功より、天正14/1586年、淡路志智1万5千石を与えられて大名となる。その後さらに、天正15/1587年の九州征伐、天正18/1590年の小田原征伐にも参加しいる。
・文禄の役(文禄元/1592年〜文禄2/1593年)では、水軍を統率して李舜臣指揮の朝鮮水軍と戦い、その功績により、文禄4/1595年に伊予国正木(松前)に6万石を与えられた。
・慶長の役(慶長2/1597年〜慶長3/1598年)においては、漆川梁海戦で元均率いる朝鮮水軍を壊滅させ、蔚山城の戦いでは明と朝鮮軍の包囲で篭城し、食糧の欠乏に苦しんだ蔚山城(倭城)の清正を救援する武功も立て、10万石に加増された。
・文禄/慶長の朝鮮役は、磐石を思わせた豊臣政権に亀裂を走らせる原因となり、朝鮮に出兵した加藤清正、福島正則らの諸将(武断派)と、秀吉のもとで兵站を担った石田三成らの官僚(文治派)との間に、埋めがたい溝が生じた。
・慶長3/1598年に秀吉が死去すると、豊臣政権をめぐって徳川家康と石田三成が対立し、それに武断派と文治派の対立が絡まり、事態は泥沼化していった。
・慶長4/1599年に、五大老の一人-前田利家の死後に、加藤清正らが石田三成の殺害を企てた事件には、嘉明も襲撃メンバーに参加している。
・慶長5/1600年、家康が会津の上杉景勝の謀反を主張して討伐を発令すると、嘉明も従軍する。家康らの大坂留守中に三成らが挙兵し、引き返した東軍(徳川方)と美濃で衝突して関ヶ原の戦いに至ると、嘉明は前哨戦である岐阜城攻め、大垣城攻めにおいて戦い、本戦でも石田三成の軍勢と戦って武功を挙げる。
・この時、留守中の伊予本国でも、家臣の佃十成が毛利輝元の策動を受けた侵攻軍(毛利、村上、河野の遺臣による連合軍)を撃退している(伊予の関ヶ原)。
・関ヶ原の戦い戦の後、その功績により伊予松山20万石に加増、移封される。
・慶長7/1602年、松山城の建築を開始する。
・慶長14/1619年の大坂冬の陣のときは、江戸留守居役をつとめる。
・翌、慶長15/1620年の大阪夏の陣では、徳川秀忠に従って出陣する。
・元和8/1622年には、秀忠の世子-家光の「鎧着初め」の式に、家光に鎧を着せる大役を果たした。
・寛永4/1627年、蒲生氏のあとを受け、会津40万石の太守となった。この時嘉明は、一旦会津移封を辞退したが、重ねて命を受け辞すことあたわず会津に移住した。この年は、24年を費やして建設した松山城が完成した年で、嘉明にすれば断腸の思いがあったものと思われる。なお、松山には減封を受けた蒲生氏が入部した。
・嘉明は、寛永8/1631年、江戸屋敷において病気のため永眠、享年69歳。江戸麻布善福寺に葬られ、その後、京都府東大谷墓地に移された。
・銅像が松山市大街道三丁目の松山城ロープウェイ駅舎前にある。

<加藤嘉明と藤堂高虎の確執>

嘉明と高虎、この二人の仲が悪い事で有名で、その立場も嘉明は豊臣恩御の大名と見られていたのに対し、高虎は徳川家康の高級官僚であった。
・慶長年間)における伊予国は、加藤嘉明20万石・藤堂高虎20万石と並立状態であったが、それは綺麗に分かれていたわけではなく、複雑に入り組んでいたのであった。例えば、風早郡(現、松山市北条地区)は元々、来島家(関ヶ原の戦いで豊後国森へ移封)の城下町であったが、この両家によって治められることになり、来島家によって築かれた城下町は分断することになった。
加藤藤堂並立時代は、藤堂高虎が伊勢へ転封までの 8年間続いた。しかし、藤堂家は転封後も拠点として今治城や甘崎城を保持し、さらに高虎と親しい間柄であった脇坂安治が、淡路洲本から伊予大洲へ彼の推挙で封じられており、軍事的緊張は生き続けた。

<松山城・今治城築城の監視>

・慶長7/16021月15日、加藤嘉明は足立重信に命じ、松山城築城を開始した。藤堂高虎はこれに敏感に反応し、藤堂高吉を塩泉城に移し、松山城築城の監視するように命じた。この塩泉城は、以前の伊予国主であった河野家の居城・湯築城のことで、福島正則の時に廃城となっていたが、この時に復活している。高虎は湯築城の改修に関して、建物の築造は行ってもよいが、石垣や土塁・堀などの改築は行ってはならない命じている。湯築城の搦手(裏門)とされてきた場所が大手(表門)になったのもこの頃だとされている。松山城と湯築城との距離は約 2km で、監視するにはもってこいの場所であった。
・一方、今治城築城も慶長7年に開始された。この築城は、最新鋭の城を築くという嘉明に対しての高虎の挑発行為そのものであった。
・これに対し、嘉明も今治城築城を監視するべく、今治城の大手から約 3km の場所に拝志城を築き弟の加藤忠明を配置した。

<加藤家・藤堂家の間で様々な事件の発生>

・高虎の養子で今治城代であった藤堂高吉の家臣が、拝志城下で罪人を切ったのを見た町の人達が、藤堂家の人間が加藤家の人間を切ったと勘違いし大騒ぎが起きてしまった。この報告を聞いた高吉は、軍勢をまとめ両家の境にある衣干砦まで行ってしまった。しかし、高吉の家臣の制止により争いには発展しなかったが、この顛末を藤堂・加藤の両家は幕府へ訴えた。幕府の裁定は藤堂家の勝利となり拝志城代の加藤忠明は領地没収、さらに出家し嵯峨東福寺に行く事になった。この加藤家への一方的な裁定に悪いと思ったのか高虎は、高吉に3年間の謹慎を命じた。
・藤堂良勝が人妻を盗んだ者を灘(現、伊予市)から松山城の大手口まで追跡し処刑した事があった。



加藤嘉明の肖像画1


加藤嘉明の肖像2


加藤嘉明の銅像
松山市大街道三丁目
松山城ロープウェイ駅舎前




加藤 明成

(かとう あきなり)
(かとう あきなり)
<加藤明成の歴史>

・加藤明成=江戸時代前期の大名、伊予国松山藩の初代藩主-加藤嘉明の長男、陸奥国会津藩の第2代藩主、近江国水口藩加藤家2代。
・天正20/1592年、加藤嘉明の長男として生まれる。
・寛永8/1631年、父の死後、家督と会津藩40万石の所領を相続する。
・明成は『古今武家盛衰記』によると、民衆の困窮に何の策を講じる事もなく、自分が金を集める事に夢中になっている駄目藩主だったので、「一歩(いちぶ)殿」と呼ばれていたという。

・一方では、蒲生時代の慶長16/1611年に起った会津地震で、倒壊して傾いたままであった七層の若松城天守閣を、幕末まで威容を誇った五層に建て直すのと同時に、猪苗代湖の水を会津盆地に引き込む灌漑工事をはじめ、様々な土木工事を行って、会津の町を近世の城下町として整備したのも明成であるとtる伝えられている。

<会津騒動>

明成は、些細なことから筆頭家老の堀主水と確執を起こした。出奔した主水は、明成謀反のことを幕府に提訴し、将軍-家斉の直截で堀主人の敗訴となったが、それでも治まらない明成は、"会津40万石に代えても主水の身柄を受け取りたい"と訴え、主水の身柄を受け取ると極刑に処して溜飲を下げたという。

<加藤家の改易と再興>

・会津騒動の代償は、会津40万石の改易処分であった。その後、明成は、長男-明友が封じられていた石見国吉永藩に下って隠居の身となったが、その地で万治4/1661年に没した。享年70歳。墓所は、京都市東山の東大谷墓地にある。
・その後、明友は、はじめは家臣に養われていたが、嘉明の勲功によって取り立てられ、加藤内蔵助明友と名乗って加藤家を継ぎ、天和2/1682年、近江国水口藩2万石に加増転封され、加藤家は幕末まで存続した。



加藤明成の甲冑


会津若松城=鶴ヶ城
福島県会津若松市

3

加藤 忠明
(かとう ただあき)
(かとう ただあき)
<加藤忠明の歴史>

・加藤忠明=生没年不詳。江戸時代前期の武将、加藤嘉明の弟、通称:内記。
・松平(後、徳川)家康の家臣であった加藤教明の二男として生まれる。
・慶長5/1600年の関ケ原の戦いに、兄-嘉明が徳川家康に従って出陣中に、その留守を狙って城を攻めてきた毛利・村上・河野の連合軍と戦い、これを打ち破り、その居城-伊予松前城を守った。

<加藤忠明のエピソード>

・今治城主・藤堂高虎が、慶長7/1602年に開始した今治城築城を監視するべく、加藤嘉明が今治城の近くに築いた拝志城に忠明が城代として入った。
・その後、拝志城下において藤堂・加藤両家の争いが起り、両家ともに幕府へ提訴したが、裁定は藤堂家の勝利となった。その結果、拝志城代の忠明は領地没収となり、さらに出家して嵯峨東福寺に預けられることになった。





加藤忠明の肖像画

4

足立 重信
(あだち しげのぶ)
(あだち しげのぶ)
<足立重信の歴史>


・足立重信=安土桃山時代〜江戸時代前期の武将、初代松山藩主-加藤嘉明の重臣。
・生誕年不詳、美濃国に生まれる。通称:半助・半右衛門、本名:兼清・元清。
・美濃国で、若い頃より加藤嘉明に小姓として仕える。
・文禄/慶長の役(文禄元/1592〜慶長3/1598年)において武勲を立てた加藤嘉明が、文禄4/1595年に淡路国志智城から伊予国松前城(6万石)への転封となり、重信もこれに従う。
・慶長5/1600年)の関ヶ原の戦いの際には、佃十成らと共に主君嘉明の留守居として、毛利氏らの支援を受けて蜂起した河野氏の旧臣らの軍勢を撃退するなどの戦功によって家老に任ぜられ、5千石の所領を与えられた。
・重信は、関ケ原の戦のあとその戦功により、伊予東中部を中心に、伊予半国20万石の領主となった嘉明のもとで、松山城築城・城下町建設、および領内の治水・利水事業を行った。主に領内開発に奉行として従事し、中でも暴れ川として有名だった伊予川の灌漑工事は、下流に新たな流路を12キロに渡って開削し堤防を築いて大改修を行い、流域に広大な耕作地を生み出した。さらに、松山城の南麓を流れる湯山川(石手川)の流路を変更して伊予川と合流させ、城の堀として活用する等、堅固な築堤と水制工事・城下開発に卓越した手腕を見せた。この重信の工事により、領内では水害がなくなり、収穫も潤ったという。それ以来、伊予川は「重信川」と呼ばれ、国内でも珍しい「個人の業績を名に残す」川となった。
・その後も松山城の城郭や堀割などの構築に尽力し、伊予松山藩の初期土木行政に活躍したが、松山城の完成を待たず寛永2/1625年に没した。墓所は、生前望んでいた松山城下を見渡せる松山市御幸一丁目の来迎寺の丘にある。




足立重信の肖像画


足立重信の墓
松山市御幸1
来迎寺


5

佃  十成
(つくだ かずなり)
(つくだ かずなり)
<佃十成の歴史>

・佃十成=戦国時代から江戸前期にかけての武将、初代松山藩主-加藤嘉明の重臣。
・天文22/1553年、三河国加茂郡猿投(現、愛知県豊田市)に生まれる。父は三河国の土豪-岩松玄蕃丞と伝えられている。通称:次郎兵衛尉。
・初め織田信長麾下(きか=旗本)、後に徳川家康の家臣となるが、天正13年/1585に、些細なことから争いを起こして国を追われ、摂津国西成郡佃に蟄居した。この際に名前を「佃十成」と改める。
その後加藤嘉明から請われて家臣となり、九州征伐、小田原征伐、文禄/慶長の役に従軍し手柄を立て、家老に取り立てられる。
・慶長5/1600年の関ヶ原の戦いの時に、徳川方に味方して出陣した主君-加藤嘉明の留守居役として、領地の伊予松前城に残り、毛利氏と村上水軍の支援を受けて蜂起した河野氏の旧臣らの軍勢を、策をもって撃退(三津刈屋口の戦い)してその名を知らしめた。この戦功によって、浮穴郡久万山に6,000石の所領を与えられた。
・嘉明の松山城築城に際しては、松山城下の縄張りを担当するなど、その功績は大であり、松山城の北側に壮麗な屋敷(北郭)を構えて住んでいた。
寛永11/1634年、没、享年81歳。墓所は、松山市庄(北条) 十輪寺にある。

<三津刈屋口の戦い>

・関ヶ原の戦いの混乱に乗じて、伊予国での領土切り取りを謀った毛利氏は、現地で御家再興を狙う河野氏の旧臣や、瀬戸内の水軍衆に働きかけて蜂起させた。安芸国竹原から出陣した数百艘におよぶ舟の将は、能島水軍の村上元吉、因島水軍の村上吉忠ら豊臣秀吉の定めた海賊停止令によって、活動の場を失った海賊たちで、伊予国興居島に上陸し、現地の河野氏旧臣の平岡直房らと合流し、正木城(松前城)へ迫った。
・これに対して守将の加藤嘉明の弟-加藤忠明・足立重信・佃十成らは、女子供を城内より逃がしたいと偽って猶予を求める間に、城下の民衆を使って、さも毛利氏の侵攻を歓迎するかのような流言を放ったり、また宇和島城主-藤堂高虎に援軍を求める使者を密かに出していた。そして、油断しきって三津刈屋口に布陣していた敵軍に一気呵成に夜襲をかけ、あたり一面に火をかけると、数で勝るはずの毛利連合軍はたちまち瓦解し、村上元吉をはじめ、主だった武将を失ってしまった。
・その後も毛利連合軍は、久米・荏原・山越・道後山などで、河野氏の旧臣と呼応して抗戦するが、勢いに乗った加藤軍に撃破された。
・この敗北により、河野氏のお家再興の望みは完全に絶たれ、海賊衆は活躍の場を完全に失うことになり、毛利氏は吉川広家らの画策した本領安堵の約束を反故にされる遠因ともなった。
・なお、この一連の戦いには様々な文献や資料によって、「三津刈屋口の戦い」「刈屋畑の合戦」「三津浜夜襲」「竹原崩れ」など、いくつもの呼称が付けられ今日まで伝えられている。



松山城/北郭
松山市平和通4丁目
(現存せず)



佃十成の墓
松山市庄(北条)
十輪寺



松前城址
伊予郡松前町筒井

6

堀  主水
(ほり もんど)
(ほり もんど)
<堀主水の歴史>

・堀主水=戦国時代から江戸前期にかけての武将、加藤嘉明/明成の重臣。
・生没年月、不詳。本姓:多賀井。
・堀主水は、もともと多賀井という姓を名乗っていたのを、大坂冬の陣で、堀に落ちながらも組み撃ちで敵将の首を挙げた事から、前藩主の加藤嘉明から「堀」という姓を賜り、以来、重臣として大活躍し、明成の代になっても家老として、藩政の中心となっていた人物である。3,000石を知行。
・しかし、駄目藩主といわれた主君・加藤明成と、些細なことから不和になり、遂に出奔。主水は、去り際に会津城を銃撃したと云われ、妻子を鎌倉東慶寺に預け、高野山に身を寄せた。これを知った明成は、高野山に主水の身柄引き渡しを要求。身の危険を感じた主水は、明成の行状を21箇条にまとめ幕府に直訴した。
・幕府は会津城銃撃の罪により主水を死罪にした。さらに明成は主水だけでなく、寛永18/1641年、東慶寺にいた主水の妻子も処刑した。そのことで、東慶寺住職-天秀尼は、加藤家が駆け込み寺に押し入ったとして幕府に訴えた。事の重大さを感じた幕府は、寛永20/1643年、病身を理由に加藤家を改易した。








堀主水の妻子の居た東慶寺
鎌倉市北鎌倉


東慶寺住職・天秀尼
蒲 生 家 時 代


蒲生 忠知
(がもう ただちか)
(がもう ただちか)
<蒲生忠知の歴史>

・蒲生忠知=江戸前期の武将・大名、伊予松山の二代目の城主-外様24万石(1627年〜1634年)。
・慶長9/1604年、父-陸奥国会津藩主-蒲生秀行、母-徳川家康の娘-振姫の次男として生まれる。幼名:鶴松丸。
・寛永3/1626、出羽国(山形県)上山藩4万石の藩主となる。
・寛永4/1627、兄-会津藩主-蒲生忠郷が嗣子無くして早世したため、蒲生家は断絶するところであったが、母-正清院が徳川家康の娘であることから、忠郷の弟-忠知が家督を相続することを許された。しかし、会津60万石は幕府に没収され、その代わり忠知に伊予松山20万石と近江(滋賀県)日野4万石、合わせて24万石が与えられた。
・忠知は、暴君伝説もあるが、寺院の建築や移築を行うとともに、居城である松山城の完成に特に力を注ぎ、二之丸の整備も行っている。。
・寛永11/1634
、忠知は、参勤交代の途上に、京都の藩邸で急死した。享年31歳。死因は不明であるが、兄-忠郷と同じく疱瘡が原因とも言われている。嗣子が無かったため、蒲生家は一代で断絶となった。墓所は、松山柳井町の興聖寺にある。

<蒲生忠知にまつわる怪奇話>

・忠知の死により、近江蒲生氏の系統は断絶したが、これは祟りが遠因となったという巷説がある。忠知が藩主の座を継いで以降、世継ぎの男子が生まれないまま時を重ねていたが、やがて、藩内の妊婦に憎悪を向けることとなり、妊婦を捕まえては腹を割き、母子共々殺害するという惨劇を繰り返していたという。非業の死を遂げた妊婦の怨念により、蒲生家は断絶に至ったと伝えられ、その証拠として松山城には「まな板石」なる物が残され、城山公園となった今でもすすり泣く声が聞こえるという。


<蒲生忠知の墓所>

松山市味酒町の大林寺は、寛永4/1627年に蒲生忠知が、禅宗「見樹院」と称し蒲生家の菩提寺とし創建した。その後、寛永11/1634年に忠知が急死し、この見樹院に埋葬された。
忠知は、加藤嘉明の時代から続けてきた松山城の築城を完成させ、また父の代からくすぶり続けていた重臣同士の対立にも決着をつけた。しかし、31歳の若さでこの世を去った忠知にも嗣子がなく、蒲生家はついに断絶した。
・蒲生家断絶の後の寛文11/1671年、松平定行は僧/三甫を住持として見樹院を修営して、浄土宗に改宗し累世の香花院とした。その後、忠知の墓は、松山市末広町の興聖寺に移された。
・現在、興聖寺にある供養碑は、伊予に残った蒲生旧臣の子孫8名が、忠知の死んだ145年後の安永7/1778年に建立したものです。

<蒲生家/松平家と大林寺>

・寛永元/1624、後に松山藩松平家初代藩主となる松平定行の父-定勝(伊勢国桑名城主)が、桑名城で卒去したため、二代将軍秀忠は定行に対し、ただちに定勝の菩提寺を造営するよう命じた。
・定行は、桑名領内に菩提寺を造営し、定勝の法号/崇源院から、寺院の名前を「崇源院」(後の照源寺)と名づけた。
・寛永12/1635年に、定行が松山城主となると、松山城下の味酒町にあった禅宗/見樹院へ父-定勝を祀り、寺号を崇源院と改めた。もともと見樹院は、前松山城主・蒲生家の菩提寺であったので、定行は蒲生家の御霊を末広町の興聖寺へ移し、蒲生家墓地跡に供養塔(大林寺に現存)を建てた。そして桑名の照源寺より、大誉/三恕和尚を招請した。三恕和尚は、師匠で桑名の照源寺を開山した三甫和尚を、松山の崇源院の開山とし、自らは二世を称した。
・延宝2/1674、崇源院は、二代将軍秀忠の御台所/浅井氏の院号と同じであったため、それに遠慮して寺号を大林寺と改めた。
・延宝4/1676寛文2/1662年に逝去した松平二代藩主/定頼、延宝2/1674年に逝去した三代/定長の御霊屋造営が造営された。
・延宝8/1680松平四代藩主/定直より、月照山の山号を賜る。



蒲生忠知の肖像画


蒲生忠知の供養碑
松山市柳井町
興聖寺



まないた石
松山市堀之内
二之丸史跡庭園
松 平 家 時 代


松平 定行
(まつだいら さだゆき)
(まつだいら さだゆき)
<松平定行の歴史>

松平定行=江戸時代初期の大名、伊予松山藩-松平家初代藩主。
天正15/1587年、父は松平定勝、母は内室奥平氏(たつ、二之丸殿)。祖母は水野氏(伝通院殿)・於大の方(徳川家康生母)。幼名は千松。この幼名は家康の父・松平広忠の幼名で、伯父家康より拝領。以後、隠岐守家の代々の幼名となる。
・慶長7/1602、伏見城にて勤仕(ごんし=役目を勤める)し、それにより近江国蒲生郡の内2千石を賜わる。同年、兄-定吉の早世により嫡子となる。
・慶長8/1603年、1千石を加増され、近江国蒲生郡の内、日野・音羽の二郷を馬飼料として賜わる。
・慶長10/1605、伯父の家康の命により、島津家久の養女(千鶴姫)と婚姻する。千鶴姫の実父は島津家の家臣・島津朝久、生母は、島津義弘公の長女・御屋地。時に千鶴姫は十三歳であった。
・慶長12/1607、定勝より掛川城三万石を譲られ大名となる。大坂の陣では定勝とともに伏見城を警衛する。
・元和3/1617年、定勝の世子になり、掛川を幕府に還付し桑名に移る。
・寛永元/1624年、定勝の卒去により、遺領/桑名藩十一万石を継承する。

・寛永12/1635年、家光の命により四万石の加増をもって伊予松山藩に移る。
・寛永15/1638年、道後温泉の施設の拡充を実施する。
・寛永16/1639年、松山城の天守を五層から三層に改築する。
・正保元/1644、幕府より、長崎港での異国船取扱を担当する「肥前国長崎探題」に任じられ、同時に長崎屋敷を賜わる。この時、御槍二本を拝領、東海道へ七里飛脚を置き、公私ともに使用する事を許された。当時、七里飛脚は、御三家にのみ許されていた。
・慶安3/1650年、常信寺を造営する。松山城鬼門の地に祝谷常信寺を開き、大僧正天海の弟子の憲海を招請した。憲海は、寛文5/1665年、横川別当代となり、常信寺中興開山となった。
慶安4/1651年の徳川家光薨去後、幼将軍・徳川家綱を補佐するため、溜之間詰に任ぜられた。
・万治元/1658年、72歳で隠居。家督を嫡男の定頼に譲り、松山東野御殿に退き、松山
(しょうざん)、後に、勝山と改め、勝山公と奉称される。東野御殿においては、俳諧や茶道に親しむなど、悠々自適の生活を送った。
・寛文2/1662年、二代藩主定頼が江戸藩邸で落馬し、卒去、享年56歳。松山の大林寺へ埋葬。定頼の嫡子・定長が三代藩主となる。
・寛文8/1668年、定行が
東野御殿にて卒去、享年82歳。遺骸は、松山祝谷の常信寺に葬られ、壮大な廟が造営された。その後、位牌が江戸の寛永寺の塔頭である東円院へも納められた。

<定行の道後温泉改築>

・定行は、寛永15/1638年に、道後温泉の改修に着手した。定行の改修以前の道後温泉は、露天風呂形式であったが、この改修により、浴場の周囲に柵を設け、浴槽は、それまでの習いに従って、士族・僧侶用(一之湯)、婦人用(二之湯)、一般男子用(三之湯)に分けた。その西に、士族の妻女用の十五餞湯、旅客雑人用の十餞湯、養生湯も設けた。これらはすべて、一つの建物内にあり内部が仕切られていた。さらに、その建物の下流には、牛や馬が入る「馬ノ湯」まであった。
・定行が実施した温泉の改築は、現在の温泉施設の原型となっている。また、入浴料を徴収するなど、温泉の経営も開始した。


<定行の松山城改築>


・定行は、松山城主となって4年後の寛永16/1639年に、松山城の大改築を始めた。改築の内容は、門扉・石積み類の回収に加えて、当時五層の偉観を誇っていた天守閣を三層に改築するというものであった。
・天守閣改築の大きな理由は、天守閣のある場所が、谷を埋め立てた山頂部であるため、建造物の構造上の安全を期するためであったと伝えられている。また、立派すぎる天守閣を、幕府側に気遣い三層に低くしたという説もある。

<定行が造営した東野御殿>

・松平定頼が二代藩主となった万冶元/1658年〜寛文元/1661年までの約3年間を費やして、松山城の東約3kmの東野の地に、数寄家と庭園が作られた。これが東野御殿と呼ばれるものである。この御殿は、定行が隠居用の別荘として千宗庵に命じて作らせたもので、完成したのは寛文元年であるが、定行は、万冶2/1659年にはこの地に移り、既にくらしていたといわれる。
・東野御殿は、清楚な竹の茶亭のお茶屋をはじめとし、多数の建造物があり、また、現在も残っている池畔には、清水寺を模した観音堂などが建てられた。
同じ時期に、この東野御殿の南方向にも、定行の弟の定政が吟松庵をつくり、その2つの間をつなぐ道路に沿って、東海道五十三次の宿駅を模した庭園も造られ、この時代、東野一帯が風情ある別荘地のようになっていたといわれる。

<定行が造営した長寿院(法龍寺)>

・定行の正室(島津忠恒の養女=長男定頼の生母)は、元和4/1618年に卒去し、伊勢桑名の長寿院に葬られたが、定行の松山移封にともない、松山城下に長寿院(現、法龍寺)を造営し、位牌を祀っている。継室は、前室の養妹で、明暦4/1658年に江戸で卒去し、江戸麻布の曹渓寺で火葬に付され、遺骨が松山の長寿院に送られ埋葬された。

<定行が伝えたタルト>

・タルトは、松平定行によって長崎から伝えられたといわれている。長崎探題職を兼務していた定行は、正保4/1647年、ポルトガル船2隻が長崎に入港したとの知らせで長崎に向かい、海上警備にあたった。結局のところ、ポルトガル船は、国の統治者が代わったことを伝えるだけだったため、港湾内で争いは無く、この時に定行は、南蛮菓子に接しその味にいたく感動し、製法を松山に持ち帰ったといわれている。その南蛮菓子は、カステラ(鶏卵を泡立てて小麦粉・砂糖=水飴を混ぜ合わせた生地を、オーブンで焼いた菓子のひとつ)の中にジャムが入ったもので、現在のロールケーキのようなものであった。
・タルト(tarte)の語源は、発音の一致からオランダ語でケーキを意味する「taart」説、製法が似通っていることから、ポルトガル語でケーキを意味する「torta」説があるが、いずれにせよ、これらの語、「taart・torta・tarte」は、すべて「焼き菓子」に相当するラテン語「t?rta」に由来している。
・タルトといえば、「皿状にした生地に、フルーツなどを盛り付ける焼き菓子」の方が一般的であるが、松山地方では、「薄く焼いた、もしくは焼いてスライスしたカステラ生地に、餡を巻き込んだロールケーキ状の菓子」のことをいう。その餡を使ったのは、定行が独自に考案したものといわれており、その技術は松平久松家の家伝とされ、明治以降になって松山の菓子司に伝わり、愛媛の銘菓となったという。
・文献によれば、松山の湊町4丁目にあった「相原菓子店」が明治12/1879年に、定行が考案した、いわゆる「カステラ生地に、餡を巻き込んだロールケーキ状の菓子」を最初に作って販売したとあり、以来、現在に続く多くの菓子店舗が、販売を始めている。現存の主なタルト製造/販売店を紹介する。
 @「一六本舗」:明治16/1883年の創業で、創業年の「16」が社名の由来。大街道 商店街の中央(大街道2丁目)にある大街道本店は、一六本舗創業の地。
 A「六時屋」:昭和8/1933年に、初代/村瀬宝一が松山市勝山町に六時屋を創業。 社名は、時計の針が六時のとき長針と短針がまっすぐになるように、まっすぐ正直 な心で商売をしようということから命名。昭和23/1948年、松山三越入口でタルト の賃加工をし評判となる。昭和27/1952年に「株式会社六時屋」とする。
 B「ハタダ」:昭和8/1933年、新居郡角野町枯松にて、畑田康一が菓子舗畑田「大 正堂」を開店。昭和37/1962年に有限会社「畑田本舗」設立、社名は、創立者の名 字から命名。昭和50/1975年に「ハタダ栗タルト」発売、昭和58/1983年に「株式会 社ハタダ」に組織変更、平成8/1996年に「御栗タルト」発売。
 C「亀井製菓」:昭和38/1963年に、亀井好一が創業。社名は創業者の名字に由来 する。タルト・醤油餅等の郷土菓子を主力商品としており、とくに伊予柑をゼリー 状にしたものを巻いた「いよかんタルト」が有名。松山市枝松に本社店舗がある。




松平定行の肖像画


松平定行の御霊屋
松山市祝谷
常信寺



定行の隠居所/東野御殿跡
松山市東野


松山銘菓タルト
定行が長崎探題時代に伝えた
と言われいる




松平 定頼
(まつだいら さだより)
(まつだいら さだより)
<松平定頼の歴史>

・松平定頼=江戸時代初期の大名、伊予松山藩-松平家二代藩主。
・慶長12/1607年、遠江掛川城で生まれる。父は松平定行、母(内室)は、島津氏(千鶴姫、後の長寿院殿)。
・寛永15/1638年、嫡男-定盛が誕生。
・寛永17/1640年、次男-定長が誕生。定長は、病弱の兄の後をうけ嫡男となり、定頼の没後、三代藩主となる。
・正保4/1647年、父-定行が長崎探題職に任じられたため、父と共に長崎へ赴く。
・万治元/1658年、父-定行が隠居し、定長は、52歳の時、家督および長崎探題職を継承する。
・万治2/1659年、藩主就任後、初めて松山入りするが、その期間中に松山入りはわずか3回であった。

・寛文2/1662年、江戸松山藩邸の三田中屋敷にて、乗馬の練習中に馬が驚奔し落馬、そのまま危篤に陥り、父に先立ち卒去。享年56歳。この時、侍臣の吉田則親・戸田政勝・村越俊直・松野清正は責任を感じ殉死している。定頼の遺骸は、江戸三田済海寺で荼毘に付され、遺骨が大林寺に埋葬され、分骨が高野山に葬られた。

<松平定頼の子沢山>

急逝した松平定頼であるが、当時らしく、子沢山であった。家系的にみると、定頼の正室は京極高広の娘で、子供は、松平定盛(長男)、松平定長(次男)、松平定重(三男)、真修院(島津綱久正室)、仙寿院(山内豊昌正室)、娘(黒田之勝正室)、娘(酒井忠直正室)、正寿院(阿部定高正室)の8人もいた。



済海寺
東京都港区三田


高野山・松平/久松家墓所







松平 定長
(まつだいら さだなが)
(まつだいら さだなが)
<松平定長の歴史>

・松平定長=寛永17/1640年、江戸藩邸で生まれる。父-松平定頼、母(内室)-京極氏の女(後、養仙院殿)。
・寛文2/1662年、父-定頼が亡くなると、兄-定盛は病弱であったため、嫡男の座を弟-定長へ譲り、松山で閑居したため、三代藩主となる。
・寛文3/1663、三津魚市場を整備。三津魚市場を統率させるため天野作右衛門らに肴問屋として魚市場の事務を取り扱わせた。また、翌年には、売買の紛争を未然に防ぐため「隠し言葉」を使うよう定めた。
・寛文4/1664、道後湯月八幡宮(伊佐爾波神社)の造営を開始。寛文7/1667年に完成し遷宮式が行われた。
延宝2/1674年に大病になり、定長には子女がいなかったので、今治藩初代藩主-松平定房の嫡孫-鍋之助を養嗣に迎えた。
・同年、江戸藩邸で卒去。享年35歳。三田済海寺で火葬に付し、遺骨を大林寺へ埋葬。身延山久遠寺へ分骨。


<佐爾波神社の由来>

・社伝によれば、仲哀天皇と神功皇后が道後温泉に来湯した際の行宮跡に創建されたという。旧鎮座地は、「伊佐爾波岡」と呼ばれていた場所で、現在の湯築城跡とされる。平安時代中期の『延喜式神名帳』には、「伊予国温泉郡伊佐尓波神社」と記載され、式内社に列している。神仏習合の時代には、宝厳寺と石手寺は、共に伊佐爾波神社の別当寺であったとされる。
・伊予国守護-河野氏による湯築城の築城に際し、現在の地に移転された。当神社は湯築城の守護神として河野氏から崇敬されたほか、道後七郡(野間・風速・和気・温泉・久米・伊予・浮穴の各郡)の総守護とされた。
・松山藩の藩主となった加藤嘉明は、松山城の固めとして松山八社八幡を定め、当神社は「湯月八幡宮」として一番社とされた。また武運長久の祈願社として、社領に久米郡井合の土地100石を寄進した。


<伊佐爾波神社の社殿を造替>

・寛文2/1661年、弓の名手といわれた三代藩主-松平定長は、将軍家より江戸城内において弓の競射を命じられた際、湯月八幡宮へ必中祈願をした。寛文4/1664年6月、定長は、将軍家の御前で弓を無事に射ることができ、祈願成就の御礼として社殿の造替に着手した。
・寛文7/1667年5月、大工697人、延べ人数69,017人を要し新社殿が完成。松平家より代参として家老竹内家が参拝し、遷宮式が挙行された。新社殿は石清水八幡宮を模したとされる八幡造で、宇佐八幡宮とあわせて3例のみである。


<三津に魚市場を開設>

・松平定長は、寛文2/1662年〜延宝2/1674年の間の13年間、松山藩を治封した。その間に、定長が行った藩政として有名なのは、今の三津浜に魚市場を開いた事と、伊佐爾波神社の社殿改築である。
・魚市場については、寛文3/1663年に、天野作右衛門・天野十右衛門・唐松屋九朗兵衛らに、三津で肴問屋の事務を始めさせた。
・その後、三津で魚類の取引が盛んになってきますが、そのうち、漁夫と魚商の間でたびたび売り買いのトラブルが発生したため、三津に魚市を設置し、寛文4/1664年には、紛争を防ぐため、売り買い時に「隠し言葉」(値段が買う人以外にわからないようにするため)を使用するように規定を定めた。




定長が造営した伊佐爾波神社
松山市桜谷町


松平定長着用の鎧


松平 定直
(まつだいら さだなお)
(まつだいら さだなお)
<松平定直の歴史>

松平定直=江戸時代初期〜中期の大名、伊予松山藩-松平家四代藩主。
万治3/1660年、父-今治藩初代藩主-松平定房の嫡子で、二代今治藩主-松平定時の長男として、今治藩の江戸藩邸で生まれる。幼名:鍋之助。実母(側室)-嶺頂院殿(平岡氏の娘)、正室-佐倉藩主-稲葉正往の娘。長男-定仲、次男-鍋之助、三男-定英、四男-定章。

・延宝2/1674年、又従兄に当たる伊予松山藩主-松平定長の養嗣子となり、同年に定長が卒去したため四代松山藩主となる。養母は京極氏の女-春光院殿。
・延宝6/1678年、養曽祖父-定行の隠居所-東野御殿が取り除かれる。
・延宝年間に入り、度重なる自然災害により藩の財政は逼迫し始めた。そこで、定直は、延宝7/1679年、藩財政の回復を図るため、高内親昌を奉行に任じて、課税方法の変更を行うための法令を頒布した。
貞享4/1687年、藩庁を二之丸より三之丸に移し、二之丸を別棟(隠居所)とした。
宝永元/1704年、将軍家世嗣-徳川家宣の官位昇進のため、京都御使を命ぜられ侍従に昇進する。京都では東山天皇の拝謁を賜う。
宝永2/1705年、領内では財政難から初めて藩札を発行。一方で地坪制度を導入することによって、農民負担の均質化をはかり、課税法を検見法から定免法に改めることによって安定した年貢収入に成功する。
儒学の興隆を図る一方、俳諧に興味を持ち、宝井其角へ入門するなどその興隆に貢献した。また、大宝寺や西林寺の修復、千秋寺、大禅寺などを創建した。
享保5/1720年、江戸松山藩邸-三田中屋敷にて卒去。享年61歳。遺骸は三田済海寺で荼毘に付され、遺骨は松山大林寺に葬られた。

<元禄赤穂事件>

・元禄15/1703年12月15日に発生した元禄赤穂事件に関して、定直は赤穂浪士47名のうち、大石良金・堀部武庸・木村貞行・中村正辰・菅谷政利・千馬光忠・不破正種・大高忠雄・貝賀友信・岡野包秀の10名の預かりを命じられた。この頃、病床にあった定直は江戸城への登城ができず、家臣を通じてこの命令を受けた。元禄16/1704年1月5日になって浪士達と会見。会見の遅れへの謝罪と仇討ちへの称賛を送り、"もっと大歓迎をしたいところだが、幕府からのお預かり人であるためできない。しかし諸事不自由はさせない。用事があれば遠慮なく家臣に申し付けてくれてかまわない。"と述べている。但し、松平家の浪士達への待遇は、大石良雄らを預かった細川綱利に比べ劣ったようで、江戸の武士や庶民からは、"細川の 水の(水野忠之)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の 沖(松平隠岐守)ぞ濁れる"(当時の狂歌)と批判された。



松平定直が着用した甲冑


定直の時代に発行した藩札


定直が創建した千秋寺
松山市御幸一丁目


松平 定英
(まつだいら さだひで)
(まつだいら さだひで)
<松平定英の歴史>

・松平定英=江戸初期の大名、伊予松山藩-松平家五代藩主。
・元禄9/1696年、四代藩主-松平定直の三男として生まれる。母は側室-光樹院殿(渡部氏の娘)。正室は薩摩藩主-島津綱貴の娘-菟(栄)。長男-定喬
(さだたか)、次男-定功(さだかつ)。幼名:百助、通称:刑部。
・定直の長男-定仲と、二男-鍋之助の早世により嫡子となり、宝永7/1710年、従五位下飛騨守に任ぜられる。
・享保3/1718年、江戸より松山藩世嗣として帰国。松山城二之丸に入る。
・享保5/1720年、父-定直の卒去により、松山藩15万石を継承する。その3日後、隠岐守に転任。家督継承に際し、父の遺言に従い、内分1万石を弟の定章に分知。これにより松山藩内に、松山新田藩1万石が誕生する。
・享保15/1730年、幕府の札遣解禁令により、宝永以来25年ぶりに、藩札(享保銀札)を発行した。発行額面は、最小額面である銀壱分であった。
・享保17/1732年、享保の大飢饉が松山藩を襲った。長雨の後のウンガの大発生によって、この年の米の収穫高は皆無となり、領民は飢えに苦しみ、死者は3,500人を数え、その中には、伊予郡筒井村の義農「作兵衛」もいた。
・定英は、藩士には1人の死者も出ず、領民への苛政を咎められ、幕府より謹慎処分を受けた。翌、享保18/1733年年4月に許されるも、同年5月に、江戸松山藩邸-愛宕下上屋敷にて気絶しそのまま、卒去、享年38歳。遺骸は、江戸三田の済海寺で荼毘に付され、遺骨は同寺に葬られた。遺髪は、松山大林寺(現、松山市味酒町)へ送られ法要が営まれた。以降、藩主の墓は江戸に置かれ、遺髪が国許に送られるようになった。

<享保の大飢饉>

・享保17/1732年、この年は5月頃から長雨が続き、稲に害虫が発生し、道後湯月八幡宮で虫送り祈祷をするが功なし。水田ではウンカが大発生し、そのため、領内の米の収穫高は皆無となってしまい、松山藩は大飢饉に陥り、領民は飢えに苦しみ、死者は3,500人を数えた。9月、伊予郡筒井村で「義農作兵衛」が餓死した。作兵衛は麦種を食べては来年の作付けができぬとして食べることなく、それを枕にして餓死してしまったのである。
・しかし、領民に多くの餓死者を出したにもかかわらず、逆に藩士には1人の死者も出さなかったことから、領民への苛政を咎められ、定英は幕府より差控(謹慎処分)を受けた。翌、享保18/1733年年4月に許されるも、同年5月に、江戸松山藩邸-愛宕下上屋敷にて気絶し、そのまま卒去した。享年38歳。遺骸は、江戸三田の済海寺で荼毘に付され、遺骨は同寺に葬られた。遺髪は、松山大林寺(現、松山市味酒町)へ送られ法要が営まれた。以降、藩主の墓は江戸に置かれ、遺髪が国許に送られるようになる。

<「五色そんめん」を朝廷/将軍に献上>

・五色素麺は、愛媛県松山市に伝わる郷土料理の一つで、大半は普通の素麺で、中に素麺に紅花などにより色を着けたものが混ぜられている。色は、赤、黄、緑、濃紺にもともとの白を加えた五色であり、見た目にも美しい。江戸時代初期の寛永12/1635年に、八代目-長門屋市左衛門が考案し、享保7/1722年、松平定英が参勤交代の折、幕府に献上し好評を博した。八代将軍-徳川吉宗は、松平定英から「五色そうめん」の献上を受け、「美麗五色は唐糸の如し」と讃えたという。また、朝廷にも献上されたと伝えられている。



義農神社
伊予郡松前町筒井


五色そうめん
松平 定喬
(まつだいら さだたか)
(まつだいら さだたか)
<松平定喬の歴史>

・松平定喬
江戸中期の大名、伊予松山藩-松平家六代藩主。
享保元/1716、母-島津氏の実家、江戸薩摩藩邸において、で松平家五代藩主-定英の嫡男として誕生。母-栄姫は、島津藩主-松平薩摩守綱貴の女で、二代定頼の曾孫にあたる。誕生後、松山藩邸へ移り、祖父-定直により松平百助と命名される。
・享保5/1720年に、父-定英より定喬の名を進められる。
・享保18/1733年、父-定が急逝。六代藩主に就任し、初めて松山へ入る。
・松山札の辻へ目安箱を設置。儒者-松田東門に文を作らせ、水谷平蔵が書した。
・享保20/1735年、日光宮より東照宮鎮座についてお尋ねがあり、定喬は、常信寺山内に、以前より東照宮が鎮座していると返答した。
・寛保元/1741年、「松山騒動」起きる。久万山26ヶ村の農民が、年貢の負担軽減を求め大洲領へ逃散。藩政の座にあった家老-奥平貞国は、二名島へ流罪。この一連の騒動により、実弟-奥平貞儀を引戻し久松姓に復姓、久松直次郎と改める。
・寛延元/1748年、三代将軍-家光の100回忌法要が、常信寺において執り行われた。・宝暦6/1756年、初代-定行以来、100年間途絶えていた溜間詰に任ぜられる。

・宝暦13/1763年、江戸松山藩邸愛宕下-上屋敷にて卒去。享年48歳。これまで火葬されていたが、養嗣子-定功によって停止され、三田済海寺に土葬され、遺髪が松山大林寺へ送られ埋葬された。


松平定喬が目安箱
を設置した「札の辻」
松山市本町三丁目
松平 定功
(まつだいら さだかつ)
(まつだいら さだかつ)
<松平定功の歴史>

松平定功江戸中期の大名、伊予松山藩-松平家七代藩主。
・享保18/1733年、父-定英の死から2ヶ月後に誕生。実母は、定英の側室-赤松氏の女(多世、後、貞香院)。兄-定喬により、高島弁之丞と名づけられる。後、佐竹庄兵衛に養子に出されるが、翌年、松山へ帰郷し、二ノ丸黒門見通しの屋敷を住まう。
・元文4/1739年、家老-奥平家へ養子入る。家老-奥平貞敦が江戸で死去したため、兄-定喬の命により貞敦の養嗣子(奥平貞国の孫)となり、遺録3,000石を賜わり、名を奥平弁之丞貞儀と改める。
・寛保元/1741年に起こった松山騒動のとき、奥平貞国の屋敷(東屋敷)より三ノ丸へ移り、その夜に養祖父貞国が遠島となる。その直後、久松氏に復し名を直次郎定功と改め、実兄の定喬より御賄料1,500俵を賜わり、奥平家の屋敷であった東屋敷を住まいとした。後に東屋敷は、家老-水野氏の屋敷となる(現、松山東雲学園の場所)。
・寛保3/1743年、兄-定喬より老中へ「丈夫届」が出され、「松平氏」となる。「丈夫届」は、生まれた幼児が病弱の場合、すぐに亡くなる可能性も高いので、何年かして丈夫だったら、遡って、実際の年に生まれたように届けるもの。
・宝暦13/1763年、兄-定喬が江戸藩邸で危篤に陥ったため、幕府へ定喬の急養子となることが願い出され、同年、定喬の卒去後、養子と遺領15万石の相続が認められ、七代藩主となる。
・同年、藩主就任後、初めて松山入りする。家臣は家督継承後、一年は江戸表にいれば、必ず官位昇進があるので、今しばらく帰国は延期した方がよいと申し上げましたが、定功は、官位昇進よりも先祖の遺領を相続したのだから、さきに領民に対面すべきとして帰国した。
・同年、十匁から二分の新銀札(藩札)を発行した。この藩札は預かり地であり幕府領の川之江や近接の大洲領、小松領でも流通した。この時の銀札一匁=銭六十文という相場が明治まで継続した。
・明和元/1764年12月頃より、大病にかかる。
・明和2/1765年、昨年末以来の大病が回復せず、従弟の松平定静(松山新田藩二代藩主)を急遽養子とする旨を幕府へ届出した。
定功は、定静の養子届を提出した翌日、江戸藩邸で卒去、享年33歳。治封わずか3年。済海寺に埋葬、遺髪が大林寺へ埋葬された。 



松平定功が発行した
「宝暦の銀札」
松平 定
(まつだいら さだきよ)
(まつだいら さだきよ)
<松平定静の歴史>

松平定静江戸中期の大名、伊予松山藩-松平家八代藩主。

享保14/1729年、江戸二本榎屋敷で誕生。父-松山新田藩初代藩主-松平定章、母-側室松本氏(放光院)。出生後、長島氏を称し源之助と名づけられる。
・享保15/1730年、父-定章の願いにより嫡子となり、松山藩五代藩主-定英より松平氏の称号を賜い、松平源之助と称した。
・享保17/1732年、定静と名を改める。
・延享4/1747年、江戸にいた定静のもとへ、父-定章が危篤に陥ったと知らせが入った。定静は、ただちに上洛の願いを本家の定喬へ出し、定喬はすぐさま幕府へ届出、その日のうちに許可が下り、定静は上洛したが、その道中で父の卒去を知らされる。
そして、定静は、定喬の願いにより新田藩10,000石が相続され、新田藩二代藩主に就任した。
・明和2/765年、七代藩主-定功が危篤となり、幕府へ定静が養子となる旨が届出された。定功の卒去の後、定静は、定功公の願いのとおり、松山藩15万石の相続が認められた。同時に、新田藩10,000石は幕府へ収められた。本来、この新田藩は特定の領地を分知したものではなく、蔵米を支給していたが、幕府はそれを認めず、領地の上納を命じた。
・明和4/1767年、銀十匁札と銀五匁札の藩札を発行し、明和6/1769年からは、家中への扶持米支給として銀札が支給された。
・明和5/1768年、常信寺山内の東照宮仮殿へ、家康公の御神霊を遷宮し、常信寺で家康公150回忌法要を執行した。本来は、家康公150回忌は明和4年でるが、東照宮造営につき、明和5年に執り行われた。
・同年、六代-定喬の女-鉄姫を養女とし、田安宗武の六男-松平豊丸を婿養子とする旨を幕府より申し渡される。定静は、豊丸を定国と改めた。
・明和8/1771年、後桃園天皇の即位式に列席のため上洛し、天皇に拝謁して天盃を賜わる。六代藩主-定喬以来の溜間詰に任命される。
・同年、松平定政の100回忌に、常信寺の定政公墓所に旗本某氏より覆屋が寄進された(この時寄進された定政の覆屋が、常信寺境内に現存している)。
・安永6/1777年、定静の命により、享保の大飢饉で麦種を枕にして餓死した、伊予郡筒井村の義農作兵衛の墓碑を建立した。
・安永8/1779年、江戸藩邸で急病に陥り、危篤状態となり、嫡子-定国より幕府へ届出され、愛宕下の藩邸で卒去。享年51歳。済海寺に埋葬、大林寺へ遺髪が送られた。



松平定静が建てた
義農作兵衛の墓

伊予郡松前町筒井


松平 定国
(まつだいら さだくに)
(まつだいら さだくに)
<松平定国の歴史>

・松平定国=江戸中期の大名、伊予松山藩-松平家九代藩主。
・宝暦7/1757年、江戸城田安御殿で誕生。父-田安宗武、実母-香詮院殿山村氏の女。
幼名:辰丸と名づけられ、翌年、父-宗武公より豊丸の名前を授けられ、松平豊丸と称した。

・明和5/1768年、幕府の命により伊予松山藩-松平定静の婿養子となり、内室は、定静の養女(定喬の女=銕姫)(婚礼は安永5/1776年)。同年、養父-定静より実名定国と名づけられ、翌年、松山藩江戸藩邸に御殿が落成し、田安御殿より松山藩邸へ移る。
・寛政4/1792年、常信寺の本堂、御霊牌所、庫裏、書院などが焼失。霊牌は僧侶が持ち出して無事であった。寛政7/1795年より再建を開始し、同9/1797年に落成した。
・寛政5/1793年、江戸藩邸で三男が誕生、辰丸と名づけられ、後に、立丸と改称。
・寛政6/1794年、翌春に一宮欣子内親王が、光格天皇に入内するので、その慶賀のため将軍家名代を任じられた。翌年、光格天皇に拝謁。つづいて中宮、女院の拝謁を賜り、光格天皇からは溜間詰少将に推挙され、将軍家の承認により少将に昇進した。実に、藩祖定勝以来170年ぶりの少将叙任である。
・同年、三男-立丸を嫡子とする旨が届出された。
・文化元/1804年、大病。脚気により体調すぐれずとの旨、嫡男-立丸より幕府に届け出、直後、江戸松山藩邸-愛宕下上屋敷にて卒去。享年48歳。江戸-済海寺に葬られ、遺髪が松山大林寺に送られた。
・定国の卒後、五男が誕生した。生母は定国の側室-千佐=祐光院殿)。叔父-定信より保丸と名づけられた。



松平定国の肖像画

10

松平 定則
(まつだいら さだのり)
(まつだいら さだのり)
<松平定則の歴史>

・松平定則=江戸後期の大名、伊予松山藩-松平家十代藩主。
・寛政5/1793年、江戸藩邸で誕生、辰丸と名づけられ、後に立丸と改称。父-九代藩主-は松平定国、実母-靖操院藤田氏の女。
・寛政9/1797年、叔父-松平定信の三女福姫と婚姻。しかし、縁女となった福姫は嫁すことなく3年後に卒去した。享年5歳。
・文化元/1804年、父-定国、卒去。父の卒去を受け、十代松山藩主となり、実名を定則と改める。この年、伊予郡松前浜に港を造営している。
・同年、亡父-定国と側室との間に男子が誕生し、保丸と名づけられた。後に、十一代藩主-松平定通となる。
・文化2/1805年、城下二番町横町に、初めての藩校-興徳館を開設し、杉山熊台を教授として藩士の指導を当たらせた。
・文化6/1809、法龍寺が伊予国僧録となる。先年より、定則は、曹洞宗伊予国僧録について、龍穏寺からの分録を希望しており、これを受け、法龍寺は分録志願を江戸の関三刹へ提出しており、この年、法龍寺が伊予国僧録に任じられた。
・同年、弟-保丸の丈夫届を提出。病弱であった保丸が回復したので、幕府に実弟-保丸13歳(実は6歳)と届け出、名を勝丸を改めた。
・同年、定則、急病のため、弟-勝丸を急養子にする。その直後、卒去。享年20歳(実は17歳)。慣例に従い、三田済海寺に埋葬、遺髪が松山大林寺へ納められた。




松平定則の肖像画

11

松平 定通
(まつだいら さだみち)
(まつだいら さだみち)
<松平定通の歴史>

・松平定通=江戸時代中期〜末期の大名、伊予松山藩-松平家十一代藩主。
・文化元/1805年、九代藩主-松平定国の五男として生まれる。幼名:保丸、後に勝丸と改め。母は側室-祐光院殿。正室-田安斉匡の娘。
・文化6/1809年、兄-定則(10代藩主)の卒去により、松山藩15万石を継ぐ。叔父で前老中の松平定信に「定通」の名を進められる。
・文化11/1814年、藩校-明教館を創設し、文武両道の振興、弛緩した気風の刷新、綱紀の粛正をはかった。
・文化13/1816年、徳川十一代将軍-家斉の名代として、日光東照宮の参拝を果す。
・文政8/1825年、溜之間詰に任ぜられ侍従に昇る。
・定通は、生来病弱であったため子女に恵まれず、庄内藩主-酒井忠器(ただたか)の女=鶴姫を養女とし、天保3/1832年、薩摩藩主-島津斉宣(なりのぶ)(島津家二十六代当主-薩摩藩九代藩主で、天璋院篤姫の祖父)の十一男-勝之進(後の松平勝善)を配して養子とした。
・天保6/1835年、定通は、脚気のため帰国を遅らせたが、まもなく江戸松山藩邸愛宕下上屋敷にて、卒去、享年39歳。遺骸は江戸三田の済海寺に葬られ、遺髪は済海寺を発し、木曽路を経て松山大林寺へ送られ葬られた。

<藩校「明教館」創設>

・定通は、3代藩主-松平定則の遺志を受け継ぎ、江戸松山藩邸に藩校-三省堂を設立した。その甲斐あって、松山では生徒数が増加したため、定則が、文化2/1805年に三之丸に建てた興徳館が手狭となり、松山城内東門付近(二番町横町)に移築し、修来館と改称した。
・文化11/1814年、修来館を拡充させ、明教館を創設。文武両道の振興、弛緩した気風の刷新、綱紀の粛正をはかった。



松平定通の肖像画


明教館講堂
松山市持田町二丁目
松山東高等学校



12

松平 勝善
(まつだいら かつよし)
(まつだいら かつよし)
<松平勝善の歴史>

・松平勝善=江戸時代末期の大名、伊予松山藩-松平家十二代藩主。
文化14/1817年、薩摩藩-江戸白金中屋敷で、九代薩摩藩主-島津斉宣の十一男として生まれる。母(側室)-島津樵風の養女=百十(後、真如院)。

天保3/1832年、十一代松山藩主-松平定通の養嗣子として迎えられ、定通の養女(酒井左衛門尉忠器の女)と婚約する。養父-定通より実名に定穀(さだよし)を勧められ、薩摩藩邸より松山藩愛宕下屋敷邸へと移り、後に三田屋敷を住まいとした。
・天保6/1835年、定通が逝去し、定穀が松山藩15万石を継承。間もなく溜間詰に任ぜられる。その後、定穀は、三十歳中頃に松平勝善と改名した。
・天保8/1837年、大塩平八郎の乱に出兵。同年、十二代将軍-徳川家慶の名代として御使に任ぜられ上洛するも、仁孝天皇不予のため拝謁は賜らなかった。天皇の思し召しにより、江戸へ帰館後、左近衛権少将に昇任する。
・勝善もまた子宝に恵まれなかった。天保8/1837年に、すでに内定していた田安家当主-徳川斉匡の子-錦之丞を、養子とすることを正式に決定した。
・天保9/1838年に、越前福井藩主-松平斉善が突然死去し、将軍-徳川家慶の意向により、錦之丞はそちらの跡取りとされてしまい、勝善との養子縁組話は解消されてしまった。この錦之丞が、後の幕末の名君として知られる松平春嶽である。
・同年、藩祖-松平定勝をお祀りする東雲神社へ、家中より石手水鉢、城下町方より惣石壇切石、三津町方より神門、十郡郷方より玉垣をそれぞれ奉納したい旨があり、許可された。
・天保10/1839年、葵御紋が定紋とされ、翌年には江戸屋敷の門へ、松平六ツ葵(花葵紋)が付けられた。
天保11/1840年、松平定吉の菩提寺-松山城下中の川の蓮福寺へ50俵が寄進され、定吉の御霊屋の造営を開始し、天保14/1843年に完成したが、昭和20/1945年の戦災で焼失してしまった。
同、天保11年、京都住居御茶師側医師格の千宗室はこれまで35人扶持でしたが、新知200石に直されました。千宗室というのは、今日庵裏千家のお家元です。この時の当主は十一世玄々斎精中宗室です。
・弘化4/1847年、先代定通の娘-令姫を勝善の養女とし、讃岐高松藩主-松平頼恕(よりひろ)の六男-増之助(後の勝成)を婿養子とした。
・同年、養曽祖父-定国の時に焼失した松山城の復興を開始した。棟梁は世襲城郭大工-坂本又左衛門。
・嘉永元/1848年、松山城復興の設計が完了し、鍬入れ式が挙行された。また、常信寺・阿沼美神社・東雲神社で復興成就の祈祷が行われた。
・嘉永5/1852年、松山城本壇の復興が完成したので、勝善は、工事関係者の労苦をねぎらい酒肴の供応をした。
・嘉永6/1853年、ペリー来航により、江戸湾警固を命じられる。
・安政元/1854年、松山城本壇復興の落成式典が盛大に催される。
・安政/1856年、勝善、天然痘に罹患し、一旦回復に向ったが急変し、江戸松山藩邸にて卒去、享年40歳。三田済海寺へ埋葬し、遺髪が大林寺へ運ばれた。

<勝善と天璋院篤姫>

・安政/1856年、勝善が卒去した年、勝善の実家である島津家では、島津斉彬(なりあきら)の養女-篤姫(父-島津忠剛の女、後の天璋院)が、十三代将軍-徳川家定の御台所になる。篤姫は、勝善の実の姪にあたる。



松平勝善の肖像画

13

松平 勝成
(まつだいら かつしげ)

(まつだいら かつしげ)
<松平勝成の歴史(1)>

・松平勝成=江戸時代末期の大名、伊予松山藩-松平家十三/十五代藩主。
天保3/1832年、讃岐高松藩江戸藩邸で誕生。父-讃岐国高松藩主-松平頼恕の六男として生まれる。幼名:増之助。母(側室)-浅田氏の娘=八重野(後、正林院)、正室-十一代松山藩主-松平定通の娘(後、清亮院)、継室-播磨国姫路藩主-酒井忠学の娘。叔父には水戸斉昭、従弟には十五代将軍-徳川慶喜がいる。
・弘化4/1847年、幕府より増之助の伊予松山藩第十二代藩主-松平勝善の婿養子が許可され、養父-勝善より定成と名づけられ、三田中屋敷へ入る。
・嘉永4/1851年、溜之間詰に任ぜられる。
・安政元/1854年、徳川将軍家の家祥が家定と改名し、それに憚り、定成は勝成と改名する。
・同年、松山地方で大地震(安政の大地震)が発生。松山城本丸や二之丸で、石垣・土塀・瓦が崩落、法龍寺ではほとんどの伽藍が倒壊した。
・安政3/1856年、養父-勝善の死去により家督を相続する。
・安政4/1857年、幕府より異国船到来の際、神奈川警備を命ぜられる。
・安政6/1859年、子宝に恵まれない勝成は、先代勝善の娘(後、貞恭院)を養女とし、藤堂高猷の五男-練五郎(後、定昭)を配して嗣養子とした。
・安政6年〜万延元/1860年にかけて、勝海舟の指導のもとに、神奈川砲台(お台場)を築造した。
・文久2/1862年、幕府の文久の改革により、参勤交代の改正が成され、松山藩主は溜之間大名であるため、三年に一年在府となる。内室の帰国も許され、勝成の内室-酒井氏は、帰国して松山城三之丸へ入り、勝善の内室であった和光院、定昭の室-邦姫も松山へ帰国して二之丸へ入った。
・文久3/1863年、参内し、孝明天皇の拝謁を賜う。この後、計3回の拝謁を賜う。幕末の混乱時では、京都の警備と第十四代将軍-徳川家茂の供奉に従う。
・同年、城下の治安を維持するため、木屋町・三津口・土橋・橘・新立・一万に関門(柵門)が置かれた。これにより、旅人の城下町への立ち入りは禁止された。
・元治元/1864年の禁門の変の時には、松山藩家老-奥平弾正は、御所を護るため松山より京都へ出陣したが、戦闘に間に合わず、長州勢との直接的な戦闘はなかった。この時、留守中の松山藩京都屋敷が長州藩の兵火により炎上した。禁門の変以降は、道後温泉の他所者の逗留も禁止された。
・同年、朝廷より(第一次)長州討伐が命ぜられ、征長総督に尾張藩-徳川慶勝が任じられた。松山藩は、一番手の出兵を命ぜられ,、勝成は出陣したが、長州側の降伏により、一応ながら勝利を収め陣を引き上げた。この年、従四位上に昇り、歴代藩主で最高位に達する。
・慶応元/1865年、幕府との約束を履行しなかったので、幕府は長州への再出兵(第二次長州討伐)を命じた。征長先鋒総督には紀伊藩-徳川茂承が任ぜられ、将軍自らが大坂城へ入った。しかし、徳川慶勝や薩摩藩などが出兵には反対していた。
 松山藩は先の出兵に続いて一番手を命ぜられた。勝成は松山を守るため、世嗣-定昭を代わりとして旗本隊を率いさせて出陣を命じ、定昭は三津浜に本陣を置いた。家老-菅良弼が率いる一ノ手軍は興居島に本陣を置いて、幕府軍艦大江丸や富士山丸の援護を受けながら、周防大島を占領した。しかし、長州軍の反撃により、興居島まで退却した。
・慶応3/1867年、勝成はかねてより隠居を願い出ていたが、それが許され家督を養子の定昭に譲る。

<神奈川砲台築造>

・万延元/1860年、幕府より神奈川へ砲台を築造するよう命ぜられた。勝海舟の設計で、わずか1年で完成した。築造費は藩財政費の1年分にあたる7万両、30万人の人員を動員させたといわれている。
・幕府は、神奈川砲台築造の功を賞して、勝成を左近衛権少将に昇進し、家格を向上させた。

<第一次長州討伐>

・万延元/1860年、朝廷より長州討伐が命ぜられ、松山藩は、宇和島藩伊達家と今治藩松平家とともに、出兵命令が出された。
・勝成は出陣したが、長州側の降伏により陣を引き上げた。同時に勝成は、土佐藩と長州藩が表面上は対立しているが、裏工作があるのではないかと考え、奉行-松下小源太と藤野正啓を土佐藩主-山内豊信へ遣わした。両名は、豊信の屋敷へ招かれ、"長州征伐の間、留守中の事を御頼む申す"との旨を口上、豊信はこの使者の意味も目的も十分に知った上で酒席を設け、その中で、豊信は "御所に発砲し都を動乱に陥れ、帝の御心を悩ました長州は征伐に値する" と述べ、さらに、"長州征伐に乗じて人の虚を襲う事、まして貴藩を攻める卑劣な心は持っていない" と話したという。

<第二次長州討伐>

・第二次長州征伐においても、同じく一番手の出兵を命ぜられたが、幕府側の足並みがそろわず、実際に戦闘を繰り広げたのは松山藩のみであり、その結果、敗戦を喫することになった。また、第一次長州征伐時に占領した周防大島で、配下の兵が住民に対して乱暴狼藉を働いたことで、幕府軍の大義名分に大きな傷をつけると同時に、相手方の長州藩の恨みを買うこととなり、その後の松山藩の苦境の遠因を作ってしまった。なお、第二次長州征伐が終了した慶応2/1866年の11月17日には、謝罪の使者を周防大島に派遣している。



松平勝成の肖像画

14

松平 定昭
(まつだいら さだあき)
(まつだいら さだあき)
<松平定昭の歴史>

・松平定昭=江戸時代末期の大名、伊予松山藩-松平家十四代藩主、老中、知藩事。
・弘化2/1845年、伊勢津藩主-藤堂高猷の五男として生まれる。母は側室橋本氏の娘、正室は第十二代藩主-松平勝善の娘(邦姫=勝成養女)、幼名:錬五郎。
・安政6/1859年、伊予松山藩第十三代藩主-松平勝成の養嗣子となる。
・万延2/1861年、侍従に昇進し溜間詰に任ぜられる。
・慶応2/1866年、左近衛権少将に昇進。その間、養父-勝成に従い京都の警護や長州征伐に加わる。
・慶応3/1867年、家督を譲られ伊予守に転任。その直後、溜間詰上席および老中(史上最年少の22歳)に就任(定昭の老中就任は、家門である松平定信以来のこと)。
・定昭の老中就任の1ヵ月後、大政奉還。願いにより溜間詰上席及び老中を辞職。
・慶応4/1868年、鳥羽・伏見の戦いで、前将軍徳川慶喜に従っていたことから朝敵の汚名を受け、蟄居謹慎を命ぜられ、次いで、すべての官位を剥奪され、養父-勝成が再度することになった。
・明治2/1869年、蟄居を免ぜられる。
・明治4/1871年、再び養父勝成より家督を譲られ、知藩事に任ぜられるも、半年後の廃藩置県により知藩事を免ぜられる。
・明治5/1872年、東京久松邸にて卒去。享年28歳。東京三田済海寺に土葬され、遺髪が、松山祝谷常信寺へ送られ埋葬される。遺言に基づき、旧旗本松平勝実の三男-久松定謨が養嗣子として迎えられる。



松平定昭の肖像画

15

松平 勝成
(まつだいら かつしげ)

(まつだいら かつしげ)
<松平勝成の歴史(2)>

・慶応4/1868年、松山藩は、鳥羽・伏見の戦いで、大坂梅田に兵 300を配置していたことから、朝廷より十四藩主-定昭が蟄居となり、勝成が再勤を命ぜられた。松山藩は、土佐藩-山内家に進駐(松山城へ土佐藩兵が5ヶ月間入城)されるも、恭順の意を示したことで、松平家の家名と松山藩を守った。同年、太政官布告により源姓-松平氏と葵紋を返上し、菅原姓-久松氏に復姓する。
・明治2/1869年、版籍奉還により藩知事に就任する。
・明治4/1871年、再び家督を養嗣子-定昭に譲る。同6/1873年に生まれた息子-定靖とともに別家。定靖は明治30/1898年に没している。
・明治45/1912年、勝成は東京にて没した。享年81歳。東京三田済海寺に葬られる。






松平勝成の肖像画





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