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学問・教育

青地 林宗
(あおち りんそう)
安倍 能成
(あべ よししげ)
石崎 ナカ
(いしざき なか)
浦屋 雲林
(うらや うんりん)
大原 観山
(おおはら かんざん)
小川 尚義
(おがわ なおよし)
加藤 彰廉
(かとう あきかど)
河東 静渓
(かわひがし せいけい)
日下 伯巌
(くさか はくがん)
近藤 元良
(こんどう もとよし)
近藤 元修
(こんどう もとなが)
近藤 元弘
(こんどう もとひろ)
近藤 元粋
(こんどう もときよ)
近藤 元晋
(こんどう もとゆき)
白川 福儀
(しらかわ とみよし)
武知 五友
(たけち ごゆう)
西村 清雄
(にしむら すがお)
船田 操
(ふなだ みさお)
森 白象
(もり はくしょう)
三上 是庵
(みかみ ぜあん)
八木 繁一
(やぎ しげいち)
山路 一遊
(やまじ いちゆう)


学 問・教 育


青地 林宗
(あおち りんそう)
(あおち りんそう)
<青地林宗の歴史>

・青地林宗=松山藩の潘医、蘭学者、物理学者、天文学者、翻訳家。
・宝暦5/1755年、松山藩の藩医の家に生まれる。父/松山藩医-青地快庵。家業で漢方医学を修得。本名:盈(えい)、字:林宗(りんそう)、子遠、号:芳滸(ほうこ)。
・安永2/1774年、20歳のとき江戸に出て、幕府通詞-馬場佐十郎に弟子入り、天文学や蘭語を学ぶ、杉田立卿の私塾:天真楼、宇田川玄真の私塾-風雲堂にも学ぶ。
・安永9/1780年、26歳のとき、父/快庵が亡くなると松山藩医の家を継ぐため一時帰郷。5年間松山に落ち着いたが蘭学への想いから、松山藩での職を辞し遊学の旅に出る。大坂,長崎など蘭学の地を回りながら再度上京。
・寛政13/1801年、47歳の時、
幕府の招聘を受け天文台訳員となり、蘭書の翻訳に従事した。ヴァーシリー・ローニンの『日本幽囚記』も翻訳している。
・文政12/1829年、水戸藩主-徳川斉昭に請われ召し抱えられる。
・天保4/1833年、没、享年79歳。墓所は、松山市御幸一丁目の来迎寺の足立重信の墓の近くにある。

<林宗の功績>

・オランダのヨハネス・ボイスが著した書籍を多く翻訳して、文政10/1827年に、日本初の物理学書『気海観瀾(きかいかんらん)』を刊行するなど、日本物理学の祖と称された。また、蘭学の訳書が増えるにつれ、日本にない言葉を訳す際、個々人で訳語や造語が出来ることに早くから懸念を抱き、訳語の適正化と統一を目的とした組織「同志會」を提唱して、日本の翻訳事業に大きな道筋を指し示した。

<林宗の5人の娘>

・林宗には、5人の娘がおり、みんな高名な蘭学者に嫁いでいる。長女-粂は、坪井信道、次女-三千子は、伊東玄晁、三女-秀子は、川本幸民、四女-宮子は、高野長英(五女-信子は11歳で病没)。






青地林宗の肖像画
(愛媛の偉人賢人より)


気海観瀾


青地林宗の墓
松山市御幸一丁目
来迎寺



安倍 能成
(あべ よししげ)
(あべ よししげ)
<安倍能成の歴史>

・安倍能成=大正時代の教育者、哲学者、政治家。
・明治16/1883年、父/
医師-安倍義任、母-シナの八男として、松山城下の小唐人町(現、松山市大街道)に生まれる。
・松山中学校から第一高等学校、東京帝国大学へと進む(中学卒業後一年間は、母校の助教諭心得-講師として英語を教えている)。
・東京帝国大学在学中に、夏目漱石や波多野精一、高浜虚子の影響を多大に受けた。同窓生の一人に藤村操がおり、その妹-恭子と結婚した。また、一高を中途退学した同期の岩波茂雄との交流は終生続き、後年、岩波書店経営方針に深く関与し、岩波茂雄の没後には公式伝記も執筆した。
・帝国大学卒業後、自然主義の文芸評論を手がける一方、慶應義塾大学、一高の各講師、法政大学教授を歴任した。
・大正13/1924年には、ヨーロッパ留学をし、帰国後、京城帝国大学教授となり、朝鮮の文化を詳細に検討し、日本人の朝鮮蔑視感情を諌めている。
・昭和15/1940年に、母校の一高校長となり、名校長と謳われた。その一方で軍部が進める高等学校の年限短縮に反対したり、近衛文麿に太平洋戦争の早期和平の進言をしたために、憲兵隊から監視対象になったといわれている。
・戦後は、幣原改造内閣で文部大臣となり、教育制度改革に尽力した。文相退任後は帝室博物館館長職を務め、後、新制学習院院長となり、没時まで在任した。
・昭和41/1966年、没、享年82歳。
墓所は、鎌倉市山ノ内の東慶寺にある。

<子規・漱石を新栄座で目撃>

・安倍能成は、松山での「子規没後50周年記念式典」の講演の中で、子規と漱石の二人を大街道の芝居小屋で目撃したことがあると語っている。子規の『散策集』に「明治廿八年十月六日(中略)大街道の芝居小屋の前に立ちどまりて、漱石、てには狂言見んといふ立ちよれば・・」とある。当時、大街道の一番町側入口近くに新栄座という芝居小屋があり、子規と漱石が立ち寄ったときには、泉祐三郎一座の照葉(てりは)狂言が演じられていた。安倍は二階席にいて、そこから平土間の桟敷にいた子規と漱石の二人を目撃している。

<漱石門下の四天王>


・明治39/1906年、東京帝国大学一年生の時、友人が夏目漱石のもとを訪問するのに同行し、以来、漱石を深く尊敬師事し、後年には小宮豊隆、森田草平、阿部次郎(鈴木三重吉とする説もある)と並んで、「漱石門下の四天王」と称された。鈴木三重吉や寺田寅彦との出会いも、漱石を通じてのものであった。

<あんばいよくなる>

・明治43/1910年に、漱石が修善寺の大患に陥った時、安倍たちが駆けつけると、安倍能成さんが来てくれたので「あんばいよくなる」と言われたとの挿話がある。その通り、漱石の病気は快復したのであった。

<平和運動家>

・戦後、安倍は、平和運動にも参画し、岩波書店の『世界』創刊期の代表責任者となり、一方、昭和26/1951年結成の「平和問題談話会」の発起人にもなった。



安倍能成の肖像


安倍能成の銅像
松山市持田町-松山東高


安倍能成の生家
(「わすれかけの街」より)
(現存せず)
松山市大街道二丁目


石崎 ナカ
(いしざき なか)
(いしざき なか)
<石崎ナカの歴史>

・石崎ナカ=江戸末期〜明治期の教育者、松山で最初の女児専門の寺子屋を開設、三津屋のお師匠様。
・文政2/1819年、和気郡三津藤井町(現、三津二丁目)の木綿問屋三津屋-石崎祐三郎の長女に生まれる。
・父-祐三郎は、好学家で、梅月堂と号し俳諧をたしなむ人物であった。ナカは、幼い時から手習をはじめ、読み書きはもとより、諸芸一般を修めるとともに、和歌を海野游翁に学んだ。
・天保10/1839年、松山城下古町の酒造業-和田又四郎に嫁した。又四郎は「芳長」と号して和歌をよくし、藤井高尚に学んで国学に深い知識と理解を持っていた。ところが、和田家の義父及び夫はともに風流を好んで、家業を顧みなかったため、家運が傾き一家は離散した。数年後ナカは、夫ともに京都に出て、私塾を開き国学を教えていたが、夫-又四郎が安政6/1859年に病没し、夫の死後、ナカは三津に帰った。
・万延元/1860年、三津の実家に戻ったナカは、41歳の時、旧姓に復し家督を相続して、石崎家の屋号「三津屋」の名で、女子専門の私塾(寺子屋)を開いた。ナカ一人で講じた教授科目は、6歳より16歳まで年齢に応じ、読み書きの他に裁縫、家事、茶の湯、生け花、さらに希望者には、琴・三味線なども教えた。最も盛んな時には、生徒の数は100人を超えた。
・明治5/1872年に学制頒布された時、ナカは寺子屋継続願を県に提出し、小学女児校二等訓導に任命され、三津屋は特例として存続を認められた。しかし、公立小学校の普及によって生徒が激減、晩年のナカは不遇であった。
・明治15/1882年頃、三津屋を廃業した。
・明治17/1884年、没、享年66歳。ナカは、三津神田町の善宗寺の石崎家の墓に葬られた。
・伊予鉄三津駅の駅舎横に、ナカの功績を刻んだ顕彰碑が建てられている。石崎ナカの教え子たちはみな「三津屋のお師匠様は偉かった」と語っていたという。

<石崎ナカ顕彰碑>


 地域社会は、歴史のドラマが演じられる舞台ではない。しかし庶民の中に先覚者がいてその社会の担い手たちを教え導く時、地域社会もまた歴史を動かす力となる。かくて日本の近代社会は開花した。幕末から明治の初年、ここ三津浜町に生まれ住みそして教えた石崎ナカは、かかる先覚者の群像の中でも、一際鮮やかな一人の女性である。「偉い三津屋のお師匠様」と慕われたナカは、県内にあった千に近い寺子屋の中でも、最大のしかも女児ばかりの寺子屋「三津屋」を開き、寺子の数は常の百名を越えていた。さらに又ナカ一人で講じたところは、六歳より十六歳まで年齢に応じ手習いと、小学・四書,五経の素読のほか裁縫,小細工,生け花に及んだ。幕末以来のナカの業績が、県下の女児教育推進に果たした役割は多大のものであった。「三津の朝市」でにぎわった三津浜町の進取の気性を、一層培った商家出の女師匠・ナカの存在は、私たちの大きな誇りである。ナカ没後満百年・国際婦人年最終年に当たり、ここに郷土にいきた異色の先人の業を讃え、これを千載に伝えるためこの碑を建てる。
                        昭和六十年(一九八五)二月
                         松山西ロータリークラブ




石崎ナカ顕彰碑
松山市三杉町
伊予鉄三津駅前



浦屋 雲林
(うらや うんりん)
(うらや うんりん)
<浦屋雲林の歴史>

・浦屋雲林=江戸時代末期〜明治期における松山藩大小姓-祐筆、漢学者
・天保11/1840年、松山城下(長町新丁)(現、松山市湊町四丁目)に生まれる。父/松山藩士-浦屋寛親、母-田鶴の長男。本名:寛制、通称:登蔵、号:雲林。
・明教館で日下伯巖、高橋復斎らに学び、漢詩をよくし書に長じ、松山藩に仕え、大小姓、祐筆役などをつとめた。
維新後は、温泉郡藤原村(現、松山市柳井町二丁目)に私塾「桃源黌」を開いて、子弟の教育にあたった。少年時代の子規も、この塾で詩作に励んでいた。
・正岡子規の句に「庭清水 藤原村の 七番戸」がある。また「散策集」の中に「花木槿 雲林先生 つつがなきや」(明治28/1895年10月2日の石手川散策の時の句)を残している。
・明治31/1898、没、享年58歳。墓碑は、松山市朝日ヶ丘の宝塔寺にある。
・雲林が詠んだ数千首の詩をまとめた『雲林遺稿』が、昭和29/1954年に刊行されている。

<宝塔寺の雲林の墓碑>

・宝塔寺の雲林の墓碑には、八束南渓の撰、ならびに書で、「棹仙舟去 何有春秋 桃源洞裡 白雲悠々」(仙舟に棹さして去る 何ぞ春秋有らん 桃源洞裡 白雲悠々)と刻まれている。

<私塾「桃源黌」の塾生>

・雲林の私塾「桃源黌」は、午前と午後にわけて塾生が勉学し、多い時は、40〜50人の塾生が出入りしていたという。内藤素行(鳴雪)が筆頭世話役で、正岡子規、森知之らが同格で、他に、近藤元晋、竹村鍛(黄塔)、河東銓(可全)、高浜清(虚子)、天岸一順、水野広徳、桜井忠温、安倍能成などがいた。

<居宅「柳影水光舎」>

・雲林の藤原村の居宅は、約700坪の敷地に約210坪の池があり、清水がこんこんと湧きあふれ、塾生はここで泳ぎを楽しんだが、冷たくて10分間も入っておれなかったという。池の周りには、松・サルスベリ・柳の老木が茂り、その影を水に映しており、部屋の中には、藤野海南(正啓)の「柳影水光」の扁額がかかっていたことから、この居宅を「柳影水光舎」とも称した。雲林邸の敷地は、元法龍寺住職の別宅であり、雲林亡き後は、料亭「亀の井」となり、戦前の松山でその名を知られていたが、今は、昔の面影を偲ぶすべもない。



浦屋雲林邸跡
松山市柳井町二丁目


大原 観山
(おおはら かんざん)
(おおはら かんざん)
<大原観山の歴史>

・大原観山=江戸末期の儒学者、明教館教授、正岡子規の外祖父。
・文政元/1818年、松山藩士/加藤重孝の次男として、松山城下に生まれ、加藤重孝の長女の嫁ぎ先の大原家の養子となる。本名:有恒、通称:武右衛門。
・観山は、歌原家の長女-重と結婚。観山の長女-八重が、松山藩士-正岡常尚に嫁して、常規(子規)と妹の律が生まれる。つまり観山は子規の外祖父に当たる。
・藩校「明教館」で日下伯巌などに学び、ついで江戸の「昌平黌」に学び、昌平坂学問所舎長を勤めた。やがて帰藩して明教館教授となり、幕末期の松山藩の子弟教育に尽くした。
・高邁な識見をもち、藩主/松平定昭公の御用達となり、幕末には、松山藩の恭順について功があり、また、久松家の血統の絶えるのを嘆き、後嗣について大いに尽くすところがあったと言われている。
・観山には四男三女あり、長男は早世し、次男-恒徳が大原家を継ぎ、三男-恒忠(号:拓川)が、父-観山の生家-加藤家を嗣いだ。
・明治7/1875年、没,享年58歳。墓所は、松山市御幸一丁目の来迎寺にある。

<来迎寺の観山の墓碑>

・来迎寺の観山の墓には、武知五友(山下清風)撰文の「容止端正・学殖渊深・待人甚恕・責己最厳・其学其徳何人不欽」の銘が刻まれている。「容止(ふるまい)は端正、学殖は淵深、人を待つこと甚だ恕(ゆるす)、己を責むること最も厳、その学その徳、なに人か欽(うやまう)せざらん」の意。

<観山と子規>

・観山は、明治3/1870年に公職を退き、松山城下の三番町に私塾を開いた。子規は、明治5/1872年、6歳の時に父を失い、その後はもっぱら、母と祖父の観山に可愛がられて成長し、明治6/1873年、7歳の時から、三並良(母方の祖母の甥)と共に、早朝5時頃から、観山の私塾で講義を聞くようになった。観山は、升(のぼる=子規の幼名)を大変可愛がり「升は、なんぼたんと教えてやっても覚えるけれ、教えてやるのが楽しみじゃ」と言っていたという。子規も観山を非常に尊敬しており、子規の随筆『筆まかせ』の中で、「後来、学者となりて、翁の右に出でんと思へり」と記している。

<観山の西洋嫌い>

・観山は、大変西洋嫌いで、自らも一生断髪せず、髷で通したが、子規と良に対しても、小学校に入ってからも髪を結わせ「まげ升さん」と呼ばれたりしていた。そこで良の父-歌原邁(すすむ)が観山に断髪をお願いし、観山は不本意ながら、二人の断髪を許した。

<観山の最初の墓所>

・正岡子規の明治28/1895年の秋の句に、「観山翁の墓に詣でゝ」と前書して、「朝寒や ひとり墓前に うづくまる」がある。子規は、祖父-大原観山を大変敬愛していた。その観山の墓は、現在は山越の来迎寺にあるが、柳原極堂の『友人子規』に「観山の墓は初め、其菩提寺松山市湊町四丁目の裏の正安寺に在りしが、其五十年祭に当りて、拓川は、甥大原尚恒と計り之を山越来迎寺に移した」とあるから、明治28年に子規が詣でた時点では、正安寺にあったと思われる。なお、来迎寺も正安寺も、同じ浄土宗の寺である。



大原観山の住居跡
松山市三番町


大原観山の墓
松山市御幸一丁目
来迎寺



小川 尚義
(おがわ なおよし)
(おがわ なおよし)
<小川尚義の歴史>

・小川尚義=明治〜昭和前期の言語学者、台湾語研究者、辞書編纂者、台北帝国大学名誉教授。
・明治2/1869年、松山城下(現、松山市勝山町)に、父/松山藩士-丹下尚逸、母-ムラの三男として生まれる。明治5/1872年、松山城下(御宝町)(現、松山市一番町)の小川武一の養子になる。
・明治16/1883年、松山中学卒。明治20/1887年、第一高等中学校予科入学。正岡子規と親しくなる。脚気のため一時休学。留年の後、明治24/1891年に、本科一部(文科)に進学。
・明治26/1893年、東京帝国大学文科大学博言学科(現、東京大学文学部言語学科)に入学、上田万年に師事。
・明治29/1896年、帝国大学卒業。同年10月、台湾総督府学務部に勤務。台湾語、ついで台湾原住民諸言語について研究。台湾総督府国語学校(現,国立台北教育大学、台北市立教育大学等)教授、台北高等商業学校校長兼任。
・昭和5/1930年、台北帝大文政学部教授となり、台湾語の研究に精進した。台湾語を専門とし『日台大辞典』、『台日大辞典』を著した。また、『原語による台湾高砂族伝説集』を共著で著し、学士院恩賜賞を受賞した。
・昭和11/1936年、台北帝大退官の後、故郷松山に帰り、晩年は下掛宝生流謡曲に親しみ、同郷の宝生弥一,川崎九淵らと交流があった。
・昭和22/1947年、没、享年79歳。墓所:東京都港区-青山霊園。

・正岡子規は友人で先輩(松山中学,大学予備門,東京帝国大)。

<正岡子規との交友>

・有名な俳人正岡子規は、松山中学、一高、帝大の先輩にあたり、一高時代から交友ができた。小川が帝大を卒業した明治29/1896年7月に、帰省する前に子規と会った時に、「十年の 汗を道後の ゆに洗へ」の句を贈られた。この句は、道後温泉-椿の湯の湯釜にも刻印されているが、そこでは「ゆ」が「温泉」となっている。

<小川尚義の五女-吉野義子>

・大正4/1915年、台湾台北市にて生まれる。母方の伯父/吉野一知の養女となり、松山市に育つ。県立松山高等女学校を経て、昭和8/1933年、同志社大学英文科に入学。昭和9/1934年、結婚のため中退。昭和22/1947年に詩から俳句に転向。昭和29/1954年に、大野林火主催の「濱」同人。昭和54/1979年、「星」創刊主宰。現在、俳人協会名誉会員。道後「ふなや」ホテルの庭園に「聾にあれば 奮のかたちに 春の水」の句碑がある。



小川尚義の肖像
(愛媛の偉人賢人より)


吉野義子の句碑
松山市道後湯之町
ふなや


加藤 彰廉
(かとう あきかど)
(かとう あきかど)
<加藤彰廉の歴史>

加藤彰廉=明治〜大正期の教育者、政治家、北予中学校校長、松山高等商業学校校長、大阪高等商業学校(現、大阪市立大学)校長
・文久元/1862年、松山藩の江戸詰の家臣で、槍の名手として知られていた宮城正脩の二男として江戸-愛宕下で生まれる。

慶應2/1869、6歳のとき松山に移り、廃藩置県が実施された明治4/187111歳のときに、養子として加藤家に入る。
明治7/1874、大阪に出て英語学校に入学、同14/1881、21歳で東京帝国大学文学部2年に編入、卒業後は文部省及び大蔵省に御用掛として勤務し、その後は、教育界に転身して、山口高等中学校長、広島県広島尋常中学校校長を経て、明治32/1899、35歳の時に、市立大阪商業学校校長に、同42/1909、49歳のときに、市立大阪高等商業学校(現、大阪市立大学)となる。
・大正4/1915年、衆議院議員当選。
・大正5/1916年、郷里松山の北予中学校(現、県立松山北高校)校長に就任、第五十二国立銀行(現、伊予銀行)取締役を兼務する傍ら、松山市長-加藤恒忠に、松山での高等商業学校設立を提案、新田長次郎(温山)から設立資金を得る等、設立運動に尽力、関東大震災発生の年の大正12/1923年に、松山高等商業学校(現、松山大学)創設、同時に校長に就任した。なお、翌年2月まで、北予中学校長を兼務した。そのときすでに63歳であった。
彰廉校長は、松山高商の第一回卒業式において、校訓「三実主義」(真実・忠実・実用)を確立し、以後、当校の人間形成の伝統原理となり、「伊予の福沢諭吉」とまで称され、その教学理念は、今日も松山大学において引継がれている。
昭和8/1933年、没,享年73歳。墓所は、松山市祝谷東町の常信寺にある。

<彰廉が提唱した教学理念>

松山大学の
教学理念は、初代松山高商校長-加藤彰廉が提唱し、第三代校長-田中忠夫によってその意義が確立された 「真実」「忠実」「実用」の三つの「実」を持った「三実主義」である。真実とは「心理に対するまことである。皮相な現象に惑溺しないで進んでその奥に真理を探り、枯死した既成知識に安住しないでたゆまず自ら真理を求める態度である」と、忠実とは「人に対するまことである。人のために図っては己を虚しくし、人と交わりを結んでは終生操を変えず、自分の言行に対してはどこまでも責任をとらんとする態度である」と、実用とは「用に対するまことである。真理を真理のままに終わらせないで、必ずこれを生活の中に生かし、社会に奉仕する積極進取の実践的態度である」と説明されている。





加藤彰廉の肖像


加藤彰廉の銅像
松山市文京町
松山大学



加藤彰廉の墓
松山市祝谷東町
常信寺



河東 静渓
(かわひがし せいけい)
(かわひがし せいけい)
<河東静渓の歴史>

・河東静渓=江戸〜明治期の漢学者、明教館教授。本名:坤(しん)
・文政13/1830年、父:松山藩校明教館教授-河東嬌(きょう)。松山城下に生まれる。
・藩校明教館で学び、江戸へ出て、幕府の学問所昌平黌に学び、松山に戻ってからは明教館の教授を勤め、藩士の子弟の教育にあたった。
・明治13/1880年、松山市千船町に、私塾「千舟学舎」を開き、子弟の教育にあたった。正岡子規ら五友もこの学舎に通った。
・静渓の住居は、旧松山藩士の侍屋敷の家で、300坪ばかりもあり、12畳の座敷から3畳の玄関まで10室くらい横長く続き、その南側には大きな池があり、いつも漢詩の素読をする塾生の声が聞こえていたという。
正岡子規は、松山中学に入学して間もなく、試験の成績が優秀であたので、そのごほうびとして、学校から頼山陽の『捨選拾遺』という漢詩の本を贈られた。しかし子規には読めなかったので、河東静渓先生に教わることにした。このとき子規ら、いわゆる「五友」達も、一緒に静渓塾(千船学舎)に通い始めた。
・静渓には、六男三女があり、三男-竹村鍛(号:黄塔)、四男-河東詮(号:可全)、六男-河東秉五郎(号:碧梧桐)は、それぞれ俳句を通じ、子規と交わる。
・明治27/1894年、没、享年65歳。墓所は、松山市朝日ヶ丘の宝塔寺にある。

<子規の五友>

・松山中学に入学した子規は、 特に親しい5人の友人を「五友」と称して、筆写回覧雑誌『五友雑誌』を発行していた。その「五友」とは、太田正躬(おおたまさみ)(号:柴洲)、竹村鍛(たけむらたん)(号:錬卿)、三並(歌原)良(みなみはじめ)、森(安長)知之(もりともゆき)(号:松南)と、子規の五人である。





河東静渓の肖像


河東静渓の墓
松山市朝日ヶ丘
宝塔寺



日下 伯巌
(くさか はくがん)
(くさか はくがん)
<日下伯厳の歴史>

・日下伯厳=江戸時代の儒学者、明教館の創設した時の教授。本名:梁、号:陶渓、字:伯巌。
・天明5/1785、松山城下に生まれる。青少年期に、杉山熊台に古文辞学を学ぶ。
・文化12/1815年、藩命により江戸の昌平黌に入学。古賀精里や佐藤一斎に師事し、朱子学を修得。
・文政10/1827年、帰郷して松山藩主-松平定通に仕え、明教館の開校に尽力。
・文政11/1828年、松山藩校-明教館の開設にともない、教授として子弟の教育に従事し、その門から、矢野玄道・大原観山・武知五友・篠原小竹らを輩出した。
・安政元/1854年、隠居。
慶応元/1866、没、享年81歳。


<陶溪=日下梁の行書七絶>

・伯厳は、詩文に秀で、書道も巧みであった。「陶溪 日下梁の行書七書」という書が残っており、「伯巌」の下に、陰刻「日下梁印」と陽刻「字伯巌」の落款が押されている。




陶溪=日下梁の行書七絶

10

近藤 元良
(こんどう もとよし)
(こんどう もとよし)
<近藤元良の歴史>

・近藤元良=江戸時代後期の心学者、伊予心学舎「六行舎」教授、漢学者、詩人、歌人。本名:元良(もとよし)、字:平格、通称:広吉、号:名洲、別号:安楽閑人。
・寛政12/1800年、新居浜角野に生まれる。長男-近藤元修、二男-近藤元弘、三男-近藤元粋の三人の子息がいる。
・文政2/1819年、伊予松山で田中一如
(いちにょ)に入門。
・文政10/1827年、江戸に出て大島有隣
(うりん)に師事し、心学をぶ。
・弘化元/1844年、松山に帰り、一如が創立し松山藩立となった六行舎
(ろくぎょうしゃ)の教授となり、心学を講義した。
・慶応4/1868年、没、享年69歳。墓所は、松山市御幸一丁目の龍泰寺にある。
・著作に「心学道話集」などがある。

<近藤元良の遺稿>

・元良は、心学の講義の傍ら和歌を詠み、多くの紀行文を書き残した。『元良歌草』一冊は整理されたものではないが、380首ほどの歌を書きとめている。
・安政4/1857年に、久万地方に講義に出かけた時の紀行文『久万山回村詩歌』には、漢詩とともに28首が詠まれている。素朴な詠みぶりで、心学者らしい教訓をのぞかせた歌もある。「親を思ふ その涙より 生へ春に 咲ける桜の 千代もたがはず」は、孝子伝説のある十六日桜の詠。「さくら咲く 雨の庵の 静けさに人の心の 花も見えけり」は、西山の花を見ての詠である。







近藤名洲の肖像画


近藤名洲の墓
松山市御幸一丁目
龍泰寺

11

近藤 元修
(こんどう もとなが)
(こんどう もとなが)
<近藤元修の歴史>

・近藤元修=江戸〜明治期の漢学者、明教館教授、秋山真之らの漢文の師。本名:元修(もとなが)号:南洋(なんよう)
・天保10/1840に、松山藩の儒者で詩文をもって知られる近藤名洲の長男として、松山城下に生まれる。弟に、二男-元弘(もとひろ)、三男-元粋(もときよ)がいる。
・安政6/1859、幕府の最高学府である昌平黌に学び、帰郷後、藩籍奉還までの間、藩の学問所-明教館の教授を務めた。
・明治維新後は、松山城下(小唐人町)において、私塾「謙塾」(元修塾)を開いて、秋山真之や桜井忠温など、城下の子弟を教えた。
明治34/1901年、没、享年62歳。墓所は、松山市御幸一丁目の龍泰寺にある。

<秋山真之と元修塾>

明治8/1875年に、正岡子規が、勝山小学校に通い始めたのとほぼ同じ時期に、秋山真之も勝山に移った。「・・真之は、それまでのあいだ、近藤元修の塾で学んでいたが、近藤先生から推薦されて勝山に入った。子規もそうであったが、真之も小学校に入ってからも漢学塾は辞めず、ニ通りの教育を受けていた・・」(小説『坂の上の雲』)。当時、近藤元修塾は、松山市内にあった私塾の中で、教授法が最も厳しかったと言われている。真之からほとばしり発散される語彙は、このときに学んだ漢学が源流になっているといわれている。この元修塾は、現在の松山三越の大街道側入口の南側辺りにあった。




「近藤元修の墓」
松山市御幸一丁目-龍泰寺

12

近藤 元弘
(こんどう もとひろ)
(こんどう もとひろ)
<近藤元弘の歴史>

・近藤元弘=明治期の漢学者、漢詩人、書家、教育者、秋山眞之・正岡子規が通っていた頃の松山中学校の校長。本名:元弘
(もとひろ)号:南ッ(なんすう)
・江戸時代末期(生年不詳)、近藤名洲の二男として、松山城下に生まれる。兄に近藤元修、弟に近藤元粋(もときよ)がいる
・小説『坂の上の雲では、秋山眞之や正岡子規が通った時の松山中学校の校長として紹介されているが、明治12/1879年に、松山中学の初代校長-草間時福が退任し、その後、二代-中村校長から三代-西川校長の就任までの間、一ヶ月の空白があり、その間を、事務係であった近藤元弘が校長心得を命じられている。
・弟の元粋の子で、元弘の養子となった近藤元久は、アメリカの飛行学校に留学し、日本人として初めて飛行免状を取得している。
・明治29/1896年、没、墓所は、松山市御幸一丁目の龍泰寺にある。


<近藤元弘校長-@>

・柳原極堂の『友人子規』の「中学校時代」の章で、子規の五友の一人-太田正躬の柳原極堂宛書簡で、「私入学時分の中学校は、愛媛県松山中学校と称し校長は近藤元弘氏で、・・」のように証言している。

<近藤元弘校長-A>

・『松山東高校百年史』(執筆責任者-景浦勉)からの抜粋、「松山中学校の歴代校長は左記の通りである。草間時福-初代校長(明治11年6月-12年7月)、酒井良明-赴任せず(この間、西河通徹が校長代理を務める)、中井恒介-二代校長(明治12年11月-13年3月)、近藤元弘-校長心得(事務係)、西河通徹-三代校長(明治13年4月-13年6月)、菱田中行-校長心得(二等司教兼事務係)、村松賢一-四代校長(明治13年12月-16年6月)、岡本則録-五代校長(明治16年6月-17年3月)。




近藤元弘の墓

松山市御幸一丁目
龍泰寺

13

近藤 元粋
(こんどう もときよ)
(こんどう もときよ)
<近藤元粋の歴史>

・近藤元粋=明治期の儒学者、漢詩人、明教館助教授。本名:元粋
(もときよ)、字:純叔、号:南洲、別号:蛍雪軒。
・嘉永3/1850年、松山藩の儒学者-近藤名洲の三男(長男-元修、二男-元弘)として、松山城下に生まれる。
・幼い頃から、父-近藤名洲の影響を受ける。藩校-明教館に入り、初め藤野海南に従い、のち芳野金陵に就いて漢学を修める。さらに、江戸へ遊学して、帰郷後に明教館の助教授となる。
・明治7/1974年に明教館が廃止されたため、翌年に師範学校受験のため秋山好古と共に大阪へ渡る。
・明治10/1877年頃、27歳で大阪に居を移し、後、漢学者となり、「猶興書院」を開いて、大坂の子弟の教育に勤める。
・明治29(1896)年に京都に赴き、皆川淇園隠棲の地に留まって文筆の業に従事した。
・明治37/1904年、門人の懇請により大阪に帰り、明治から大正にかけて、詩人としても活躍し、「風騒吟社」「逍遥遊吟社」を起こし、多くの諸生を教えた。
・元粋は、文に長じ、詩書をよくし、また、墨画を作った。著書には、『箋註十八史略』『増註小学纂要』『日本政記訓纂』『日本外史講義』『新戦国史略』『箋註唐賢詩集』『明清八大家文読本』『蛍雪軒叢書』『蛍雪軒論画叢書』ほか多数ある。
・なお、大阪の天満宮境内にある「天満宮御文庫」に、近藤南洲(元粋)が寄進した膨大な蔵書が納められている。
・大正11/1922、没、享年72歳。墓所は、大阪市北区長柄-柄墓地にある。
また、
埋髪墓が、松山市御幸一丁目の龍泰寺にある。


<『坂の上の雲』と近藤元粋>

・司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』の主人公の一人、秋山好古が大阪師範学校に入るため、大阪へ向かう船中で、同じ目的の近藤南洲が登場している。小説では「・・近藤元粋の父は名洲と言い、詩文をもって有名であった。長兄は元修と言い、信さんが生まれた年の安政六年、幕府の最高学府である昌平黌に学び、業をおえたときに維新の瓦解がきた。版籍奉還までは藩の学問所の教諭をしていたが、藩が県になってからは私塾を開いて、城下の子弟を教えている。・・近藤元粋はのち南洲と号し、大阪で猶興書院という学塾をおこし、在野の漢学者として活躍した。」と紹介されている。



近藤元粋の埋髪墓
松山市御幸一丁目
龍泰寺

14

近藤 元晋
(こんどう もとゆき)
(こんどう もとゆき)
<近藤元晋の歴史>

・近藤元晋=明治〜昭和期の教育者、漢学者、俳人。

・明治2/1869
年、松山市小唐人町二丁目(現、大街道二丁目)のいて、父-近藤元修の長男として生まれる。本名:元晋(もとゆき)号(俳句):我観(がかん)号(漢詩文):小南(しょうなん)
幼い頃より、塾「謙塾」を開いた父-元修より漢学を学ぶ。
・明治16/1883年、14歳の頃、大阪に行き、叔父-元粋に漢学の指導を受ける。
・明治18/1885年、大阪師範学校に入学する。

・明治20/1887年、愛媛師範学校に転じ、同23/1890/年に同校を卒業、22歳で松山の外側
(とがわ)尋常小学校(現、番町小学校)に奉職する。
・明治27/1894年、松山高等小学校の校長-中村一義(愛松)をはじめ、同校の先生が中心の俳句結社「松風会」の会員になる。
・明治28/1895年、8-10月、夏目漱石の下宿-愚陀仏庵に同居している、正岡子規の提唱する「日本派俳句」の指導を受けるため、運座(句会)に熱心に通った。この頃、子規から「散策集」を借りる。
・明治29/1896年4月10日、夏目漱石が、熊本の第五高等学校へ転任となり、旅立つ漱石から別離の二句「わかるゝや 一鳥啼て 雲に入る」「永き日や あくびうつして 分れ行く」を贈られる。
・明治30/1897年、その前年に没した叔父-近藤元弘の後を継いで、松山中学校の漢文の教師となる。
・明治33/1900年、東京小石川女子師範学校-付属高女に勤務する。
・明治34/1901年に、父-元修が没したため帰郷し、松山高等女学校(現、県立松山南高校)に勤務する。
・明治43/1910年、43歳の時、私立北予中学校に勤務する。
・大正2/1913年、45歳の時、に漢詩の結社「癸丑吟社
(きちゅうぎんしゃ)」を興し、生涯同志と漢詩を作り、漢詩集など発行する。
・昭和8/1933年3月、病のため北予中学校を退職する。この年の6月、見舞いに来た柳原極堂に、子規から預かった「散策集」を見せる。
・昭和35/1960年、没、享年92歳。墓所は、松山市御幸一丁目の龍泰寺にある。

<北予中学校時代>

近藤元晋は、北予中学校の創設期から充実期にかけて、白川福儀 (とみよし)、加藤彰廉(あきかど)、秋山好古、烏谷章と、四代の校長に仕えた。特に「生徒監」(=校長の指揮を承け専ら生徒の訓育を掌る)を勤めていた元晋先生は、秋山校長の葬儀が、昭和5/1930年11月10日に東京で行われた時刻に合わせて、松山でも挙行された時、校長代理として
秋山校長に対する哀悼文を読み上げている。



近藤元晋の肖像


近藤元晋の墓
松山市御幸一丁目
龍泰寺

15

白川 福儀
(しらかわ とみよし)
(しらかわ とみよし)
<白川福儀の歴史>

・白川福儀=明治〜大正期の政治家、教育者、二代目北予中学校長。本姓:門田、本名:福儀
(とみよし)、号:拓北(たくほく)
・安政5/1858年、松山城下において、松山藩士-門田正業の長男として生まれ、後、白川福明の養子となる。
・松山藩校の明教館で、子規の祖父-大原観山らに学び、その後、江戸へ出て三島中洲
(ちゅうしゅう)(漢学者、法律家)の塾で学んだ。
・明治維新後は、郷里の松山に戻り「海南新聞」(現、愛媛新聞)の編集にあたった。・明治10/1877年、白川は、民権結社「公共社」を組織して、自由民権運動を先頭になって称え、後に自由党に参加する。
・明治17/1884年に海南新聞社長となり、自由党の論客として知られた。
・明治25-27/1892-1894年、明治27-29/1894-1896年の二期、愛媛県会議長を勤める。
・明治29/1896年、二代目松山市長に就任。
・松山市長の任期満了後、北予中学会の専務理事として、同校の財政建て直しに携わり、明治37/1904年、北予中学校の第二代校長に就任した。
・大正5/1916年、現職中に死去した。享年59歳。墓所は、松山市御幸一丁目の千秋寺
にある。

<創設期の北予中学校>

・私立北予中学校は、明治33/1900年に、久米郡北方村(現、東温市川内町)出身の城哲三が、松山市二番町で開いていた「北予英学校」を発展させて中学校としたものである。しかし、経営に行き詰まり、翌年の明治34/1901年に、井上要をはじめとする地元有志が北予中学会を結成し、これにより経営を軌道に乗せることができた。白川校長は、生徒の指導も自ら先頭に立って、校風づくりに大いに役割を果たした。北予中学校に在職すること14年の長きにわたり、同校の基礎固めに尽力した。

<白川のエピソード>

・明治34年1月、創業者で初代校長の城哲三が、2、3人の教師と対立してこれを解職し、その後、解職された教師達が生徒を集めて校長を弾劾したため、一部生徒が暴徒化したことがあった。井上要は、著書「北豫中学松山高商楽屋ばなし」の中で、この時の様子を「その頃の生徒は近県より来学せるもの多く、年齢等も区々にして中には衣肝に至り袖腕に至る堂々肩を怒らして風を切りながら横行闊歩し、立派な壮士と見るべきものも少なくない。従ってこの学校は不良少年の集会所なりと悪口するものさえあるときであるから、生徒は暴徒化して宛然たる今頃の直接行動そのままで、あるものはピストルを携え、あるものは刀剣を提げ、数十名が大挙して深夜城氏の居宅を襲撃した」と記している。その後、城に代わって白川福儀が校長となった。学校の財政を立て直すために県や郡市に補助を願い出た際、ある役人から「北予中学は不良少年の養成所である。この様な処に補助することは思いもよらない」と叱責された白川は大いに憤慨し、「不良少年だからこそ益々教育の必要があるわけではないか。野獣を放りっぱなしとすれば、その害は鶏豚牛馬に倍することは勿論である」と反論したという。


<白川福儀の実弟-門田正經(まさつね)>


・門田正經(文久2/1862年-大正13/1924年)。明治-大正期の新聞人、教育家。松山出身。草間時福の教え子。後、上京し福沢諭吉の門に学ぶ。慶応義塾に入ったが中退し「朝野新聞」などで執筆。民権結社の「公共社」に入り、一年間「海南新聞」で活動した。その後に入社した「大阪毎日」で主筆・編集長を勤め、わが国の海外発展を提唱。明治33/1900年、桂太郎が台湾協会の設立を進めている時に幹事となり、会務の中枢を握り、 重要事業である専門学校の経営に尽力した。台湾協会は創立のち、東洋協会と改称、現在の拓殖大学の母体となる。



白川福儀の肖像
(県立松山北高校-資料室より)



白川福儀の墓
松山市御幸一丁目
千秋寺


16

武知 五友
(たけち ごゆう)
(たけち ごゆう)
<武知五友の歴史>

・武知五友=幕末〜明治時代の漢学者、教育者、書家、画家、明教館教授、大原観山の親友、正岡子規の書の師。本名:清太郎(幼名)、後、方獲(まさかり)、字:伯慮、通称:幾右衛門、号:五友、愛山、清風、以南、など。
・文化13/1816年、松山城下において、松山藩士-武知朴斎の子として生まれる。
幼い頃から学問が好きで、近藤逸翁について学び、やや長じて日下伯巌を師として勉学に励んだ。
文政11/1828年、藩校-明教がの創設されると、ここに入って、さらに、伯巌について教えを受けた。
・天保10/1839年に江戸へ出て昌平黌に入り、同13/1842年には、帰郷して大小姓となり、藩校明教館で朱子学を講義した。
・明治維新後は職を辞し、さらに廃藩置県により、旧藩主が上京したのを期に、住居を松山郊外の高岡村に移した。
明治5/1872年頃、伊予郡上高柳村で私塾を開き、さらに、温泉郡三津浜に移り、ついで、明治15/1882年、郡中灘町において開塾し、子弟の教育に当たった。当時教えを乞う者は150人に及んだ。
明治26/1893年、松山で病のため没した。享年77歳であった。門人などが請うて郡中(現、伊予市灘町)の栄養寺に葬った。正岡子規は、「極楽や 君が行く頃 梅の花」の句を作って、五友の死を悲しんだ。

・五友の人となりは、簡直で気節があった。辺幅を飾らず、ことごとく洋風を廃して古い習わしを用い、流行を追わなかった。また、父母に孝養を尽くしてよく仕え、その心を慰めた。彼は博学で、また、詩文・和歌・書画を能くし、遺墨も少なくない。

著書に『華夷分別考』『非狂論』などがある。

<子規の勉強部屋の「香雲」の扁額>

武知五友は、正岡子規の「書」の師の一人として、欠かすことのできない人物である。五友は、大原観山と同じく漢学者で、明教館の教授を勤め、観山が唯一の友達であり、よく観山の家に来ていた。子規は、五友の書が好きで、彼の手本をよく選んで練習した。五友の書いた「香雲」の額は、子規の書斎に掛けられたいたが、今も、正宗寺の子規堂の中にある「子規の勉強部屋」に残っている。



武知五友の書
松山市末広町
子規堂



武知五友の墓
伊予市灘町
栄養寺



17

西村 清雄
(にしむら すがお)

(にしむら すがお)
<西村清雄の歴史>

・西村清雄=明治〜昭和期の教育者、松山城南高校の創設者、クリスチャン、創作讃美歌「山路こえて」を作詞、松山名誉市民第一号。
・明治4/1871年、松山城下北京町で、伊予松山藩士の長男として生まれる。祖父は幕末の松山を代表する歌人-西村清臣
(きよおみ)、叔父は道後湯之町初代町長で、道後温泉本館を建てた伊佐庭如矢。
・明治18/1885、松山中学校へ入学。この頃、カトリックの洗礼を受ける。
・明治21/1888、大阪で英語を学び、大阪基督教会で宮川経輝の教えを受け、プロテスタントの信仰を持つ。
・明治23年/1890に松山に帰郷すると、宣教師のコーネリア・ジャドソンの夜学校の設立に協力して、「普通夜学会」を開校。
・明治25/1892、21歳で同校校長となり、「松山夜学会」(後、松山城南高校)と改称し、勤労青年の教育と伝道に没頭。
・明治36年/1903年に作詞した創作賛美歌「山路こえて」が、明治版讃美歌に採用されて、ポピュラーな日本人創作讃美歌の古典となった。
・昭和20/1945からは、松山東雲中学校/高等学校の校長となる。
・昭和27/1952に、讃美歌を作った法華津峠に記念の歌碑が立てられる。
・昭和28/1953、引退。後に、県教育文化章を受章。
・昭和37/1962、第一号の松山栄誉市民になる。
・昭和39/1964、没、享年94歳。墓所は、
松山市御幸一丁目の千秋寺にある。

<西村清雄作詞の「讃美歌404番」>

・西村清雄の讃美歌の歌詞は、1-580番まである讃美歌の歌詞中で、唯一日本人が作詞したものである。この歌詩は、西村清雄が法華津峠を徒歩で越えた時の体験を基に作詞したものである。・・
    山路こえて ひとりゆけど 主の声にすがれる 身はやすけし
    松のあらし 谷のながれ みつかいの歌も かくやありなん
    峯の雪と こころきよく 雲なき空と むねは澄みぬ
    みちけわしく ゆくてとおし こころざすかたに いつか着くらん
    されども主よ われいのらじ 旅路のおわりの ちかかれとは
    日もくれれば 石のまくら かりねの夢にも み国しのばん



西村清雄の肖像
(愛媛の偉人賢人より)


「山路こえて」の歌碑
宇和島市/西予市
法華津峠


18

船田 操
(ふなだ みさお)
(ふなだ みさお)
<船田操の歴史>

・船田操=明治〜昭和期の教育家、済美高校の創設者、陸軍大将-白川義則の妹。
・明治5/1872年、松山城下(千船町)で生まれる。父は松山藩士-白川親応
(ちかまさ)
・白川親応は、藩政時代は、松山藩の上級武士で、廃藩後は材木商を営み、事業がうまくいっていた頃には、一番町に「白川座」という芝居小屋も経営しており、一家はかなり富裕な生活を送っていたようであるが、父の商売は、次第に武士の商法で行き詰まり、二番町の屋敷も芝居小屋も人手に渡り、苦しい生活の中で世を去った。
・父の死で一家の生活は苦しくなり、兄の義則は、無料の陸軍教導団(後の陸軍士官学校)に入って軍人を目指し、操は、14歳で教員見習いとなった。
・20歳になった操は、同じ学校で知り合った船田金太郎(後に伊予鉄道の技師)と結婚したが、同時に松山幼稚園の保母主任となり、共働きを続けた。
・操は、明治38/1905に勝山婦人会を結成し、同年私立勝山女学校を創設、さらに同40/1907に、家政女学会を開設するなど、目立った活躍をしていた。
・明治41/1908に、澤田亀の澤田裁縫女学校と、船田操の家政女学会の合併が行われ、愛媛実科女学校として発足した。
・明治44/1911、勝山高等女学と愛媛実科女学校を合併して、済美高等女学校が設立された。以後、澤田亀と船田操の二人の指導者は、資金面の危機も克服し女子教育に尽力した。船田操は男まさりの勝気さで経営や外部との交渉を、澤田亀は生徒と起居を共にしながら生活指導をと二人の特質を出し合って、済美高等女学校を発展させていった。
・昭和31/1956、没、享年85歳。

<料亭「梅の家」>

・「梅の家」は、戦前、二番町(現、明治安田生命ビル)にあった
松山で最も格調の高い料亭で、陸軍大将で、昭和初期の陸軍大臣でもあった白川義則と、その妹の船田操が一時期育った場所(白川邸跡)でもある。なお、二人が生まれたのは、松山市千船町(現、千舟町)である。この「梅の家」は、政友会、民政党の政党活動が華々しかった頃は、「梅の家」が政友会の溜まり場所で、三番街の「明治楼」が民政党の本陣であったと言われている。




船田操の胸像

松山市湊町7
済美高校構内



船田操(左)と白川義則(右)


料亭/梅の家
(現存せず)
松山市二番町


19

森 白象
(もり はくしょう)
(もり はくしょう)
<森白象の歴史>

・森白象=高野山真言宗管長-総本山金剛峯寺第406世座主、俳人。本名:健三、僧名:寛紹。俳号:白象。
・明治32/1899、温泉郡重信町吉井村(現、東温市牛渕)で生まれる。
・明治43/1910、12歳のときに高野山普賢院の住職であった叔父-寛勝和尚を頼り高野山に上がり、普賢院に入寺して剃髪、僧侶の修行の道に入った。
・大正14/1925、関西大学法学部卒後、高野山大学入学。
・昭和2/1927年、改造社/日本文学全集完結記念の「日本文学夏期講座」が高野山大学で開催され、そのときの講師が高浜虚子で、高野山大学の学生であった白象は、聴講して感銘を受けた。以来、高浜虚子に師事、昭和5/1930から『ホトトギス』に投句を始めるようになった。同年、高野山大学文学部を卒業。
・昭和24/1949、『ホトトギス』同人になる。「白象」の号は12歳で入寺した普賢院の普賢菩薩が白象にのっているのに因んだもの。以後、俳人協会評議員として活躍し、愛媛県内俳誌『糸瓜』との関わりも深い。
・昭和47/1972年、高野山第473世寺務検校執行法印。昭和55/1980年、高野山真言宗管長-総本山金剛峯寺第406世座主となる。
・昭和56/1981年、第1回愛媛放送賞、重信町名誉町民彰。同59/1984年、愛媛県名誉県民功労彰受彰。
・平成6/1994、遷化、享年95歳。
墓所は、和歌山県高野町の金剛峯寺にある

<森白象の代表的な句碑>

・@「お遍路の 誰もが持てる 不仕合
(ふしあわせ)」(松山市浄瑠璃町-八坂寺)
・A「蒼天の 島山と海 裸の子」(松山市梅津寺町-梅津寺公園)



森白象の句碑@
「お遍路の 誰もが持てる 不仕合
松山市浄瑠璃町
八坂寺



森白象の句碑A
「蒼天の 島山と海 裸の子」
松山市梅津寺町
梅津寺公園


20

三上 是庵
(みかみ ぜあん)
(みかみ ぜあん)
<三上是庵の歴史>

・三上是庵=幕末〜明治初期における崎門派の儒者、藩主松平定昭の顧問。幼名:六之助・長太郎、成長して:景雄(夫)・退助、通称:は新三・新左衛門、号:是庵。

・文政元/1818、松山城下において、松山藩士-三上清武三男として生まれる。
・好学の士で、13歳のころには『近思録』や『文選』などを読破していたという。
・天保5/1834年、17歳の頃から、三之丸の門番役を務める傍ら、藩校明教館教授の高橋復斎、村田箕山について朱子学を修めたが、後に、藩命によって江戸に遊学し、崎門派の西川楽斎について学んだ。
・是庵は、父母を喪うために一時帰郷し藩に出仕したが、青空の志を抑えることができず、天保14/1843年、26歳の時、藩を辞して再び東上、崎門学を奥平栖遅庵
(せいちあん)について学び大いに悟る所があり、『師説疑義』を著わし、村田箕山より離脱、若狭の梅田雲浜、長州の吉田松陰らと住来して時局を論じた。その後、丹後綾部藩の九鬼氏、田辺藩の牧野氏のもとに儒学をもって仕えたが、慶応3/1867年に辞して松山へ帰った。その時、松山藩の要職にあった藤野海南(正啓)は、名声高い是庵を、第14代藩主-松平定昭の顧問とした。
・大政奉還後の慶応4/1868年に戊辰の役が起り、松山藩は旧将軍徳川慶喜に近かった関係から、朝敵の汚名のもとに討伐をうけることになった。この機に当たり、藤野海南らは是庵を三之丸に迎え、新政府に対する態度を協議した。この時、是庵は恭順論を主張し、藩主父子は城を出て謹慎するように勧めた。その結果、藩主らは常信寺に入って謹慎の意を表し、その結果、土佐の藩兵による松山進駐を平穏裡に実現させ、松山を兵火から救うことができた。
・明治4/1871年、是庵は「三上学寮」と称する私塾を創設・経営して、後進の育成に勤めた。明治9/1876年、没、享年58歳。墓所は、松山市朝日ヶ丘の宝塔寺にある。

<三上是庵の遺稿>


・『恥かし草』(嘉永元/1848年編纂)、三部作。後、福田正徳の付録一編。(一)「賤ガ男身ノ上語り」(弘化3/1846年)、山田重之助に同行、浜田へ出発する時にあたり、春山雅丈あて書き遺した書簡体自省自戒の文。(二)「賤ノ男身ノ上物語」、七歳、学に志してより『師説疑義』を著わして箕山門を離れ、棲遅庵に師事して、安心立命の境を得るまでの自叙伝的反省自戒の文。(三)「行実」、幼年時代の思い出。「たこあげ」「こままわし」等が下手であったこと、「スゴロク」「カルタ」等の勝負事を好んだことなど、種々自己の欠点だった事を挙げ、反省自戒した文。(付録)「恥シ艸ノ後書」-福田正徳跋文。

<三上是庵の書>


・「行書三字」の墨書が残されており、「是庵景書」の署名がある。「己巳」とあるので、明治2/1869年の作である。



「三上是庵の書-行書三字」


三上是庵の墓
松山市朝日ヶ丘
宝塔寺

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八木 繁一
(やぎ しげいち)
(やぎ しげいち)
<八木繁一の歴史>

・八木繁一=明治〜昭和期の教育者、理科教育の貢献者、植物研究家。
・明治26/1893年、野間郡波方村(現、今治市波方町)で生まれる。
・大正3/1914年、愛媛県師範学校卒業。上浮穴郡久万尋常高等小学校勤務。8/1919年、柳谷第二小学校校長。大正11/1922年、愛媛県師範学校教諭。
昭和5/1930年、牧野富太郎博士を愛媛に招いて、植物採集会開催した。
・昭和13/1938年、「オキチモズク」の研究を開始する。
・昭和22/1947年、松山市立余土中学校長。
・昭和25/1950年、昭和天皇の松山市沖の興居島での植物採集をご案内。

昭和31/1956年、県立博物館設立のための準備開始。同34/1959年、自然科学教室開始。同38/1963年、「ツバキカンザクラ」を『伊予の桜図譜』で紹介。
・昭和55/1980年、没、享年87歳。

<八木繁一の功績>

・八木は、戦前は愛媛県師範学校、旧制の松山中学校などに勤務し、本県の多くの優秀な理科教員を養成するとともに、愛媛県理科教育研究会長として本県小・中学校理科教育の発展に功績をあげた。戦後は、旧制中学校、新制高等学校(県立松山北高校など)に勤務するとともに、昭和31/1956からは、旧県立博物館の設立とその発展に力を注ぎ、植物研究でも植物分類に関する研究成果を多く発表した。中でも、豊後水道産海藻類を研究した『伊予の海藻目録』や『愛媛の植物』等がある。自ら命名した「オキチモズク」、「ツバキカンザクラ」など新発見の植物も多い。

<八木繁一が造った「郷土植物園」>


・愛媛県護国神社の境内に「愛媛万葉苑」がある。日本最古の歌集「万葉集」には、4,561首の有名・無名の人の歌が集められており、中に植物を詠んだ和歌、約150首がある。この万葉苑は、その植物を可能な限り蒐集して植裁した植物園である。
・同苑は、もともと植物学者の八木繁一が中心となって、護国神社の御霊を慰めようと、昭和28/1953年に「郷土植物園」を造ったのが最初で、その後、境内に万葉の歌人-額田王
(ぬかたのおおきみ)の「熟田津(にきたず)の歌の碑」が建立されたのを機に、万葉集に詠まれた植物を集め、昭和43/1968年に「愛媛万葉苑」として開園したたものである。



八木繁一の肖像
(愛媛の偉人賢人より)


愛媛万葉苑
松山市御幸一丁目
護国神社隣


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山路 一遊
(やまじ いちゆう)
(やまじ いちゆう)
<山路一遊の歴史>

・山路一遊=教育者、高知、香川、兵庫、愛知、愛媛師範学校長、埼玉、福島、東京の視学官。号:天放。
・安政5/1858年、松山城下(南堀端)で、松山藩士(第13代-松平勝成の御側役)-山路一審(いっしん)の長男として生まれる。
・元治元/1865年、藩校明教館に入り、漢学を修業する。
・明治3/1870年、松山藩立洋典科に選抜にて入学し、英語、洋算を原書で学ぶ。
・明治5/1972年、石鉄県立算数科に入り、代数、幾何、和算を学ぶ。同年、学制頒布により勝山学校が開設され、その教師となる。
・明治7/1874年、大阪に出て、小学校教師となるも望郷に駆られ帰郷。同8/1875年、
大阪英語学校に入り勉学に励むも、同9/1876年、家計窮迫のため止む無く帰郷し、同10/1877年、県立北予変則中学校(松山中学校の前身)で数学を教授する傍ら、同校校長-草間時福の英語の講義に出席した。
・明治12/1879年、中学校を依願退職し、上京、東京師範学校中学師範学科に入学。
・明治17/1884年、東京師範学校を卒業。文部省御用掛-普通学務局の勤務を振り出しに、高知、香川、兵庫、愛知、滋賀の各師範学校長のほか、埼玉、福島、東京の視学官を歴任した。
・大正2/1913年、郷里の愛媛師範学校長に転じた。一遊、56歳であった。そして、大正12/1923年に依願退職するまでの10年間、愛媛県の教育に尽力した。
・昭和7/1932年8月、松山市持田の自邸で没した。享年75歳。墓所は、松山市祝谷東町の常信寺にある。一遊校長の没した同年12月、「師道讃仰之碑」が師範学校の校内に建立された。

<滋賀県師範学校長時代>


・明治35/1902年、滋賀県師範学校長に就任した一遊の豪放快活で、人間味豊かな人格による薫陶は、全生徒の敬慕の的となり、権力に屈しない気骨ある大校長としての風格は、教職員及び生徒全員の誇りであって、退任後も一遊の教育精神は、滋賀師範学校の伝統形成力として長く残ったと伝えられている。一遊没後の昭和6/1931年、師範学校創立60周年の記念日に、一遊校長の遺徳を偲んで、校庭に銅像が建立された。

<山路一族の家系>

・一遊の父-山路一審は、石手川を洪水から守った西条藩士-大川文蔵の子孫で、山路家の養子となった。一遊の妻-順は、内藤鳴雪の長女であり、弟の一予
(かずまさ)の養家は、加藤嘉明の重臣-佃十成の子孫である。また、一審の三男が山路一善である。

<伊予の洋学>

・明治に入って伊予の各藩校では、庶民の子弟を入学させるとか、洋学を加えるなどの近代化が行われた。早くも明治元/1868年、宇和島藩明倫館に西洋学教授方が設けられて、先の英蘭学稽古場を吸収し、明治2/1869年、今治藩克明館に洋学科が、明治3/1870年に、松山藩明教館に洋典科が設けられた。版籍奉還・廃藩置県・県の統廃合と大規模な行政改革が矢継ぎ早に実施される中、教育界でも同5/1872年には「学制」が頒布されて、混沌のうちに藩校は県校と改称され、その県校も直ぐさま短い生涯を閉じて、その後の曲折を経ながら、近代的な学校へとその伝統が継承されていった。



山路一遊の肖像


愛媛師範学校
(現存せず)
松山市若草町



愛媛師範学校/付属小学校
(現存せず)
松山市若草町







初心忘するべからず

    
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