「軍人」のページへようこそ!


 

秋山 真之
(あきやま さねゆき)
秋山 好古
(あきやま よしふる)
川島 義之
(かわしま よしゆき)
桜井 忠温
(さくらい ただよし)
桜井 真清
(さくらい さねきよ)
白川 義則
(しらかわ よしのり)
仙波 太郎
(せんば たろう)
水野 広徳
(みずの ひろのり)
山路 一善
(やまじ かずよし)


軍  人


秋山 真之
(あきやま さねゆき)

(あきやま さねゆき)
<秋山真之の歴史>

秋山真之=明治期〜大正初期の日本海軍軍人(海軍中将)、日露戦争の時の連合艦隊の作戦参謀
・明治元/1868年、松山城下中歩行町(現、歩行町)にて、父-旧松山藩士-秋山久敬、母-貞の5男として生まれる。幼名:淳五郎、秋山の淳さんと呼ばれていた。秋山好古は、実兄(三男)である。
・真之は、幼少の頃から漢学塾に学ぶとともに、和歌も習った。 勝山学校を経て、松山中学校に入学、親友の正岡子規の上京に刺激され、5年で中学を中途退学した。
・明治16/1883年秋、15歳で上京し共立学校(現、開成高校)に入学。上京時は、兄-好古宅に寄寓。やがて、親友正岡子規と東京・神田に下宿する。
・明治17/1884年、大学予備門(現、東京大学教養学部)に入り、東京帝国大学に進むのを目指したが、秋山家は経済的苦境にあり、真之は兄の好古に学費を頼っていたため、親友の子規が大学予備門卒業後は文学を志して、東京帝国大学文学部に進んだのとは道を異にし、同19/1886年に退学、同年、築地の海軍兵学校に17期生と して入学した。
・明治23/1890年、同校(江田島に移っていた)を主席で卒業し、海軍軍人となった。
・明治27/1894年に勃発した日清戦争を経て、アメリカに留学、近代米国海軍戦術を極め、緻密なシステム思考で、日本海軍有数の戦術家に成長する。
・明治37/1904年に勃発した日露戦争では中佐として、連合艦隊指令長官/東郷平八郎の作戦主任参謀として活躍し、翌38/1905年の日本海海戦では、バルチック艦隊を迎え、「皇国の興廃此の一戦にあり」のZ旗を旗艦三笠に掲げ、伊予水軍伝来とも云われる「T字戦法」を駆使し、意表を衝く敵前旋回を展開、敵艦隊を撃滅完勝して、戦局の大勢を決した。また、この海戦の報告文 「本日天気晴朗なれど波高し」にみられる、海軍きっての名文家としても知られている。
・真之は、大正6/1918年、海軍中将に昇格したが、 翌、大正7/1918年、盲腸炎から腹膜炎を併発し、同年2月7日、没、享年51歳。墓所は、最初は東京都港区の青山墓地にあったが、現在は、神奈川県鎌倉市十二所の鎌倉霊園に改葬されている。





秋山真之の肖像


秋山真之の銅像
松山市梅津寺町
大丸山



秋山 好古
(あきやま よしふる)
(あきやま よしふる)
<秋山好古の歴史>

・秋山好古=明治期〜昭和初期の日本陸軍軍人(陸軍大将)、日本陸軍の騎兵の父、教育者。
・安政6/1859年、松山城下中歩行町(現、歩行町)にて、父-旧松山藩士-秋山久敬、母-貞の3男として生まれる。幼名:信三郎、信(しん)さんと呼ばれていた。弟に五男真之がいる。
・慶応2/1866年、8歳で伊予松山藩の藩校-明教館の小学部へ入学し、家計を支えつつ勉に励んだ。この頃、天保銭一銭にて、銭湯の釜焚き、番台の管理をやっていた。
・明治8/1875年、大阪の師範学校を経て教員となる。
・明治10/1877年、陸軍士官学校に入学し、卒業後は東京鎮台に配属される。
・明治16/1883年、陸軍大学校に進み、その後、久松定謨伯爵のフランス留学の補佐役を命じられ、明治20/1887年、自らもサンシール陸軍士官学校に留学して、騎兵戦術の習得に努めた。
・明治26/1893年、騎兵第一大隊長となり、同27/1894年に勃発した日清戦争に従軍。
・明治37/1907年からの日露戦争においては、騎兵第一旅団長として出征し、第二軍に属して、沙河会戦・黒溝台会戦・奉天会戦などで騎兵戦術を駆使して、世界最強といわれたロシアのコザック軍と戦い大きな戦果を上げ、そののち「日本騎兵の父」と呼ばれるようになった。
・大正5/1916年、陸軍大将となる。
・大正12/1923年に予備役となり、同13/1924年、故郷の松山に帰り、私立北予中学校(現、松山北高等学校)の校長に就任し、後進の育成に尽くした。
・昭和4/1929年、陸軍を退役。
・昭和5/1930年、北予中学校長を辞任し、上京する。上京後、左脚の壊疸に羅患し、医師が苦渋の決断で脚の切断処置を施したが回復せず、11月4日、没、享年71歳。墓所は、東京都港区の青山霊園にあり、分骨墓が、松山市鷺谷町の鷺谷墓地にある。

<秋山好古と北予中学校>


・大正12/1923年、数えの66歳になった秋山好古は、その年の3月に、予備役となった。そして、大正13/1924年、久松定謨伯爵をはじめ、松山の有力者たちの要請により、私立北予中学校の校長になった。当時、陸軍大将が田舎の私立中学校の校長になるのは、現代ならば、大臣が田舎の名もない私立高校の校長になるようなもので、常識ではとても考えられないことであった。しかし、好古は、「おれは中学のことは何も知らんが、他に人がなければ校長になってもよい。日本人は少しく地位を得て退職すれば、遊んで恩給で食うことを考えるが、それはいかん。おれでも役に立てば、何でも奉公する」といって、校長を引き受けたのである。
・校長の好古は、「質実剛健・自主自立・忠君愛国」をモットーにを掲げ、学科では自ら「修身」を担当し、ニコニコしながら訥弁に近い言葉で説いたという。
北予中学校の学生たちは、巨体で容貌魁偉な陸軍大将・秋山校長に一目置いた。好古自身も、タバコや酒を慎み、校庭の掃除、庭樹の手入れ、雑草取りなどにも精を出した。教師たちも、この頼もしい校長に ”ヒンデンブルグ”というニックネームを付けたという。




秋山好古の肖像


秋山好古の銅像
松山市歩行町
秋山兄弟生誕地


秋山好古の墓
松山市鷺谷町
鷺谷墓地


川島 義之
(かわしま よしゆき)
(かわしま よしゆき)
<川島義之の歴史>

・川島義之=明治期〜昭和初期の日本陸軍軍人(陸軍大将)、二二六事件の陸軍大臣。
・明治11/1878年、松山城下に生まれる。

・松山中学校を卒業後、明治31/1898、陸軍士官学校、同41/1908、陸軍大学校卒業。
・陸軍省人事局長、近衛歩兵第1旅団長、第19師団長、第3師団長を歴任。教育総監部本部長、朝鮮軍司令官、軍事参議官を経て、昭和9/1934に陸軍大臣に就任。

・昭和11年/1936の二・二六事件の時、統制派と皇道派のどちらにも属していないことで、岡田内閣の陸軍大臣に選ばれたが、両派の統制を取り得なかったことで、事件を防ぐことができなかった。事件は、昭和天皇の意向によって、反乱部隊は鎮圧されたが、陸相として事件を処理できなかったため、事件後に予備役に編入されることになった。
・松山中学で夏目漱石の教え子だった川島は、漱石先生をそれほど偉い先生だとは思っていなかったようである。

・昭和20/1945年、没、享年67歳。墓所は、松山市鷺谷町の鷺谷墓地にある。

<秋山好古の銅像の銅板>

梅津寺公園内にある秋山好古の銅像の台座の銅板の碑文は、陸軍大臣・川島義之の筆によるものである。
この銅板は、昭和6/1931年に、好古の銅像が道後公園に設置されたときのもので、昭和18/1943の戦争のための金属供出のとき、他の銅板と一緒に保管されていたものである。





「川島義之の肖像」


川島義之揮毫の銅板
秋山好古の銅像の名盤」
松山市梅津寺町
見晴山

桜井 忠温
(さくらい ただよし)
(さくらい ただよし)
<桜井忠温の歴史>

桜井忠温=明治期〜昭和期の日本陸軍軍人(陸軍少将)、小説家
・明治12/1879松山城下小唐人町(現、松山市大街道一丁目)で、松山藩士の3男として生まれる。翻訳家・教育者の櫻井鴎村は実兄、木村駿吉の娘婿で海軍中将の櫻井忠武は実弟。
明治32/1899年、松山中学校を卒業し、神戸税関に勤務。
明治34/1901年11月、陸軍士官学校卒業(13期)。

松山の歩兵第22連隊旗手として、日露戦争に出征。乃木将軍配下、旅順攻囲戦で、体に8発の弾丸と無数の刀傷(全身蜂巣銃創)を受け、右手首を吹き飛ばされる重傷を負う。余りの重傷に死体と間違われ、火葬場に運ばれる途中で生きていることを確認されたという。
・帰還後、療養生活中に執筆した実戦記録『肉弾』を、明治39/1906年に刊行した。

・大正13/1924年以降、陸軍省新聞班長を務め、昭和5年/930年、陸軍少将で退役。著作には『銃後』『草に祈る』『黒煉瓦の家』『大将白川』『将軍乃木』『煙幕』などのほか、晩年の自伝『哀しきものの記録』がある。また少年時代に画家を志し、四条派の絵師に学んだほど画技にも秀で、画集も出版している。
・太平洋戦争時の活動により、昭和22/1947年に公職追放に遭い、昭和27/1952年に解除。長く東京で暮らしたが、昭和34/1959年に帰郷する。・太平洋戦争時の活動により、昭和22/1947年に公職追放に遭い、昭和27/1952年に解除となり、その後長く東京で暮らしたが、昭和34/1959年に帰郷する。
・昭和40/1965年日、松山市内の病院で没した。享年86歳。墓所は、松山市鷺谷町の鷺谷墓地にある。

<忠温の『肉弾』>

・日露戦争で負傷し、療養中に書いた『肉弾』は戦記文学の先駆けとして広く読まれた。画技にも秀でており、格調高く雅味ある画風と評された。
・難攻不落の要塞といわれた旅順口。ここに乃木希典大将率いる大日本帝国陸軍第三軍は、ステッセル司令官率いる強大国ロシア軍と、壮烈な攻防戦を繰り広げた。本書は、旅順要塞をめぐる日露両軍の激戦の模様を克明に伝えるほか、惨劇を極める戦場の極限状態にあって、なお部下や戦友の安否を気づかい、家族を想う兵士達の姿を感動的に描いている。

・日露戦争後、櫻井は明治天皇から破格の特別拝謁の栄誉に授かり、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、本書をドイツ全軍の将兵に必読書として奨励した。また、日露戦争終結に尽力したアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトは、櫻井宛に「予はこの書の数節を我が二児に読み聞かせたが、英雄的行為を学ぶことは一朝有事の時に際して、一般青年の精神を鼓舞すべきもの」という賞賛の書簡を寄せた。 英国・米国・フランス・ドイツ・ロシア・中国など、世界15カ国で翻訳出版され、近代戦記文学の先駆けとして世界的ベストセラーとなった。



桜井忠温の肖像


桜井忠温の墓
松山市鷺谷町
鷺谷墓地



桜井忠温の戦記小説/肉弾


桜井 真清
(さくらい さねきよ)
(さくらい さねきよ)
<桜井真清の歴史>

桜井真=明治期〜昭和期の日本海軍軍人(陸軍少将)、秋山真之の幼友達。
・明治5/1872年、松山城下において、旧松山藩士-桜井家に生まれる。
・桜井家は、旧藩時代は火術方であったので、岩戸流と宇佐美流の火術の伝書をもっていた。幼少期は秋山真之の遊び仲間であり、実家に保管してあった火術書を用いて花火事件を起こしている。その後、真之にあこがれて海軍兵学校(22期生)へ入学。卒業後、大島・海門・筑紫の航海長などを経て、新高の航海長として日露戦争に従軍。終戦後に海軍大学校(5期生)へ入学し、その後は軍令部副官、第一艦隊参謀、笠置艦長、呉工廠水雷部長などを歴任し、最終位は、海軍少将で退役した。また、伝記『秋山真之』の発刊時は、編集代表を務めており、昭和6/1931年に、道後公園に建てられた秋山真之の銅像のモデルとなったと伝えられている。
・昭和26/1951年、没、享年79歳。

<小説『坂の上の雲』>


・・真之は、手のつけられぬ餓鬼大将であった。・・十二、三のころ、いつも桜井真清という八つのこどもを秘書のようにつれて歩いた。・・桜井家は旧藩のころ火術方をつとめていた関係で、その家には、岩戸流と宇佐美流の伝書が秘蔵されていたのである。・“よしこれで花火をつくろう”と真之が言いだし、・・(小説『坂の上の雲』真之より)

<伝記『秋山真之』の復刊>

・伝記『秋山真之』(昭和8/1933年発行、著作:櫻井真清)と、伝記『秋山好古』(昭和11/1936年発行、編集・発行代表者:櫻井真清)の2冊が、平成21/2009年に完全復刊されている。

<井手真棹と桜井真清秋山真之
>

・秋山真之の和歌の師-井手真棹の父-西村清臣は、歌人であり、絵も書いた。娘の帯に刺繍をするなど多種多芸で、自分で練った火薬で花火を作って打ち上げたりした。後に、この花火の製法の秘伝書を使って、少年時代の秋山真之と一緒に花火騒動を起こすのが、清臣の孫(娘の次男)の桜井真清(井手真棹の甥)である(子規記念博物館・友の会ニュースNo.104より抜粋)
・清臣の長男-真棹は、井手家を継いだ。子規、真之の和歌の師であり、秋山久敬とも歌仲間の付き合いをしていた。真之が海軍兵学校を首席で卒業したときには、晩年の父・久敬の代役として卒業式に臨んだ?




小説『坂の上の雲』挿絵
画:下高原健二


伝記『秋山真之』復刊版(
著作:櫻井真清


白川 義則
(しらかわ よしのり)
(しらかわ よしのり)
<白川義則の歴史>

・白川義則=明治期〜昭和期の日本陸軍軍人(陸軍大将-男爵)。
・明治元/1868年、松山城下(千船町)において、松山藩士-白川親応の三男として生まれる。幼名:精一郎。
・富裕な材木商の家に生れるが、父が商売に失敗し家が破綻し、松山中学(秋山真之と同級)を中退した後、給仕として県庁に勤務したが、下級役人に酷使されたことに憤慨し3日で退職。翌年には小学校の代用教員となったが、父の死で家計が困窮したことを機に、陸軍教導団の試験を受ける。この時、身長が足りなくて不合格になるところを辛うじて合格させてもらったと言われている。
・明治17/1884年、陸軍教導団に入り、明治19/1886年に卒業して陸軍工兵二等軍曹となり、近衛工兵中隊に配属される。
・明治20/1887年、陸軍士官候補生となり歩兵科に転科、歩兵第21連隊付を経て、陸軍士官学校(1期)に進み、明治23/1890年に卒業後、明治26/1893年に陸軍大学校に入学するが、日清戦争により中退して中尉として出征。戦後、復校し12期生として卒業する。
・明治37/1904年に始まった日露戦争では、連隊大隊長として出征し、首山堡攻略戦などに参戦する。後に第13師団参謀として樺太攻略にも従軍した。
・日露戦争では前線で活躍し、戦後も終生現場主義を通した。第11師団長、陸軍省人事局長、陸軍次官、航空部本部長などを歴任し、大正12/1923年には、関東軍司令官となる。
・昭和2/1927年に、田中義一内閣の陸軍大臣に就任したが、翌、昭和3/1928年6月4日に、張作霖爆殺事件が起り、部内統制力の弱さを露呈する。
・昭和7/1932年の上海事変の勃発にともない、軍司令官として派遣され処理にあたるが、講和後も騒擾は治まらず、同年4月29日の天長節の祝賀式に爆弾テロ事件に巻き込まれ重傷を負い、間もなく胃腸病が主な原因で、翌月の5月26日に没した。享年64歳。墓所は、松山市鷺谷町の鷺谷墓地にある。

<白川義則と秋山好古>

白川義則は、松山中学校を卒業したのち上京し、苦労(経済的に)の末に陸軍士官学校に合格、陸軍大学校にも合格した。陸軍大学在学中、東京四谷・信濃町の秋山好古の家に同居させてもらったが、好古は、白川が同郷の後輩というだけでなく、親身になって面倒をみていた。
・昭和5/1930年、秋山好古が71歳で永眠した。同年11月に、東京の青山の斎場で、陸軍大将
-白川義則を葬儀委員長とする盛大な葬儀が挙行された。

<白川義則と秋山真之>

白川義則は、秋山真之とも、きわめて深い親交があった。白川は、真之と同じ慶応4年の生まれであるが、この年の9月に改元しているので、真之は慶応4年、白川は明治元年の誕生となる。
・白川と真之とは、松山中学校をともに過ごし、小柄で俊敏という共通点もあり、非常に仲がよかったという。真之は、51歳という若さで早逝したが、真之が死の間際に後のことを託したのは白川であったといわれている。



白川義則の肖像


白川義則の墓
松山市鷺谷町
鷺谷墓地


仙波 太郎
(せんば たろう)
(せんば たろう)
<仙波太郎の歴史>

・仙波太郎=明治期〜昭和期の日本陸軍軍人(陸軍中将)、政治家、衆議院議員。
・安政2/1855年、久米郡福音寺(現、松山市福音寺)において、幼名:惣太郎。父は、
旧和気郡馬木村の庄屋-田所与惣右衛門の弟で、仙波家の養子となった仙波幸雄の長男として生れる。。
・仙波家は同村の庄屋であったが、太郎の幼少に家計の不如意から、家産は次第に減少したようで、太郎も少年時代から三津浜で魚類を買って、松山に行商したり、小野村の山奥の駄馬に行って入会林で粗朶(そだ)を刈り、これを町へ売り歩いたりしながら、僅かな労賃を得て家計を助けていた。
・ことに父が病床に臥してから、母と二人で苦労を重ねたが、母は貧しいなかにも太郎を激励し、南久米村の三輪田塾にに通わせた。太郎も、直接米山の教えを受け、明治7/1874年の秋、20歳の時、陸軍教導団に合格した。
・陸軍士官学校に入学し、明治11/1878年12月に卒業。同12/1879年に歩兵少尉に任官し、同16/1883年に中尉となった太郎は、故郷の星ノ岡に、土居通増・得能通綱らの奮闘の生涯を永遠に伝えるために、松田通博・吉田格堂・鈴木安職らの有志と謀って土居・得能氏の古戦場に「星岡表忠之碑」を建設した。
・同16年4月に創設された陸軍大学第1期生として入学、同期生に秋山好古がいた。
・陸軍大学校の教官、陸軍士官学校教官を経て大佐に昇進、第三師団(名古屋)の参謀長となる。このころ陸軍の三太郎、すなわち「宇都宮太郎・桂太郎(後の内閣総理大臣)・仙波太郎」のひとりと呼ばれた。
・その後、参謀本部課僚、同第3局員、参謀本部第2局員、ドイツ留学、歩兵第12連隊大隊長などを経て、日清戦争においては、第5師団参謀として出征、平壌攻略戦などに参戦した。第5師団参謀、第2師団参謀、陸士教官、第3師団参謀長、第10師団参謀長、第8師団参謀長、歩兵第24連隊長などを歴任した。
・明治36/1903年4月、義和団の乱後の清国駐屯軍司令官となり、同年7月、陸軍少将に進級した。
・日露戦争中は、満洲軍総司令部と緊密な連絡を取り、清国内部における宣撫工作や情報収集活動(いわゆる諜報活動)に携わった。また、青木宣純大佐(北京公使館附武官)の隷下に、ロシア軍後方における破壊工作を行った特別任務班の活動にも大きな援助を与えた。
・歩兵第31旅団長、歩兵第18旅団長、歩兵第2旅団長などを経て、日露戦争の後の明治43/1910年11月、陸軍中将に昇進する。
・その後、下関要塞司令官、第17師団長、第3師団長、第1師団長を歴任の後、大正5/1916年8月に待命となり、翌年4月、予備役に編入された。さらに、シベリア出兵に伴い召集を受け、大正7/1918年8月から翌年4月まで、留守第12師団長を務めた。
・退役後の大正9/1920年5月〜大正13/1924年1月まで、妻の出身地である岐阜県加納町に居住し、岐阜県選出の衆議院議員に当選し、わが国の社会教育に貢献した。
・昭和4/1929年、没、享年75歳。墓所は、松山市福音寺町川付地区の墓地(土亀山)に岐阜から分骨して祀られている。

<陸軍大学校第1期生>

・陸軍大学校は、明治16/1883年、参謀将校の育成と軍事研究等を主任務として創設され、第1期生は、選抜された19名が入学、その中に伊予松山から秋山好古と仙波太郎がいた。卒業できたのは10名で、主席で卒業したのは、東条英教(東条英機の父)で秋山好古は9番目、仙波太郎は3番目の成績で二人とも卒業出来た。教育期間は、歩兵・騎兵が3年、砲兵・工兵は2年であった(陸軍士官学校の教育期間は、歩兵・騎兵が3年、砲兵・工兵は4年)。

<久松公のフランス留学時のおつき役>

・仙波は、旧伊予松山藩主の久松公が、フランス留学の時おつき役として依頼を受けたが「私は、藩主久松様には世話になってない、庄屋として多くの年貢を献上しており世話をした方である。よって断わる。」と言った。それで好古が行くことになったと伝えられている。



仙波太郎の肖像


仙波太郎の墓
松山市福音寺町川付地区


水野 広徳
(みずの ひろのり)
(みずの ひろのり)
<水野広徳の歴史>

水野広徳=明治期〜昭和期の日本海軍軍人(海軍大佐)、軍事評論家、小説家。
・明治8/1875年、温泉郡三津浜村(現、松山市三津一丁目)ににおいて、父-旧松山藩士-水野光之と母-ナホの末子として生まれる。
・幼くして両親を失い、伯父に育てられる。
松山中学校を卒業して、江田島の海軍兵学校(26期)に入り、同期の野村吉三郎、小林躋造とは生涯の親友となる。
・日清戦争の終結後の明治31/1898年に、海軍兵学校を卒業。その後、 義和団の乱では、陸戦隊小隊長として上海の警備を担当する。
・明治36/1903年、海軍大尉となる。
・日露戦争では、第41号水雷艇長として、明治37/1904年の旅順口閉塞作戦や黄海海戦、翌、明治38/1905年の日本海海戦に従軍する。

・日露戦争中に書いた旅順口閉塞隊の記録が、全国紙に掲載されたことにより、明治39/1906年、軍令部戦史編纂部に出仕を命ぜられ、東京で『明治三十七八年海戦史』の編纂に従事し、黄海海戦、日本海海戦部分などを担当する。
・明治44/1911年に『此一戦』を博文館から刊行。編纂作業終了後は、舞鶴水雷団、佐世保海軍工廠副官兼検査官、海軍省文庫主管、「出雲」「肥前」の各副長などを歴任する。
・第一次世界大戦では、2度にわたり欧米諸国を私費で視察。戦時下である1度目の視察の後、大正6/1917年に、東京朝日新聞に連載の紀行文『バタの臭』では、空襲を受ければ東京が灰になる可能性を早くも指摘。戦後の2度目の際には、兵士同士の戦いから国家総力戦となり、民間人である女性子供老人たちの死体の山を目の当たりにし、帰国後、海軍大臣-加藤友三郎に「日本は如何にして戦争に勝つよりも、如何にして戦争を避くべきかを考えることが緊要です」と報告した。加藤は、後にワシントン軍縮会議に日本側全権として出席、軍縮条約を締結している。
・水野は、「戦争を防ぎ、戦争を避くる途は、各国民の良知と勇断とによる軍備の撤廃あるのみである」として軍国主義者から、一転して平和主義者に転じ反戦・平和論を説いた。
・大正10/1921年に、『東京日日新聞』に連載した「軍人心理」で、軍人にも参政権(選挙権)を与えよと書いたことが、海軍刑法に触れ謹慎処分を受ける。謹慎最終日に加藤友三郎の意を受けて野村吉三郎が海軍残留を促すが、職業と思想の乖離への葛藤や、軍に所属しているままでは思うように執筆できないことなどから、退役し評論家としての道を進む。
・大正12/1923年、軍部が「新国防方針」(米国を仮想敵国としたもの)を奏上、それをスクープした新聞記事をもとに日米戦争を分析し、日本の敗北を断言した「新国防方針の解剖」を発表し、アメリカのメディアにも注目される。
・昭和5/1930年、日米戦の未来戦記『海と空』を刊行。空襲を受ける東京を「逃げ惑ふ百万の残留市民父子夫婦・乱離混交・悲鳴の声」「跡はただ灰の町・焦土の町・死骸の町」と描写した。
・昭和6/1931年、関東軍が満州を制圧し、傀儡政権満州国を建国。政府・軍部のみならず130社以上の新聞社が歓迎の共同宣言した翌年、『海と空』を膨らませた『打開か破滅か・興亡の此一戦』を発刊。「日本の満州国承認は、国際連盟を驚愕せしめ米国を憤慨せしめ、中国を悶殺せしめた」等、満州問題を論じた部分によって発売禁止となる。
・昭和16/1941年2月26日、水野が情報局が大手総合雑誌に配布した執筆禁止者リストに載る。
・昭和20/1945年、米軍機により、水野が1925年4月号の中央公論に執筆した『米国海軍と日本』の一部を引用した伝単ビラが全国に撒かれた。
・同年、腸閉塞を発症し、10月18日、今治市内の病院で生涯を閉じた。
享年70歳。墓所は、松山柳井町の蓮福寺にある。
・今日においても、日露戦争を題材とした水野の『此一戦』は、同じ松山出身の桜井忠温の『肉弾』とともに戦記文学の双壁とされている。



水野広徳の肖像


水野広徳の墓
松山市柳井町
蓮福寺



水野広徳の戦記小説
「此の一戦」



山路 一善
(やまじ かずよし)
(やまじ かずよし)
<山路一善の歴史>

・山路一善=明治期〜昭和期の日本海軍軍人(陸軍中将)、日本海軍への航空兵力の導入、整備に尽力し、「海軍航空の生みの親」と呼ばれる。
・明治2/1869年、松山城下において、松山藩士-山路一審の三男として生まれる。長兄-愛媛教育会の重鎮で、愛媛県師範学校長の山路一遊、次兄-日本興業銀行副総裁の佃一予がいる。妻-すえは、山本権兵衛の次女(財部彪夫人の実妹)。
・明治19/1986年、松山中学校を卒業して、日本海大海戦の名参謀-秋山真之と同期に海軍兵学校へ入校する。
・明治23/1890年、海軍兵学校(17期)を卒業し、海軍少尉候補生として「比叡」に乗り組む。
・少尉任官後、明治27/1894年、日清戦争には「千代田」航海士として参加する。
・明治37/1894年の日露戦争開戦時は、連合艦隊第一艦隊第二戦隊参謀(少佐)、明治38/1905年の日本海海戦には、第一艦隊第三戦隊参謀(中佐)、駆逐艦艦長として参戦する。
・その後、飛行機操縦法、海軍用飛行機の制式及びその他の航空術に関する事項を研究する委員会の長となる。 委員会を設置してから、5ヶ月後に金子大尉と河野大尉が帰国し、ファルマン機とカーチス機が到着し、大正元/1912年の)試験飛行を行ったのが、日本海軍最初の飛行となる。
・同年12月から欧米出張を命ぜられ、航空関係の視察を行う。
・大正2/1913年には、演習に飛行機が参加し、運送船の若宮丸が使われ、これが航空母艦第一号となる。
・第一次世界大戦が勃発すると、大正3/1914年には、第三特務艦隊司令官(少将)として、ファルマン4機を搭載して青島攻略戦に参加し、偵察爆撃により多大な功績を残した。その後、イギリス政府の要請により、ドイツの通商破壊活動への海上護衛任務のために軽巡洋艦「筑摩」「平戸」を率いてオーストラリア・ニュージーランド方面に出撃し、シドニーを拠点に海上護衛任務を行う。
・大正12/1923年-予備役、昭和4/1929年-後備役、昭和9/1934年-退役となる。
・昭和38/1963年、没、享年94歳。



山路一善の肖像






興国の興廃此の一戦にあり!!