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政治・行政


安藤 謙介
(あんどう けんすけ)
岩崎 一高
(いわさき かずたか)
岩村 高俊
(いわむら たかとし)
宇都宮 孝平
(うつのみや こうへい)
加藤 拓川
(かとう たくせん)
草間 時福
(くさま ときよし)
勝田 主計
(しょうだ かずえ)
白石 春樹
(しらいし はるき)
関  新平
(せき しんぺい)
佃  一予
(つくだ かずまさ)
中村 時雄
(なかむら ときお)
久松 定謨
(ひさまつ さだこと)
久松 定武
(ひさまつ さだたけ)
藤野 政高
(ふじの まさたか)



政 治・行 政


安藤 謙介
(あんどう けんすけ)
(あんどう けんすけ)
<安藤謙介の歴史>

・安藤謙介=明治〜大正期の政治家、官僚、検察官、政友会系県知事、衆議院議員、横浜市長、京都市長。
・嘉永7/1854年、土佐国安芸郡羽根村において、土佐藩士-安藤常三郎の長男として生まれる。
・明治6/1873年に上京し、ニコライ塾に入り、その後、東京外国語学校に移りロシア語を学んだ。中江兆民からフランス語も学んだ。
・明治9/1876年、勝海舟の推薦で外務省に出仕し、ロシア帝国サハリンのコルサコフ領事館書記一等見習となる。
・明治11/1878年、サンクトペテルブルク公使館書記生となり、サンクトペテルブルク大学で法学、行政法などを履修し、同15年/1882から同大学の日本語教官となる。
・明治18/1885年、帰国。司法省に転じ、同20/1887年、検事に任官。以後、岐阜・前橋・熊本・横浜地方裁判所の各検事正を歴任した。
・明治29/1896年、第2次伊藤内閣が成立した時、富山県知事に任じられるが、翌年、非職となる。
・明治31/1898年、第3次伊藤内閣が成立したことで、千葉県知事に就任。同年8月、第1次大隈内閣の発足により、非職となる。
・明治36/1903年、第8回衆議院議員選挙に富山県高岡市区から出馬し、当選する。
・明治37/1904年、官選知事(12代県令)-愛媛県知事となる。なお、安藤謙介の愛媛県への赴任は、日露戦争におけるロシア兵俘虜収容所が、松山市に最初に置かれたことに伴い、ロシアに精通していたことが重視されたといわれている。
・明治42/1909年、三津浜築港疑獄事件により、休職となる。
・明治44/1911年、長崎県知事に就任し、大正元/1912年まで在任。大正2/1913年、新潟県知事となり、同3/1914年まで在任し退官した。その後、横浜市長、京都市長を歴任した。
・大正13/1924年、没、享年71歳。


<幻の「三津浜築港起工記念碑」>

・瀬戸内航路の大型汽船の高浜への移転が進み、港湾機能のみならず、魚市場の貧弱化に拍車がかかると判断し、明治36/1903年、三津浜町議会は、町民の総意として近代的な三津浜港大改修計画を決議した。当時は、政党はなやかな時代で、大型プロジェクトには政党を利用する考え方から、高浜が井上要を中心とする「進歩党」に頼れば、三津浜町は、藤野政高を旗頭とする「政友会」へ、町民一丸となって入党する状況であった。かくして、政官界や経済界を巻き込んだ猛烈な運動が展開され、結果として、遂に、明治41/1908年5月の臨時県議会において、三津浜港改修の予算がつき着工のめどがついた。国の省庁の認可も下りて、いよいよ改修プランの実行の段階に入った。そして、明治42/1909年7月13日、安藤謙介知事をはじめ、県会議員ら500名の来賓をいただき、町民を挙げて、盛大な記念式典が挙行された。ところが、この式典が行われた半月後の7月30日、政府より突然、安藤知事は休職を命じられ、解職されたのである。この事件を世にいう「三津浜築港疑獄事件」と呼んでおり、一大政争事件に発展してしまい、結果、三津浜築港は中止となった。三津浜築港計画は幻となったが、安藤知事の筆になる「三津浜築港起工記念」の見事な石碑が、今も、松山市三津の恵美須神社の境内に立っている。



安藤謙介の肖像
(愛媛の偉人賢人より)


三津浜築港起工記念碑
松山市三津二丁目
恵美須神社



岩崎 一高
(いわさき かずたか)
(いわさき かずたか)
<岩崎一高の歴史>

・岩崎一高=明治〜昭和前期の政治家、第6代松山市長、衆議院議員。
・慶応3/1867年、松山城下(現、松山市南堀端町)において、代々松山藩主・久松家に仕える岩崎家に生まれる。父・松山藩士・岩崎一正(かずまさ)。
・明治17/1884年、松山中学校を卒業の後、自由民権論壇の率先者として活動、その後、上京して専修学校(現、専修大学)に入学し法律を学ぶ。
・明治19/1886年、同校を卒業して帰郷するが、県令・関新平等の官界への誘いを断り再び上京し、自由民権論を高唱し東奔西走する。
・明治20/1887年に保安条例(自由民権運動を弾圧するための法律)が発布され、愛媛県出身の有志・藤野政高、白川福儀、岩本新蔵等と共に、猛烈なる反対運動を展開したことにより、その名が広く知られるようになった。
・明治24/1891年、父・一正の死去により帰郷し、家督を相続する。
・同年、海南新聞社(現、愛媛新聞社)に入社して経営に従事し、同社社長・藤野政高を扶け、自由民権運動の普及に努力する。一方、政友会の愛媛県支部長となり、地方における党の中心として活動する。
・大正8/1919年、故・古谷久綱衆議院議員の補欠選挙に立候補して当選する。
・大正12〜15/1923〜1926年の間、第5代の加藤恒忠(拓川)市長の後を受けて、第6代松山市長を勤める。
・昭和3〜7/1828〜1922年の間、道後湯之町町長を勤め、同時に、愛媛県町村会会長も勤めている。
・昭和19/1944年、没、享年78歳。


<岩崎一高のエピソード>

・松山市拓川町の相向寺にある加藤拓川の墓碑銘の「拓川居士骨」の五文字は、死の直前に見舞いに来た加藤の後を継いで松山市第6代市長に就任した岩崎一高に書かせたものである。
・秋山好古将軍が、中学校長として謹厳精励であったことの例証は、これまたいくらでも挙げることが出来るが、その二三を左に記して見よう。「将軍はいやしくも公務に渉と、それは頗る几帳面であった。例えば中学校長の職務を帯びて旅行する場合などには、厳格にその旨を市長に届出たので、時の市長岩崎一高氏などは却って恐縮するほどであった。」(伝記「秋山好古」)
・明治30年は、極堂にとっては実に多事であって、1月15日、松山で『ほとゝぎす』を発刊し、また、岩崎一高の妹トラと結婚した。昭和27年2月、56年間つれ添った83歳のトラ夫人に先立たれた。



岩崎一高の肖像


岩崎一高揮毫の拓川の墓
松山市拓川町
相向寺



岩村 高俊
(いわむら たかとし)
(いわむら たかとし)
<岩村高俊の歴史>


・岩村高俊=江戸後期の土佐藩士、幕末〜明治末期の軍人、政治家。
・弘化2/1845年、土佐国幡多郡の宿毛領主-伊賀家に仕えた岩村英俊の三男として生まれる。幼名:精一郎。岩村通俊・林有造は兄。美術史家で美術評論家の岩村透は高俊の長男、建築家の竹腰健造は次男。
・土佐藩校の「文武館」で、蘭学や砲術を学ぶ。
・慶応3/1867年9月に、岩村通俊の鉄砲購入に随行して長崎へ赴く。ここで、監察-佐々木高行の添え書きを得て同年11月に上京し陸援隊に入隊。その直前に、同郷の坂本龍馬・中岡慎太郎が近江屋で暗殺されると、暗殺者と噂された紀伊藩-三浦休太郎を陸奥陽之助らと共に襲撃(天満屋事件)した。その後、鷲尾隆聚の高野山出兵に参加している。
・戊辰戦争では、新政府軍の東山道先鋒総督府の監察および応接係として転戦。北越戦争では、東山道軍を率いて長岡に迫り、越後小千谷の慈眼寺にて長岡藩家老-河井継之助と会談する。だが、「会津藩を説得する」という河井の嘆願を「時間稼ぎであろう」と全く聞く耳を持たず交渉は決裂、結果として長岡藩は新政府軍の敵に回って激戦が行なわれた。
・明治2/1869年に、戊辰戦争の功で永世禄高200石を得る。
・維新後、有栖川宮家令、宇都宮県・神奈川県の権参事を務めた後、明治7/1874年2月に佐賀県権令となり、内務卿-大久保利通の内意を受けて、江藤新平を盟主とする征韓党の挙兵(佐賀の乱)の鎮圧に努めた。乱の後は内務省に移り、大久保の随員として、井上毅らとともに清国を訪れている。
・明治7年11月に、江木康直の後任として愛媛県へ赴任。同13/1880年まで権令・県令を務め、地租改正や民会施策などを実施した。
・以後、内務省の大書記官、石川・愛知・福岡・広島の県令・知事を歴任した。
・明治25/1892年に貴族院議員となり、同29/1896年には男爵に叙された。
・明治39/1906年、没、享年61歳。墓所は、京都-東大谷の武家墓にある。


<岩村高俊が実施した施策>

岩村高俊は、明治7/1874年12月〜明治13/1880年3月の5年余の間、愛媛県権令/県令として、国に先駆けた県会の開催など、革新的な行政を展開した優れた内務官僚であった。その主な施策を列挙する。
@町村議事会心得・同仮規則交付(明8年)、A松山に県立英学校開校(明8年)、B戸長公選仮規則/戸長選挙仮方法(明9年)、C大区会仮規則(明8年)、D香川県の廃止し愛媛県に合併(明9年)、E公立愛媛伊予師範学校設立(明9年)、F愛媛新聞(県庁御用新聞)創刊支援(明9年)、G讃岐・伊予両国全管区編成替発表(讃岐国7大区、伊予国第14大区)(明9年)、H愛媛小学校規則公布(明9年)、I組頭選挙仮規則布達(明10年)、J第一回特設県会(議長-小林信近)(明10年)、K民費賦課方法などにつき小区会開催の件布達(明10年)、L県立松山病院収養館に医学所併設(明11年)、M愛媛県庁現在地に落成(明11年)、N県内14郡役所に郡長任命(大小区長、戸長、組頭廃止)(明11年)、O戸長公選規則改正(明12年)、P耕地改組(明12年)。



幕末の岩村高俊の肖像


明治の岩村高俊の肖像


二代目愛媛県庁
(明治11/1878年)
松山市一番町四丁目



宇都宮 孝平

(うつのみや こうへい)
(うつのみや こうへい)
<宇都宮孝平の歴史>

宇都宮孝平=昭和初期〜中期の地方政治家、内務官僚、青森県知事、松山市長。
・明治30/1897年、喜多郡内子町で生まれる。
・松山中学校を経て、大正9/1920年、第七高等学校を卒業。
・大正12/1923年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。在学中に高察文官試験に合格、東京府の所属となって庶務課・上木課に勤務。
・1年間志願兵で入隊した後、大正14/1925年、年兵庫県警視に復活し、社会局事務官、内務省警保局事務官、兵庫県事務官、青森県学務部長、内閣賞勲局書記官、内閣東北局長などを歴任。
・昭和18/1943年、青森県知事(官選)着任。戦時下資材不足の中「ネブタ祭り」を継続しで県民に感謝されるなどのエピソードを残して、昭和19/1944年、退官。
・昭和22/1947年、井関農機株式会社顧問に就任。
・昭和38/1963年5月、現職の黒田政一を破って松山市長に当選、三期12年在職し、石手川ダム・市民会館の建設、松山城の復元、中央卸売市場の設営、松山南部環状線の建設など、市勢の伸展と市民福祉の増進に務めた。
・昭和38/1963年5月、松山市長に当選、三期在任。同50/1975年、退職。
・昭和43/1968年5月、松山市堀之内の愛媛県美術館(現、別館)前に、宇都宮孝平知事揮毫の「戰災復興記念碑」が建立された。
・昭和50/1975年5月、松山市長を勇退。
・昭和52/1977年、松山市名誉市民の称号、同53/1978年、勲二等瑞宝章を受章。
・昭和53/1988年5月、没・享年92歳。

<宇都宮孝平の祖先>

・内子の宇都宮家は、天文9/1540年に、下野国の芳賀郡から、故ありて伊予国喜多郡曽根郷に来ている。慶長9/1604年に召されて、城廻及内子の庄官になっており、姓を芳我と称した。前松山市長宇都宮孝平の祖先で、孝平は第15代である(県立図書館-宇都宮氏系図による)。第7代までが芳我姓で、第8代国通長右衛門の寛政年間から宇都宮姓に替わっている。本芳我も宇都宮氏と一族で、芳我小太郎の家系もある。

<「戰災復興記念碑」>

 昭和十六年に勃発した太平洋戦争により松山市は同二十年七月二十六日午後十一時三十分焼夷弾爆撃をうけた この空襲によって被災面積四.七九平方粁罹災戸数一四、三〇〇戸罹災者六二、二〇〇名死者行方不明二五九名に達し 市街地の大半は灰燼に帰した その後二十余年全市民の努力により 全国戦災地にさきがけて復興を遂げ四国における政治経済文化の中心となり三十万都市として隆盛をみるにいたった ここに復興再建にあたり尊い犠牲者の霊に対して敬虔な祈りを捧げ松山市の発展を祈念し戦災復興記念事業としてこれを建立する                                            昭和四十三年五月
                       松山市長 宇都宮孝平



宇都宮孝平の肖像
(松山市ホームページより)



戦災復興記念碑
松山市堀之内
愛媛県美術館別館前

(総務省ホームページより)




加藤 拓川
(かとう たくせん)
(かとう たくせん)
<加藤拓川の歴史>

加藤拓川=明治〜大正期の外交官、政治家、第5代松山市長、正岡子規の叔父。
・安政6/1859年、松山市歩行町において、伊予松山藩の儒学者で藩校明教館の教授を勤め、藩で最も偉大な学者といわれた大原有恒(号:観山)の3男として生まれる。幼名:忠三郎。旧姓:大原。号の「拓川」は、松山市郊外を流れる「石手川」に由来する。観山の長女-八重の子が正岡子規で、子規は拓川の甥にあたる。
明治3/1870年、12歳の時、藩校明教館に入る。
・明治8/1875年、17歳の時、父-観山が没した。同年、東京に遊学し、岡千仞
(おかせんじん)の塾に入る。
・明治9/1876年、司法省法学校に入学する。
・明治12/1879年、父/観山の実家-加藤家を再興(継ぐ)する。
・同年、藩閥の威を嵩にきた法学校校長に抗議し、陸羯南(くがかつなん)や原敬(はらたかし)らと共に退学する。法学校を
退学後、約5年間にわたって、中江兆民の塾に入りフランス語を学ぶ。
・明治16/1883年、25歳の時、旧藩主-久松定謨伯爵に随行(補導役)して渡仏する。
・明治19/1886年、ランス在住のまゝ外交官試補となる。
・明治24/1894年、33歳の時、帰国し外務省参事官や外務大臣秘書官などを務める。その後、再度のフランス勤務となり、帰国後の明治30/1897年に結婚する。
・明治35/1902年、44歳の時、ベルギー駐在特命全権公使となるが、この年、三男/忠三郎が生まれる。
・明治40/1907年、49歳の時、ジュネーヴの万国赤十字会議に全権として出席し、その後、官職を辞す。この年、陸羯南が逝った。

・明治41/1908年、大阪新報社に入社。同年、松山市選出の衆議院議員に当選する。
・大正元/1912年、54歳?時、で衆議院任期満了となり、直後に、貴族院勅選議員に任ぜられる。
・大正7/1918年、60歳の時、外務省嘱託としてパリなどに出張、翌、大正8/1919年には、特命全権大使としてシベリアに出張するなどして、第一次大戦後の対独平和条約締結に尽力する。
・大正11/1922年、64歳の時、第5代松山市長に就任。松山城址の公園化や、松山高等商業学校の開設に尽力した。
・大正12/1923年、65歳、病高じて市長を辞した。同年3月、永眠。松山市三番町の私邸に於いて告別式が行われ、同日、松山市拓川町の相向寺に埋葬される。
・拓川の3男-忠三郎は、正岡子規の妹-律の養子となり、正岡家を嗣いだ。






加藤拓川の肖像


加藤拓川の銅像
松山市文京町
松山大学



加藤拓川の墓
松山市拓川町
相向寺



草間 時福
(くさま ときよし)
(くさま ときよし)
<草間時福の歴史>

・草間時福=明治期の官吏、教育者、政治家、自由民権運動家。旧松山中学校(現、県立松山東高校)初代校長。夏目漱石や正岡子規に影響を与えたことで知られる。
・嘉永6/1853年、京都の士族-下田好文の子として生まれ、後、草間列五郎の養子となり、安井息軒や中村敬宇に学んだ。
・明治7/1874年に慶應義塾に入塾、同門に新井豪、竹田等、鹿島秀麿などがいた。
・明治8/1875年に同校を卒業し、愛媛県権令-岩村高俊の求めに応じて、藩校-明教館校舎内に新設された愛媛県英学所(後、松山中学校)の初代校長兼教頭に就任した。
・明治9/1876年、明治政府を批判する草間の論文が『朝野新聞』に掲載された。つまり、草間は地球上で最も優れた人間は「英民」ではなく「大日本帝国の民」であるとし、政府の圧迫政策を非難した。2ヶ月の謹慎生活を送った後、愛媛県英学所の校長に再度赴任し、政談演説を再開した。
・明治10/1877年、上京し三田演説会に参加し、福澤諭吉を訪ねる。松山に戻った草間は、自由民権運動組織「公共社」を組織し、土佐の立志社、阿波の自助社と共に愛国社へ参加し、植木枝盛や正岡子規と知遇を得る。
・明治12/1879年に松山中学校長を辞職、上京する。同年、交詢社の設立に携わる。
・明治13/1880年に『朝野新聞』に入社。『嚶鳴雑誌』『北越新聞』などの論説も担当。沼間守一らと国会期成同盟に参加し、自由党創立時の中核を担う。同14年/1881、東京横浜毎日新聞社入社。同15/1882年に東京府会議員に当選。『大阪新報』を買収して『日本立憲政党新聞』を発行、立憲政党を組織した。またこの間、同じ朝野新聞の末広鉄腸、高橋基一とともに日本初のアジア主義団体「興亜会」に参加し、機関誌編集などの実務を担当する。
・その後立憲政党は解体し、草間は星亨や大井憲太郎と交友したのち、同17/1884年には自由民権運動から身を引き、官界に転進する。自由党系幹部からの官界進出は、異例のことであった。同年、工部省准奏任御用掛となり、その後逓信省郵便為替貯金管理所長、東京郵便電信学校長、航路標識管理所長などを歴任し、大正2/1913年に退官するまでに29年間を明治政府の官吏として過ごした。
・昭和7/1932年、没、享年79歳。
墓所は、東京都港区南青山の青山霊園にある。



草間時福の肖像


草間時福の墓
東京都港区南青山
青山霊園



勝田 主計
(しょうだ かずえ)
(しょうだ かずえ)
<勝田主計の歴史>


勝田主計=政治家、愛媛県人初の大蔵大臣、正岡子規や秋山真之の友人。
・明治2/1869年、松山城下(御宝町)において、松山藩士-勝田久廉(ひさかど)の5男として生まれる。号:宰州(さいしゅう)

・明治16/1893、松山中学校卒。在学中に、正岡子規や秋山真之らと親交を深め、俳句を趣味とした。
・明治19/1886年末に上京。第一高等学校に入学後、子規と子規の叔父-藤野漸の推挙で常盤会(明治16/1883年に、旧松山藩主久松家による在京の旧藩子弟たちの学資援助組織として、本郷真砂町18番地に創設)の給費生となり、勉学に励むとともに、子規らと毎日のようにベースボールに興じた。
・明治20/1887年、正岡子規は勝田主計の紹介で柳原極堂を伴って、三津在住の俳諧師-大原其戎(きじゅう)を訪ねて、俳諧の指導を受けた。其戎の主宰する俳誌『真砂の志良辺』には、子規初期の句が44句載っている。
明治28/1895、東京帝国大学法科大学を卒業して大蔵省に入り、同34/1901大蔵省から2年間ヨーロッパに派遣される。
大正元/1912国債整理局長や理財局長を経て大蔵次官となる。同3/1914大蔵次官を最後に退官、同年、貴族院議員に勅撰される。同4/1915年から2年間、日韓併合時代の朝鮮銀行総裁に就任する。
・大正2/1913年、第4代-常盤会寄宿舎監督(初代-子規の叔父の服部嘉陳、第二代-内藤鳴雪、第三代-秋山好古)として郷党の育成に尽力した。
大正5/1916年、47歳の時、第18代寺内正毅(まさたけ)内閣において、愛媛県人初の大蔵大臣となり、第1次世界大戦中の好況と外貨蓄積を背景に積極財政を展開し、対中国投資を企画、実現した。
大正13
/1924年、第23代清浦奎吾
(けいご)内閣において、再度大蔵大臣となり、大正12/1923年に起きた関東大震災復興のための震災外債発行を行った。
・昭和3/1928年、第26代田中義一内閣の文部大臣となり、その
後、昭和14/1939年、内閣参与となる。
・昭和23/1948年、没、享年80歳。墓所は、松山市祝谷東町の常信寺にある。
・昭和44/1969年、勝田の偉大な人物像を慕う郷里の有志が拠出し、奥道後の山頂の杉立山に、彼の銅像を建立した。


<勝田主計の華麗なる一族>

・勝田は、イヨ夫人との間に5男7女の12人の子宝に恵まれ、4男の龍夫は、西園寺公望の秘書-原田熊雄の娘婿となり、日本債権信用銀行の頭取を務め、弟-久貫は、元日本電子計算社長/勝田正之の父であり、その久貫の長男は、三菱財閥の創始者-岩崎弥太郎の孫娘-寿々子と結婚したが故に、勝田家は三菱の創業者一族岩崎家と閨閥で結ばれたことになる。他の主計の子供も著名大学の教授、有名企業の関係者と姻戚関係を結んでいる。いわゆる「華麗なる一族」である。




勝田主計の肖像


勝田主計の銅像
松山市杉立町
杉立山

(奥道後ロープウェイ俳誌)


白石 春樹
(しらいし はるき)
(しらいし はるき)
<白石春樹の歴史>

・白石春樹=昭和時代の地方政治家、愛媛県知事。
・明治45/1912年、伊予郡松前町に生まれる。
・旧制愛媛県立松山商業学校を経て、高松高等商業学校(現、香川大学経済学部)に進み、昭和8/1933年3月、卒業。
・昭和22/1947年、愛媛県議会議員に当選。以後6期務める。
・昭和46/1971年、久松定武知事のあとを受け、第46代愛媛県知事に就任以後、4期連続当選する。
・昭和48/1973年、愛媛県章を制定(昭和64/1989年に廃止)。
・昭和62/1987年、任期満了をもって愛媛県知事を退く(後継は、副知事として白石県政を支えた伊賀貞雪)。
・平成9/1997年、没、享年85歳。

<知事としての功績>

・知事初当選時に公約として、@南予水資源の開発(南予用水、野村ダムなど)、A瀬戸内海大橋(本四架橋尾道今治ルート)の建設、B愛媛大学医学部の誘致、という三大目標を掲げ実現を果たした。

・加えて、南予レクリエーション都市、県総合運動公園、松山空港、四国縦貫・横断自動車道(今日の松山自動車道)、県総合福祉センター、県民文化会館などの大型プロジェクトを積極的に推進した。
・他県との関係では、昭和57年に「西瀬戸経済圏構想」を打ち出し、広島・大分両県との関係強化を図った。

<知事としての政治スタイル>

・坪内寿夫氏がオーナーの日刊新愛媛への取材拒否事件、愛媛県護国神社の玉ぐし料公費支出など、自己の主張・信念には強気の姿勢を通した。



白石春樹が制定した
愛媛憲章



しまなみ海道


関  新平
(せき しんぺい)
(せき しんぺい)
<関新平の歴史>


・関新平明治期の政治家、愛媛県令、愛媛県知事、茨城県権参事
・天保14/1842年、肥前佐賀藩士・関迂翁の次男として生まれる。
・明治維新の際には、奥羽各州に出張して連戦し、名を挙げたと伝えられている。
・明治5/1872年、茨城県権参事、翌、明治6/1873年〜明治8/1875年まで、茨城県参事となり、その間、困窮する水戸士族に土地を与えて救済につとめ、また、水戸城炎上の罪に問われて投獄された人々の無実を上申し、釈放に力を尽くした。
・明治8/1875年、裁判官に転じ、熊谷裁判所長、大審院判事をなどを歴任する。
・明治13〜19/1880〜1886年、愛媛県令、明治19/1886年からは愛媛県知事となるも、明治20/1887年3月7日、在職中に死去した。享年・46歳。

<関新平の一族>

・弟に関清英、妻は江木和気子、娘に関悦子(医師・関場不二彦夫人)、関藤子、江木ませ子、江木欣々(大正三美人の一人)がいる。

<江木欣々(えぎ きんきん)>

・明治10/1877年、父・関新平と母・女中の藤谷花(花子ともいう。麹町の袋物屋「大和屋」の娘)との間に生まれる。
・本名は栄子。号を欣々、または欣々栄と称した。明治期の法律学者・江木衷の妻。
・栄子は養女に出されたが、養家が困窮したため、神田明神下の講武所の花街で半玉となった。
16歳のとき、九州の細川家の家老職・有吉男爵の正妻となった。しかし夫は一年あまりで病没。栄子は有吉家を出されて再び花柳界に戻り、今度は新橋に移り、松屋から「ぼたん」という名で、再び半玉として出ることになった。
新橋の美貌芸者として名をはせた栄子は、間もなく江木衷と結婚した。自宅で関係者を集めてパーティを開き、そこが自ずから社交場となった。栄子は詩・書・画・篆刻・謡曲と広い趣味と才人ぶりを見せて花形となった。九条武子、柳原白蓮と並んで大正三美人と称された。
・大正14/1925年にに夫と死別。昭和5/1930年、大阪の早川の家で縊死した。



関新平の肖像


江木欣々の肖像

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佃  一予
(つくだ かずまさ)
(つくだ かずまさ)
<佃一予の歴史>

・佃一予=明治〜大正期の官僚、銀行家、日本興業銀行副総裁。
・元治元/1864年、松山城下(南堀端)で、松山藩士-山路一審の二男として生まれる。後、佃家(加藤嘉明の重臣-佃十成の子孫)を継ぐ。長兄に山路一遊、三男に山路一善がいる。
・明治23/1890年に、東京帝国大学政治学科を卒業して、内務省へ入省。広島県書記官、大阪税関長、松方正義首相の秘書官、陸軍省参事官などを務める。
・明治35/1902年に、清国直隷総督-袁世凱の財政顧問となる。
・明治37〜38/1904〜1905年の日露戦争の際、日清の協同工作に尽くし、その後、日本興業銀行副総裁、南満洲鉄道理事、報徳銀行頭取を務めた。
・大正14/1925年、没、享年62歳。

<『坂の上の雲』の中の「佃一予」>

・「佃はよほど青年の文学熱がきらいだったらしく、明治30年ごろ、常盤会寄宿舎の蔵書のなかに、子規のやっている俳句雑誌『ホトトギス』や小説本などがまじっているというので大さわぎをして、監督-内藤鳴雪を攻撃し、窮地に追い込んだ」。(小説『坂の上の雲』)

<「鳴雪自叙伝」の中の「佃一予」>

・常盤会寄宿舎の二代目監督を務めた内藤鳴雪は、その自叙伝の中で、常盤会から世に出た人物三人のうちの一人に、佃一予を挙げているだけで、それ以外に「佃」の記述は見当たらない。残りの二人は、正岡子規と勝田主計である。つまり、明治30年ごろ、佃に攻撃されて困ったみたいなことは語ってはいない。ちなみに、佃一予の実兄が「山路一遊」で、鳴雪の長女は一遊に嫁いでいる。



初代日本興業銀行

11

中村 時雄
(なかむら ときお)
(なかむら ときお)
<中村時雄の歴史>


・中村時雄=昭和後期〜平成初期の地方政治家、衆議院議員、松山市長。
・大正4/1915年生まれ。松山商業を中退してブラジルに移民する。帰国後、中国に渡り、昭和18/1943年、北京大学農学院を卒業。戦後は、農相秘書官を務めた。
・昭和28/1953年、社会党(右派)から衆議院議員に当選、後、民社党に移り、通算5回当選し、農政全般や離島振興法の制定などに尽力した。
・昭和50/1975年、松山市長に初当選、以来、第21〜24代の4期連続で当選する。
・昭和60/1985年、第18代全国市長会の会長となり、3期務めた。
・平成13/2001年、没、享年86歳。
・子息は、中村時広(前、松山市長、現、愛媛県知事)。

<松山市長時代の実績>

・「時さん」の愛称で親しまれ、松山市と米国・サクラメント市やドイツ・フライブルク市との姉妹都市提携にも力を注いだ。また、松山市の西郊外の小高い山に「松山総合公園」を整備し、山上に欧州の城郭を模した展望台を建てた。









中村時雄の肖像


松山総合公園展望台
松山市朝日ヶ丘

12

久松 定謨
(ひさまつ さだこと)
(ひさまつ さだこと)
<久松定謨の歴史>


・久松定謨
旧松山藩/松平久松家-第15代当主、陸軍中将(伯爵)、フランス公使館附武官。
・慶応3/1867年、旗本-松平勝実と池田長休の娘の三男として生まれる(定謨の出自については諸説あり)。旧名:e三郎。室-貞子は、第12代薩摩藩主-島津忠義の娘。

・明治5/1872年、第14代松山藩主-松平定昭が逝去し、その遺言によって家督を相続する。
・明治16/1883年、久松家は、当主の定謨(当時、16歳)を、フランスのサン・シール陸軍士官学校に留学させることにし、この時、お世話役-随行員(当時は、「補導役」と言っていた)として、加藤拓川(本名:恒忠)が、定謨とともにフランスに渡ることになった。この年の7月、久松家の単独出資により、在京の旧藩士の子弟たちの学費援助組織として「常盤会」が創設された。
・明治17/1884年1月、久松定謨と加藤拓川がフランスに到着。 この年の7月、定謨は明治の華族制度の中で、正式に伯爵位を授与され、華族に列せられた。
・同年、7月、常盤会の給費生の選抜が行われ、正岡子規や秋山真之が、創設されたばかりの第一期給費生に選ばれた。
・明治19/1886年6月、加藤拓川が日本の外務省の正式の外交官に任用され、そのままパリの日本公使館に勤務することになった。そのため、定謨の補導役が別に必要となり、久松家は秋山好古にそれを依頼し、好古は承託した。
明治20/1887年9月、好古はフランスに到着した。
10月、定謨は、サン・シール陸軍士官学校に正規に入学した。
・明治22/1889年、8月、同校歩兵科を卒業し、陸軍歩兵少尉に任官(定謨は、日本の陸軍士官学校卒業していないが、士官生徒第11期に相当)された。
・明治23/1890年1〜12月まで、私費留学として、フランス陸軍のツール歩兵第66連隊に所属して訓練を受けた。
・明治24/1891年、フランスから帰国し、近衛歩兵第2連隊附を命ぜられる。
・明治28/1895年、中尉に進級し、北白川宮能久親王が師団長を務める近衛師団副官を命ぜられる。同年、4月に台湾征討に出征し、11月に帰還する。
・明治29/1896年3月、近衛歩兵第2連隊附の身分でロシア出張を命ぜられ、8月、小松宮彰仁親王附武官を命ぜられる。
・明治30/1897年、参謀本部出仕を兼任。同年、大尉に進級し、近衛歩兵第2連隊中隊長を拝命する。
・明治35/1902年、6月、参謀本部員、8月、フランス公使館附武官代理、9月、フランス公使館附武官心得になる。
・明治36/1903年11月、少佐進級、同時に、正式な駐在武官に昇格する。
・明治39/1906年、1月、参謀本部附仰付。8月、フランスから帰国する。
・明治40/1907年、7月、歩兵第3連隊大隊長を命ぜられる。11月、中佐に進級、歩兵第3連隊附となる。
・明治44/1911年、9月、大佐に進級、歩兵第3連隊長に就任。
・大正3/1914年、5月、近衛歩兵第1連隊長に移る。
・大正5/1916年、8月、陸軍少将に進級、歩兵第5旅団長に就任。
・大正6/1917年、8月、歩兵第1旅団長。
・大正9/1920年、8月、待命となり、陸軍中将に進級、12月、予備役編入となる。
・大正11/1922年、松山市に久松家別邸「萬翠荘」を建設(現、愛媛県美術館分館)。
・昭和18/1943年、薨去、享年
77歳。
長男の久松定武は、貴族院議員・参議院議員を経て、昭和20/1945年から愛媛県知事を5期20年務めた。定武の子-定成は元愛媛大学農学部教授で靖国神社崇敬奉賛会会長を勤めている。



久松定謨の肖像


定謨が建てた萬翠荘
松山市一番町


松平久松家の墓所
松山市味酒町
大林寺


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久松 定武
(ひさまつ さだたけ)
(ひさまつ さだたけ)
<久松定武の歴史>


・久松定武=昭和期の政治家、貴族院議員、参議院議員、愛媛県知事、第17代久松家当主(伯爵)。
・明治32/1899年、東京都港区芝公園の久松家本邸において、旧伊予松山藩主-久松定謨伯爵の次男として生まれる。
・明治39/1906年、学習院初等科へ入学。同級生に、旧一橋家12代当主-徳川宗敬、近衛秀麿(近衛文麿異母弟)などがいる。
・大正9/1920年、東京帝国大学経済学部へ入学。
・大正12/1923年、同校を卒業し、、同13/1924年、三菱銀行入行。
・大正14/1925年、旧小倉藩主-小笠原長幹の次女-春枝と結婚。
・大正15/1926年、長男、定成誕生。後、第17代当主-久松定成となる。
・昭和6/1931年、ロンドン支店勤務となり渡英する。昭和9/1934年、帰国。
・帰国後、昭和17/1942年、三菱銀行を退社。退社後は、松山で農園を経営する。その後、財団法人久松家育英会を経営するとともに、農業報国会愛媛県支部顧問や四国農産興業社長などを務める。
・昭和18/1943年、父-定謨が77歳で薨去し、松山市の大林寺へ埋葬される。定武が伯爵の爵位を継承する。
・昭和19/1944年、貴族院議員の互選により、貴族院議員となる。
・昭和22/1947年、第1回参議院議員通常選挙で参議院議員に当選。
・昭和26/1951年、参議院議員を辞職し愛媛県知事選挙(第2回公選)に立候補し当選する。昭和46/1971年まで、5期20年務める。
・昭和44/1969年、勲二等旭日重光章、同51/1976年、県功労賞、同52/1977年、松山市名誉市民の称号を贈られる。
・昭和46年に県知事退任後は、県美術会会長、郵便貯金預金者の会中央連合会理事などを務めた。
・平成7/1995年、没、享年97歳。墓所は、松山市味酒町の大林寺にある。


<「ポンジュース」の命名>

「ポンジュース」の名付け親は、久松定武(当時愛媛県知事)である。発売当時の宣伝ポスターには「日本で生まれて世界に輝くポンジュース」とうたっており、日本一のジュースになるようにとの願いを込めてつけられたもので、「ポン」は「日本(ニッポン)一」のポンから取ったものである。
・昭和28/1953年に、「ポン」のローマ字表記は「PON」から「POM」へと変わった。ポン(POM)は、文旦pomelo(ポメロ)や果樹園芸学、果樹栽培法のpomelogy(ポメロギイ)など、柑橘に縁の深い名前が多いこともあり、「POM」の表記になった。
・また、「ポンジュース」と名付けた理由には、実は他の説もる。名付け親の久松氏はフランスに住んでいたことがあり、フランス語のあいさつ「ボンジュール」(おはよう、こんにちは)の 「ボン」の響きにも似ているのでよいということで名付けたのだとか。



久松定武の肖像


ポンジュースの広告

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藤野 政高
(ふじの まさたか)
(ふじの まさたか)
<藤野政高の歴史>


・藤野政高=明治〜大正期の政治家、衆議院議員、政友会愛媛支部代表、愛媛県会議長、海南新聞(愛媛新聞)社長。
・安政3/1856年-大正4/1915年、政治家。
・自由民権運動に参加し、明治14/1881年、松山自由党を結成。
・明治20/1887年、大同団結運動下の三大事件建白者総代として上京。
・明治23/1890年、衆議院議員(当選3回/自由党)。
・後、政友会愛媛支部の代表、海南新聞(愛媛新聞の前身)の社長、愛媛県会議長などをを歴任。
・明治42/1909年、三津浜築港疑獄事件の首謀者として逮捕され、政界を引退。
・大正4/1915年、没、享年60歳。墓所は、松山市鷺谷町の鷺谷墓地にある。

<愛媛の自由民権運動>

・日本における自由民権運動は、明治6/1873年に、政変で下野した板垣退助ら四参議が、翌7/1874年1月に「民撰議院設立建白書」を左院に提出したことから始まった。これは、大久保利通政権下の有司専制政治を克服し、民選議院の開設により士族・上流平民に政治的発言を認めさせようとする運動であった。
・愛媛の民権運動は、長屋忠明らによって先鞭をつけられた。彼らの民権結社「公共社」は、明治10/1877年に、「人民ノ権利ヲ鞏固こし、人心開化を旨として組織された」もので、「愛国社」に加盟して全国民権結社につらなるとともに、海南新聞の発行などを通じて県内民権運動に大きな影響を及ぼした。
・明治14/1881年に国会開設の詔が出されると、自由党や改進党が生まれ、本県においても、長屋らに代わる藤野政高・白川福儀らの若い指導者が、公共社政談部を廃して、松山自由党を発足させた。しかし、その間に開明県令-岩村高俊が離県し、明治13/1880年制定の「集会条例」などによる政党への圧迫が強化されたため、経営難となった公共社及びそれに依存した松山自由党は、同15/1882年に解散を余儀なくされた。その後、長屋・藤野らは海南協同会をつくり、国会開設に備えて板垣退助を招くなど幅広い活動を進めたが、これまた資金難と会員の不熱心さから、自由党解党の翌明治18/1885年に解散した。

<三津浜築港疑獄事件>

・明治30年代、伊予鉄道の主導で高浜築港が推進、その動きに古くより港によって繁栄してきた三津浜町は危機感を強めた。隣接する高浜に新港ができれば三津浜港は衰退する。高浜に対抗するためには、三津浜港を近代的な設備の港に大改修しなければならない。町の命運はこの三津浜築港にかかっている、当時の三津浜町はそう認識したのである。
・高浜築港を進める伊予鉄道の社長-井上要は、進歩党の議員でもあった。三津浜町は、進歩党の対立政党である政友会の藤野政高に接近、町をあげて政友会に加盟する代わりに同会は三津浜築港を全面支援するという約束がなされた。当時の県政界は政友会・進歩党の対立が激しく、三津浜築港は政党間の対立をも巻きこんだ問題となった。三津浜は政友会の港、高浜は進歩党の港、世人はそう評するようになった。
・愛媛県知事-安藤謙介は、政友会寄りであったことから、事態は三津浜に有利に動いた。明治41/908年5月の臨時県会に、安藤知事は三津浜築港費92万円余を含む2ヵ年継続土木事業案を提出、井上要ら進歩党はこれを不急の事業として猛反対したが、政友会が多数を占めるなか可決された。この事業が実施されれば大型汽船の接岸が可能な大三津浜港が実現すると三津浜に歓喜の声が上がった。県知事-安藤謙介、政友会の領袖・藤野政高は三津浜では英雄であった。町民念願の三津浜築港起工式は、明治42/1909年7月13日と決まった。



藤野政高の墓
松山市鷺谷町
鷺谷墓地






みんなで安心・安全な国造りを!!