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社会産業


伊佐庭 如矢
(いさにわ ゆきや)
井関 邦三郎
(いせき くにさぶろう)
石崎 庄兵衛
(いしざき しょうべえ)
石崎 平八郎
(いしざき へいはちろう)
石崎 兵太郎
(いしざき へいたろう)
一遍 上人
(いっぺん しょうにん)
井上 要
(いのうえ かなめ)
大川 文蔵
(おおかわ ぶんぞう)
岡田 十五郎
(おかだ じゅうごろう)
岡部 仁左衛門
(おかべ にざえもん)
奥平 貞幹
(おくだいら さだもと)
鍵谷 カナ
(かぎや かな)
勝田 銀次郎
(かつた ぎんじろう)
菊屋 新助
(きくや しんすけ)
義農 作兵衛
(ぎのう さくべえ)
桐野 忠兵衛
(きりの ちゅうべえ)
河野 兵市
(こうの ひょういち)
小林 信近
(こばやし のぶちか)
近藤 元久
(こんどう もとひさ)
酒井 黙禅
(さかい もくぜん)
坪内 寿夫
(つぼうち ひさお)
新田 長次郎
(にった ちょうじろう)
服部 嘉陳
(はっとり よしのぶ)
藤岡 勘左衛門
(ふじおか かんざえもん)
藤野  漸
(ふじの すすむ)
藤野 正啓
(ふじの まさひろ)
森 盲天外
(もり もうてんがい)
山下 亀三郎
(やました かめさぶろう)
和田 重次郎
(わだ じゅうじろう)


社 会・産 業


伊佐庭 如矢
(いさにわ ゆきや)
(いさにわ ゆきや)
<伊佐庭如矢の歴史>

・伊佐庭如矢=幕末〜明治期の教育者、事業家、政治家。
文政11/1828年、伊予国道後の町医者-成川国雄の三男として生まれた。本名:如矢(ゆきや)、通称:斧右衛門、号:碧梧桐(へきごとう)
・成川家は、祖父が土佐から松山にやってきて松山藩に出仕し医療に携わり、和歌に造詣が深く弟子を多く持っていた家柄であった。如矢は家庭環境に恵まれ、勉学に勤め塾に行くこともなく育った。阿部家に養子として入った
・松山藩士-菅良弼に仕え、弘化元/1844年、16歳の時、阿部家の養子に入った。
・弘化4/1847年、19歳の時、で阿部家の娘-射狭
(いさ)と結婚する。
・安政3/1856年、28歳の時、「老媒下塾
(ろうばいかじゅく)」という私塾を開き、京都東寺住職-大教真言宗長者、長谷寺55世-高志大了(たかしだいりょう)、漢学者-井手正麟(いでせいりん)などを輩出した。
・明治元/1868年、阿部家を息子に譲り、平民となって伊佐庭を名乗る。
・明治2/1869年、松山藩の役人になり、同5/1872年、石鉄県となったのを機会に、役人として吏員生活に入り、老媒下塾を閉じる。
・明治6/1873年、加藤嘉明によって築城され、300年の歴史を持つ名城-松山城を、城山公園として保存するよう働きかけ成功する。
・明治10/1877年、前年に、香川県が愛媛県の管轄になるを機に、高松支庁長になる。同15/1882年、山田香川郡長、同16/1883年、愛媛県立高松中学校長を兼任する。
・明治19/1886年、金刀比羅宮の禰宜
(ねぎ)になり、お供方(おともかた)の習慣を一時金をもって廃止し、財政再建をした。
・明治23/1890年、道後湯之町の初代町長に就任し、道後湯之町の振興策として、道後温泉本館の建設、道後鉄道の敷設とともに、道後公園の整備を推進し、今日の道後の隆盛の基礎を築いた。
・明治25/1892年、養生湯落成、同27/1894年、道後温泉本館落成、同28/1895年、道後鉄道開通。
・明治31/1898年に、伊佐庭町長と助役が道後公園事業管理常置委員に任命され、県に代わって事業管理に当り、荒れていた湯築城址を、一大回遊式日本庭園として大改修した。明治32/1899年、道後温泉本館に「又新殿」落成。
・明治35/1902年、3期12年勤めた町長を勇退した。
・明治40/1907年、没、享年80歳。墓所は、松山市鷺谷町の鷺谷墓地にある。

<如矢の道後温泉本館の改築>

・明治23/1890年、道後湯之町の初代町長として伊佐庭如矢が就任した。この頃の町の最大の懸案は、老朽化していた道後温泉の改築であった。如矢は、町長就任に際して自らは無給とし、その給料分を温泉の改築費用に充てることとした。総工費は、13万5千円(一説では、現在の金額で約13億円位といわれている)であった。当時の小学校教員の初任給が8円といわれた時代で、あまりに膨大な予算に町民は驚き、 町の財政が傾きかねない無謀な投資だと非難が渦巻いた。反対運動は激しさを増し、如矢はが命の危険を感じるほどであったが、だが、「この道後温泉が100年たっても真似の出来ない物を造ってこそ意味がある。人が集まれば町が潤い、百姓や職人の暮らしも良くなる」と、決定を貫き通し、誠心誠意をもって町民を説得して、この偉大な事業を完成させた。




伊佐庭如矢の肖像


伊佐庭如矢の銅像
松山市道後湯之町-本館東


伊佐庭如矢の墓
松山市鷺谷町
鷺谷墓地



井関 邦三郎
(いせき くにさぶろう)
(いせき くにさぶろう)
<井関邦三郎の歴史>

・井関邦三郎=大正〜昭和期の実業家、総合農機メーカー「井関」の創設者。
・明治32/1899年、北宇和郡三間村務田(現、宇和島市三間町)において、農家の次男として生まれる。
・大正8/1919年、郷里の三間村において、松山の大野商店の除草機の販売を始める。
・大正13/1924年、同所において、大野式除草機などの製造を開始し、井関農具製作所と称する。
・大正15/1926年、松山市新玉町(現、松山市湊町)に工場を移転し、井関農具商会と改称。高性能の全自動籾すり機の製造・販売を始める。
・昭和6/1931年、株式会社井関製作所と改称。
・昭和8/1933年、大阪市にあった吉田工業部と共同出資し、大阪市大今里町に東洋農機合名会社(後、株式会社)を設立。発動機や籾すり機の製造・販売を行う。
・昭和11/1936年、東洋農機(株)を解散し、井関農機株式会社を設立。ヰセキ式籾すり機などの製造・販売を始める。
・昭和23/1948年、松山市商工会議所会頭、同27/1952年、愛媛県工業クラブ会長、同28/1953年、愛媛県経営者協会会長を歴任。
・昭和34/1959年、済美学園理事長に就任。
・昭和45/1970年、没、享年71歳。

<井関邦三郎記念館>

・井関邦三郎記念館は、邦三郎の出身地である愛媛県の米どころ、旧三間町(現、宇和島市三間町)にある。
・この記念館には、
邦三郎が開発した農業機械のほかに、邦三郎の歩みを紹介するパネルや邦三郎の生家と井関農具製作所復元模型などが展示されている。
・展示された農業機械からは、「農業に携わる人々を過酷な労働から開放したい」という信念を持った邦三郎の強い思いが伝わってくるいう。





井関邦三郎の肖像画
宇和島市三間町
井関邦三郎記念館


井関邦三郎の銅像
宇和島市三間町
三間支所



石崎 庄兵衛
(いしざき しょうべえ)
(いしざき しょうべえ)
<石崎庄兵衛の歴史>

・石崎庄兵衛=江戸時代末期の松山藩御用達の廻船問屋、石崎汽船の創業者。
・生誕年不詳、
和気郡新浜村(現、松山市新浜町)に生まれる。
・文久2/1862年、庄兵衛は、松山藩に大型の帆船を購入したいと借金を申し出て、藩からは庄兵衛の希望通りの大金を借用でき、藩御用達の廻船問屋として、屋号○一を旗めかせた庄兵衛の帆船は、藩御用の廻船問屋になり、上方から江戸、奥羽方面までの物資輸送に活躍し、大きく飛躍し隆盛を極めた。
・元治元/1864年、一族の長として、ひたすら海運に精魂を傾けていた庄兵衛は、こころざし半ばにして病に倒れ世を去った。

<石崎庄兵衛一代記>(「石崎汽船史・海に生きる」要約)

・嘉永6/1853年6月、ペリー率いる黒船の来航は、日本中を仰天させた。その5年後の安政5/1858年、日米通商条約を結んだことから、幕府は、神奈川・長崎・函館を開港し、遂に、瀬戸内海にも黒船が姿を現すことになった。
・安政6/1859年、黒船が興居島沖を通過、さらに万延元18560年にも興居島に黒船が現れた。そして文久元/1861年7月23日、三津浜は大騒ぎになった。噂の黒船が三津浜沖に泊まったのである。遠巻きに見物する人が押し寄せ、藩は役人を出勤させて警護に当たった。三津浜の町は一晩中大騒ぎであったが、翌朝、黒船は悠々と出帆して行った。黒船はイギリスの商船(45m 程度)で、興居島の西を通過しようとしたが、潮が悪く三津浜に立ち寄ったものであった。
・文久2/1862年、某月某日、伊予国和気郡新浜村に近い三津浜から船出した一隻の大帆船は、そのまま進路を北東にとり、力強い引き波を残して島陰に消えた。帆柱にはためく「」の屋号が鮮烈であった。舳先にには、腕を組んだまま仁王立ちする新浜村・庄兵衛の姿があった。
・庄兵衛は、父・市兵衛の子として新浜村に生まれる。新浜と興居島との間にある水道を往来する帆船を、物心ついたときから眺めて育った庄兵衛の夢は、水主の長になることであった。
・成長するにつれ、庄兵衛はこと船舶にかけては非凡な才能がみられた。商港として賑わう三津浜は、才能を磨く絶好の環境であった。庄兵衛の海事全般にわたる造詣の深さは、松山藩の主だった家臣にも知れるところとなり、その信用度を増していき、やがて藩から借金もできるようになり、帆船を入手した。小さいながら念願の廻船業を興したのであった。
・(中略)
・庄兵衛の今日でいう海運業は、とどまるところを知らず、北前船に対抗するがごとく、上方はもとより、遠くは江戸から奥羽方面にまで足を延ばした。「」の印は、港々で伊予の帆船と知れ渡り、その業績は松山藩の覚えめでたく、藩米の輸送を委託されるまでになっていた。
・ひたすら藩のため、また自ら興した廻船問屋繁昌にために心血を注いだ庄兵衛も、
元治元/1864年、この世を去った。石崎汽船の創始者・庄兵衛は、興居島村泊の菩提寺である弘正寺に葬られた。
・歴史が大きくうねる中で、庄兵衛は決然と船出した。「」は、古の「水軍」由来の屋号。庄兵衛の大いなる決意を表していたのであった。



石崎汽船の引札


庄兵衛の墓がある弘正寺
松山市興居島・泊


石崎 平八郎
(いしざき へいはちろう)
(いしざき へいはちろう)
<石崎平八郎の歴史>

・石崎平八郎=江戸末期〜大正初期の廻船問屋、石崎運送店/汽船会社の創業者。
・天保9/1838年、石崎庄兵衛の二男として生まれる。
・平八郎は、十代の頃から船乗りとして稼業に精励していた。庄兵衛の意志を継いだ石崎一族は、家業の廻船問屋を守り続け、次々に帆船を建造し、明治維新まで、藩御用達の重責を果たした。

・万延元/1860年頃、既に独立して三津浜で廻船業を営む。
・明治5/1872年、34歳の頃、三津浜に蒸気船が寄港するようになり、帆船の時代の終わりを悟った平八郎は、自前の蒸気船で「三津浜〜大阪航路を開きたい」と決意し、同年の暮兵庫に出向き、蒸気船の新造を注文した。
・明治6/1873年7月、発注した新造船「天貴丸」が出来上がった。船は木造で-64t、購入価格 9,500円、旅客定員は130人程度であった。天貴丸は、受け取った7月に、三津浜〜大阪航路に就航、多度津・神戸に寄港した。愛媛県下で最初の旅客船であり、平八郎は意気揚々であった。
・最新式の蒸気船-天貴丸であったが、船員の技術が未熟であったため、航海ごとに故障する状態で、部品を取り寄せたり、技術者を呼んだりするのに時間がかかり、定期運航が出来ないことが頻繁に発生し、翌、明治7/1874年10月、天貴丸は尾道の会社へ売却された。そして、平八郎は、先代からの貨物運送業と汽船取扱問屋を営むことになり、持船は、慶応元/1868年に建造した帆船のみとなった。その後、天貴丸は、八島丸と改名されて、大阪〜尾道間に就航していた。なお、明治6〜7年にかけて、松山の栗田与三らが和合船を所有し、三津浜〜大阪間に就航させた。
・明治9/1876年、平八郎は、松山〜大阪間に旅客航路を開き、三津浜で旅客船業「石崎廻漕店」を創業した。
明治10/1877年に西南の役が始まると、兵士や軍需物資の輸送で、海運業界は異常な発展を遂げた。その後も新船主の続出、航路網の拡充に伴い、貨物・お客の争奪が激化し、海運業界は混乱を極めた。この事態を収拾するため、住友の広瀬宰相平が中心となって斡旋し、明治17/1884年に、大阪商船会社が設立された。
・瀬戸内の汽船業の活況に伴い、新規開業航路として三津浜〜広島(宇品)航路に着眼した平八郎は、明治23/1890年11月29日、三津浜・音戸・鍋・吉浦を経て宇品に至る芸予航路を開設した。就航船は、他社から借り入れた「函洋丸」35tであった。
・平八郎の芸予航路の開設に衝撃を受けた広島汽船会社は、函洋丸の就航の4日後の12月2日、全く同じ航路に旅客船を就航させた。平八郎は運賃競争を開始した。持船が一隻では不利なため、翌、明治24/1891年2月に、木造蒸気船「第一相生丸」43tを購入し、2隻で対応した。競争は次第に激化し、三津浜〜宇品間30銭の運賃が、わずか5厘にまで値下げされる状態であった。
・このような、芸予航路の激しい競争を見かねた同業者が仲裁に入り、明治26/1893年12月、「三津浜-宇品間航海日数を、石崎18日、広島12日、運賃40銭として運航」という協定が成立し、競争は終止符を打った。
・平八郎は、明治25/1892年に「第二相生丸」、同27/1894年に「第三相生丸」を建造し、経営基盤を固めて他社の挑んできた航路争奪戦に打ち勝っていった。
・明治30/1897年、平八郎も60歳となり、石崎運送店の当主を、長男の兵太郎に譲り、隠居の身となった。平八郎は、隠居後も地域の相談役ととして活躍した。
・大正8/1919年、没、享年81歳。



石崎平八郎の肖像


石崎汽船の引札


明治の石崎汽船の社屋
現、松山市三津二丁目14-8
(現存せず)


石崎 兵太郎
(いしざき へいたろう)
(いしざき へいたろう)
<石崎兵太郎の歴史>

・石崎兵太郎=明治期〜昭和初期の海運業者、石崎汽船株式会社の創設者。
・万延元/1860年石崎平八郎の長男として、和気郡三津浜村に生まれる。
・石崎運送店の二代目当主になった石崎兵太郎は、苦しい経営の中で新戦略を練り、明治36/1903年、新たな航路として三津浜〜尾道航路を開設した。この航路は、途中、各港に寄港する島伝えの航路であったが、きわめて好評であった。
・大正7/1918年、兵太郎は、時代の流れに沿い、石崎汽船株式会社を設立し、初代社長に就任した。

<石崎汽船/元本社ビル>

・大正13/1926年12月、石崎汽船の本社ビルが松山市三津一丁目に完成した。鉄筋コンクリート造り2階建て(一部3階建て)、総面積1,310u。1階が天井の高い事務室、大理石張りのカウンターを備えている。2階は役員室として使われていた。大正時代には、職住一体型の店が多かったが、このビルは、住を排除した本格的なオフィスビルで、設計は、萬翠荘(国指定重要文化財)や愛媛県庁舎庁を設計した木子七郎で、自ら施工監督にあたった。鉄筋コンクリート造の先駆け的な建物で、前年の関東大震災を教訓にして耐震性、防火性に気を配っているのが特色。主な装飾品はすべて大阪で調達したといわれている。総工費、38,366円で、今の価格にして5億円を超えている。上棟式当日の業界紙には「三津浜港頭に聳える巨閣石崎汽船部」の見出しがつき、「竣工の暁は地方稀にみる宏荘な建物とし三津浜頭に美観を添へるであろう」と表現している。建築当時は、目前に船着場があり、このビル屋上から港に出入りする船を眺めることができた。松山市の海の玄関口・三津浜港に寄港する船は、この建物がランドマークになったという。
・平成13/2001年4月、登録有形文化財に指定された。平成25/2013年6月末まで、石崎汽船本社として使われてきたが、同年7月からは、本社が松山市高浜町五丁目にある松山観光港ターミナルビル内に移転した。文化財の建物は、今後、書庫として引き続き石崎汽船が管理していくようである。



石崎兵太郎の肖像


石崎汽船/元・本社ビル
松山市三津一丁目


一遍 上人
(いっぺん しょうにん)
(いっぺん しょうにん)
<一遍上人の歴史>

・一遍上人=鎌倉時代中期の僧侶、時宗の開祖。
延応元/1239年、伊予国道後の奥谷にある宝厳寺の一角において、伊予国の豪族-河野通広(河野通信の孫)の二男として生まれる。幼名:松寿丸。
・宝冶3/1249年、10歳のとき母が没すると、父の勧めで天台宗-継教寺で出家する。法名:随縁。
・建長3/1251年、13歳になると、大宰府に移り法然の孫弟子に当たる聖達の下で10年以上にわたり浄土宗西山義
(せいざんぎ)を学ぶ。この時の法名:智真。
・弘長3/1263年、25歳の時、父の死をきっかけに還俗して伊予に帰る。
・文永8/1271年、一族の所領争いなどが原因で、32歳で再び出家、信濃国善光寺、伊予国岩屋寺で修行して、十一不二
(じゅういちふじ)の偈(さとり)を感得する。
・文永11/1274年に、摂津国四天王寺、紀伊国高野山などで修行、六字名号
(ろくじみょうごう=南無阿弥陀仏)を記した念仏札を配り始める。
・紀伊国において、とある念僧
(ねんそう)に、念仏札の受け取りを拒否され大いに悩むが、参籠した熊野本宮で、阿弥陀如来の垂迹身(すいじゃくしん=神という仮の姿)とされる熊野権現から、衆生済度(しゅじょうさいど=生きているものすべてを迷いの中から救済し、悟りを得させること)のため「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」との夢告(むこく=夢の中での神仏のお告げ)を受け、この時から「一遍」と称し、「念仏札」の文字に、「決定往生(けつじょうおうじょう=かならず極楽に往生すること)六十万人」と追加した。
・一遍は、念仏札を配りながら各地を行脚するうちに、弘安2/1279年、信濃国で「踊り念仏」を始める。
・正応2/1289、死地を求めて教信の墓のある播磨印南野(兵庫県加古川市)の教信寺を再訪する途中で、摂津兵庫津の観音堂(後の真光寺)で没した。享年51歳。墓所は、神戸市兵庫区の真光寺にある。

・元弘4/1334年に、宝厳寺総門の前(現、山門の前)に、得能通綱によって「一遍上人御誕生舊跡」の石碑が建てられた。

<時宗教団と時宗>

・一遍の門弟には、『一遍聖絵』を遺した異母弟「聖戒」や2歳年上の「他阿(たあ)(真教)」らがいる。現在の時宗教団は一遍を宗祖とするが、宗として正式に成立したのは江戸幕府の政策による。一遍には開宗の意図はなかったし、八宗体制下でそれが認められるはずもなかった。近世期には、本来は別系統であったと考えられる一向俊聖や国阿らの法系が吸収されており、空也を仰ぐ寺院が時宗とみなされていた例もある。制度的な面からみれば、時宗の実質的開祖は他阿真教ということもできる。一遍の死後、自然解散した時宗を他阿が再編成したのが起源である。




宝厳寺にあった一遍立像
(現存あしない)


宝厳寺山門
松山市道後湯月町


一遍聖絵
「道後温泉と湯釜」



井上 要
(いのうえ かなめ)
(いのうえ かなめ)
<井上要の歴史>

井上要=明治〜昭和初期の実業家、政治家、伊予鉄道の社長、衆議院議員
・慶応元/1865
年、喜多郡菅田村(現、大洲市菅田)の庄屋-有友家の長男として生まれたが、姉婿が家を継ぎ、井上は、士族の井上家の養子となった。
井上は、少年時代から学問に志を抱いていたが、病弱だったこともあり、地元の共済中学校(現、大洲高校)に入ったが、中途退学した。
・明治13/1880年、15歳の時、
宇和島の明達書院という漢学塾に入った。この塾を開いた鈴村譲は、明治の新政府の政策に批判を持ち、西南戦争(明治10/1877年)の折りに、薩摩に通じて反政府の兵を挙げようと画策し、事前に露見して懲役に復したが減刑され、出獄した直後であった。
・明治15/1882年、17歳になった井上は、鈴村譲の紹介で上京して丸山作楽の塾に入った。次いで岡松甍谷の塾に通い、明治法律学校へ入学の準備をしていたが、病に倒れ数か月の在京に終わった。
・井上は、しばらく故郷で養生していたが、尊敬する師である鈴村譲が、松山へ出て「海南塾」を開いていたので、要も道後温泉で養生しながら塾に顔を出し、独学で法律の勉強をすることになった。後、地元や東京の漢学塾で学び、法律学を独習して代言人(弁護士)の資格をとった。
・明治20/1887年、伊予鉄道会社の設立に関わり、以後、会社の経営に携わった。

・明治35年、衆議院議員(当選3回、憲政党)。

・明治39年、伊予鉄道の社長となり、伊予水力電気、松山電気軌道などを合併。松山商工会議所会頭などを歴任し、松山高商(現松山商大)の創立にも尽力した。
・昭和5/1930年、実業界、政界から引退する。
昭和8/1933年、設立運営の舞台裏を記した「北予中学(現、県立松山北高校)、松山高商(現、松山大学)楽屋ばなし」と題する小冊子を出版した。
昭和10/1935年5
月、愛媛県に県立図書館がないことを心配し、伊予鉄道を退職する際の退職金で図書館を建て、愛媛県に寄付した。
・昭和18/1943年、没、享年78歳。墓所は、松山市末広町の正宗寺にある。

<井上要翁頌徳碑>(松山市・梅津寺公園前)
            井 上 要 翁 頌 徳 碑
 俊敏な性格を持ち、識見も高く、政治にも優れた手腕を持っていた。多くの人に推薦されて県会の首班となり、その後代議士選に選出されること3度。さらに、伊予電気鉄道株式会社社長となり、経営の才覚を発揮、会社は栄えた。また、井上は、教育にも力を注ぎ、現在の松山北高等学校や松山大学の創立や経営に関わった。さらに井上は、愛媛県に県立図書館がないことを心配し、伊予鉄を退職する際に受ける巨額の退職金で図書館を建て、1935(昭和10)年5月、これを県に寄付した。
 井上は、高い地位に就くことを望まず、専ら故郷の発展に力を貸すことに終始した立派な人物であった。それ故、ここに記念碑を建て、その功績をいつまでも伝えることとする。
                         友人蘇峯徳富丕敬書




井上要の肖像


井上要の銅像
松山市文京町
松山北高校



井上要頌徳碑
松山市梅津寺町
伊予鉄梅津寺駅



大川 文蔵

(おおかわ ぶんぞう)
(おおかわ ぶんぞう)
<大川文蔵の歴史>

・大川文蔵=生没年不詳。江戸時代中期における伊予国西条・松山藩士。西条藩の鴨川・松山藩の湯山川(現、石手川)の洪水対策を実施。
和気・温泉・伊予各郡の農業の用水源である石手川は、大雨に合うと堤防が破壊され、松山城下町とその近郊の農村に甚大な被害を与えた。
・延宝元/1673及び享保2/1717年の洪水には、流水家屋が多く、すくなからぬ死者を出した。
・特に享保6/1721年7月には、石手川の河床上昇による大洪水で堤防が決壊し、松山城下は、流出家屋889軒・死者72人・山崩れ29,220箇所の被害が起こり、田畑の被害は甚大でその面積は3,716町歩、石高にして35,065石に達したため、松平家第5代藩主・
定英は、藩として非常事態を警告し、禄高100石について10人の人夫を出させ、農・町人からは2万人を動員し、復旧対応に当たらせた。それは、石手川沿線は城下町ばかりでなく、流域が松山藩の穀倉地帯であったから藩としては放任出来なかった。
・藩は従来の川浚(かわざらえ=川の底にたまった土砂や汚物を取り除くこと)による一時的な間に合わせ策の効果のないのを知り,抜本的な大改修を断行することにした。
そこで藩では、享保2/1717年に松山藩士となっていた大川文蔵を抜擢して、末寄合大小姓の地位を与え、もっぱら石手川の大改修に当たらせた。
文蔵は西条にあって頻繁に氾濫を繰り返えしていた「鴨川」という川を改修した実績があり、その治水の知識と技術が買われたのである。

<大川文蔵の石手川の改修>

・大川文蔵が、享保8〜14/1723〜1729年に手がけた石手川の改修は、石手川氾濫の原因を土砂の流出・堆積による河底の浅いこと、かつ川幅が広大過ぎることによると考えた。そのため、@川幅を減じ水勢を高めることによって、河底を深くする。Aそれまであった河川の「鎌出し」(「鎌投げ」ともいう)を廃して、河身に直線的に突出する曲出しを採用することした。これは堤防から下流に向かって土塁を突出させ、さらにそれを直角に延ばして「曲出し」を造った。この工法は、流心を水の勢いで深くさせるとともに両岸に堆砂させ、堤防を護るというものである。構造は、川の流れに直角、わずか数度下流に向け、長さ50m・幅10mの突堤を両岸から出したものである。この「曲出し」は、洪水の際の護岸の役目と、河身の中央部における流水を急速にする目的を持つものであった。
・その結果、堤防は丈夫さを増し、大雨の時にもほとんど氾濫の災害を被ることがなくなった。彼の功績については,『本藩譜』のなかに「今に至り水損の憂なきは,偏に文蔵の功なりとぞ」と称賛している。

・石手川は、昭和になって大改修され、足立重信が石手川改修時に用いた工法「鎌投げ」は、松山市湯渡7丁目12の湯渡橋西北側堤防に現在唯一残っているのみであるが、大川文蔵の工法「曲出し」は、松山市末広町の正宗寺(子規堂)を南に歩くと、石手川にかかる末広橋上流に幾つもの突堤跡が残っている。



大川文蔵の曲げ出し跡
松山市拓川町
石手川土手



大川文蔵の曲げ出しの
イメージ図


岡田 十五郎
(おかだ じゅうごろう)
(おかだ じゅうごろう)
<岡田十五郎の歴史>

・岡田十五郎=江戸時代中期の農民、農業用の溜池の建設。
・寛政2/1790年、和気郡古三津村の農家に生れる。 
・十五郎は、30歳の時、村の組頭になってその自治に参与した。当時の古三津村は、百数十町歩の耕地を有し、戸数200戸に足らず一小村であったが、灌漑の便を欠いでいた。既存の長谷池・綛池の二養水池のみでは、到底充分に生産を上げる事が出来なかった。時に田植えの水に不足し、その全収穫を上納するも、なお不足すると云った窮状であり、そのため村民は、小売商、俗にいう荷籠商いを副業としていた。このままで推移すれば村は衰え、村民は離散の外はなかった。
・十五郎は、この苦境を打開し、村民をして永遠に安堵せしめんと決意し、それには是非ともこの百数十町歩の田をして充分に収穫あるように、その灌漑を便利にするのが急務であると考え、早速、この事を村民に計ったのであるが、此の案たるや、村民の中にも既に早くから云われていることであるが、年々の負債の上に甚大な築造経費を考えるときに、それは一層窮乏の淵に陥るとして、村民の関心は余りにも冷ややかで、寧ろ現状に甘んずるをもって賢明なりとした。
・文政3/1820年頃、松山地方はカンカン照りの日が続き、川の水も枯れ、田に引く水もなく稲作もできず、そこで十五郎は、久万の台の地(現、松山西高付近)に大堤防と溜池(新池)建設の綿密な計画案を立て、松山藩家老-菅五郎左衛門に、何度もねばり強く説明し実施するよう懇願した。十五郎の誠意が藩に通じ、遂に許可が下りたのである。請奉行-大川渡の直接指揮で、池づくりの大工事が始まった。文政3/1820年〜文政5/1822年の3年間の工事で遂に完成した。
安政元/1854年、、享年63歳。墓所は、松山市古三津二丁目・儀光寺

<岡田十五郎の頌徳碑>

・明治31/1898年、十五郎が建設した久万の台の新池の畔に、十五郎の頌徳碑が建立され、次いで大正10/1921年には、築堤百周年を記念して盛大な祭典を挙行され、併せて十五郎の伝記が編集さている。


<岡田十五郎神社>

・松山市古三津四丁目の久枝神社境内に、三津土地改良区の人たちが中心となって、岡田十五郎神社が建立されている。

・寛政2/1790年に、古三津村に生まれた十五郎は、連年の用水不足で年貢の上進にもこと欠く古三津村の窮状を憂い、私財を投じて久万ノ台に新池を築造した。
・十五郎は、安政元/1854年、没。この人物を神として祀った岡田十五郎神社は、久万ノ台新池築造170周年を記念して、平成4/1992年に建てられた。







岡田十五郎が作った新池
松山市久万の台


岡田十五郎の頌徳碑
松山市久万の台


岡田十五郎の墓
松山市古三津二丁目
儀光寺


岡田十五郎神社
松山市古三津四丁目
久枝神社

10

岡部 仁左衛門
(おかべ にざえもん)
(おかべ にざえもん)
<岡部仁左衛門の歴史>

・岡部仁左衛門=明治〜昭和における実業家、花かつお製造創始者。
・明治16/1883年、伊予郡尾崎村(現、伊予市)で生まれる。
・明治30/1897年、郡中村米湊(現、伊予市)で海産物商を営む。
・大正5/1916年、行商で名古屋に行き削り節を見つけ、地元での製造を思いつく。
・大正6/1917年、伊予市で、初めて「花かつお」を作り始める。
・大正7/1918年、「花かつお」の製造機械を電力で動くように改良し、「ヤマニ」の花かつおとして全国に売り出した。以後、「ヤマキ」「マルトモ」の工場も創設されて、現在、伊予市の「花かつお」は、全国一の生産量を誇っている。
・同年、岡部は、郡中村の村議会議員となる。
・昭和10/1935年、製造機械が100台になり、工員は300人となる。
・昭和21/1946年、郡中町長となる。
・昭和35/1960年、没、享年76歳。


<「花かつお」の歴史>

・「削り節」の起源は、大正2/1913年に福山市川口町の安部和助(明治19〜昭和37)が削り節機を発明したのが最初である。
・郡中の岡部仁左衛門が、これにヒントを得て創業したのが大正5/1916年、翌6/1917
年に城戸豊吉が創業、明関友市が翌7/1918年七年に創業している。
・郡中のこの三企業の敷地が隣接しており、三者が大正前期に相次いで創業し、この三者で全日本の削り節生産の約50%を占めていた。

・戦前は「郡中の花かつお」で知られていたが、郡中は昭和30/1955年に市制を施き伊予市となったので、郡中の文字が消えた。その後、昭和51/1976年から、農林大臣告示による品名規格で、原料名を表示することになり「削り節」に統一され、鰹節を原科とするものだけを「花かつお」と称する規定になった。
・なお、「花かつお」の「花」とは、薄片のことをいう。 



岡部仁左衛門の肖像


岡部仁左衛門の銅像
松伊予市郡中
黒住教郡中支部





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奥平 貞幹

(おくだいら さだもと)
(おくだいら さだもと)
<奥平貞幹の歴史>

・奥平貞幹=江戸時代末期〜明治初期の松山藩士、農政家。
・文化14/1817年、松山城下において、松山藩士の家に生まれる。:貞幹、通称:三左衛門、号:月窓。
・藩校明教館で朱子学を学ぶ。
・後、久万山・和気郡などの代官を歴任。周布・桑村郡の代官として、天保年間(文政13/1830〜天保14/1844年)に小松藩領との境界争論を解決し、さらにこの地方に水路を開き、農民に農耕灌漑の便を図った。また、久万山代官として、この地方の備荒貯蓄に努めた。
・嘉永年間(弘化5/1848〜嘉永6/1854年)に和気郡代官として殖産興業に尽した。
・嘉永4/1851年、温泉郡の税収減少に対する積極的な政策として、同郡別府・吉田両村の海岸地域を干潟し得ることに着目し、山西村の庄屋/一色儀十郎にこの事業を担当させ、安政5/1858年、およそ50町歩の「大可賀新田」を開くことができた。なお、この新田の名は、藩主松平勝成の命名による。
・慶応2/1866年の長州征伐の際には、薩摩及び長州両藩に使者となり、両者との交渉に当たった。そのときの征長に関する彼の秘録を「月窓之巻」とよぶ。
・明治15/1882年、没、享年65歳。
墓所は、松山市朝日ヶ丘の宝塔寺にある。

<「大可賀新田」の開発>

・「アイテムえひめ」北側の「大可賀新田記」碑(左)は、昭和46/1971)年(碑文は藤野正啓撰文、明治13/1881年)に、「大可賀新田起工五十年紀念」碑(右)、明治34/1901年に建立された。
・大可賀新田は、藩政時代の末期に、当時の山西村西部の海岸一帯を干拓してできた新田である。松山藩士・奥平貞幹が和気郡代官であったとき、山西村の庄屋・一色義十郎が干拓の計画書を提出、藩の許可が出てこの新田が開発された。奥平貞幹が起工の責任者となり、一色義十郎のもと山西村の組頭・又兵衛、別府村の組頭・喜三衛門らが協力して工事に当たったという。
・嘉永5/1852年に起工、安政2/1855年に造成工事終了、安政5/1858年に落成式。時の松山藩主がこの新田の完成を喜び、「大いに賀す可(べ)し」と言ったことから「大可賀新田」の名がついたと云われている。
・大可賀新田は宮前川の分流を開削して放流させ、土砂を堆積させるという特色ある工法で開拓された。この工法は完成までに長期間を要するが、経費・労力を節減することができたという。




大可賀新田記念碑
松山市大可賀2丁目
「アイテムえひめ」北側



奥平貞幹の墓
松山市朝日ヶ丘
宝塔寺

12

鍵谷 カナ
(かぎや かな)
(かぎや かな)
<鍵谷カナの歴史>

・鍵谷カナ=江戸末期の今出絣の考案者、後の伊予絣の創始者。
・天明2/1782年、伊予郡垣生村今出(温泉郡埴生村→現、松山市西垣生町)の農家に生まれ、小野山藤八に嫁ぎ、当時農家の副業であった伊予結城(伊予縞)という縞木綿の生産に従事していた。
・カナは、藁屋根の葺替えの際、煤竹に縄目の跡があるのにヒントを得て、享和年間(1801〜1804年)に、新しい絣模様を織る方法を考案したといわれている。
・はじめ青草の汁で糸を染め地機で織ったが、のち藍染を採用し、菊屋新助が考案した高機
(たかばた)を使用して絣を織り出すことに成功した。この絣は、最初その地名によって「今出絣」とよばれていたが、普及するに従い、「伊予絣」としてもてはやされ、全国に知られるようになり、やがて、日本三大絣の一つに数えられる地場産業に発展した。
元治元/1864年、没、享年83歳。墓所は、松山市西垣生町の長楽寺にある。
・明治20/1887年、鍵谷カナ顕彰碑-「飛白織工労姫命」が、今出三島神社境内に建立された。昭和4/1929年、西垣生町の長楽寺に、カナの功績を称え「鍵谷カナ頌功堂」が建設された。また、カナの銅像が、松山市久万の台の民芸伊予かすり会館の前に建立されている。


<鍵谷カナ頌功堂>

鍵谷カナ頌功堂は、伊予絣創始者の鍵谷カナの功績を後世に伝えるため、伊予織物同業組合が昭和4/1929年に建てたものである。
・設計者は、愛媛県庁なども設計した木子七郎で、鉄筋コンクリート造の八角堂。中央に頌功碑を納めており、8本のエンタシスの柱と斗組により反りの強い本瓦葺八角屋根を支える特徴的な姿形で、平成13/2001年に、国の登録有形文化財となっている。
・頌功堂は、松山市西垣生町の長楽寺の境内にあり、鍵谷カナの墓もここにある。

<鍵谷カナの銅像と伊予かすり会館>

・鍵谷カナの銅像は、松山市久万ノ台の「伊予かすり会館」の入口にあり、銅像の銘板の文字は、元愛媛県知事久松定武が揮毫。定武は、旧伊予松山藩主松平(久松)家第17代当主で、愛媛県知事を昭和26/1951年〜昭和42/1967年迄の5期務めた。
・会館内は、伊予かすりが培って来た庶民の歴史と、その過程が展示されており、体験する事が出来る。
・伊予絣は、松山絣とも呼ばれる。久留米絣・備後絣とともに日本三大絣の一つともされる。明治37年には全国生産一位となり、当時全国では子供から大人までこぞって緋の着物を愛用したが、生活の洋風化とともに着物を中心に絣の需要は低下し、今日では、事業として行っているのはここ一軒のみとなった。松山市内にあるこの伊予かすり会館では、機織の実演を見ることができる。








鍵屋カナの銅像
松山市久万の台
義予かすり会館前



伊予かすり会館
松山市久万の台


鍵谷カナ頌功堂
松山市西垣生町
長楽寺



鍵谷カナの墓
松山市西垣生町
長楽寺


13

勝田 銀次郎
(かつた ぎんじろう)
(かつた ぎんじろう)
<勝田銀次郎の歴史>

・勝田銀次郎=大正〜昭和初期の実業家(海運業)、政治家、「陽明丸」によりロシア革命後の難民を救済。

・明治6/1873年、松山城下唐人町(現、松山市大街道一丁目3番地/銀天街入り口あたり)で米穀商の家の長男として生まれた。
・明治24/1991年、18歳で松山中学を卒業すると同時に、北海道を目指して旅立った。東北へと向かう汽車の中で、東京英和学校(現、青山学院大学)校長の本多庸一と隣合わせになり、銀次郎の新天地開拓の抱負を聞いた本多校長は、東京英和学校に入学することを奨め「その気があれば、学校に話しを通しておく」と告げた。銀次郎はにわかに志を翻し東京英和学校へ入学、予備学部を卒業し高等学部に進んだ。
・明治27/1894年、日清戦争が勃発すると従軍記者になりたいと考え、高等学部2年で中退したものの従軍記者にはなれず、実業界に挺身し大阪・神戸において貿易海運業に従事した。

・明治33/1900年、27歳の時、銀次郎は神戸栄町通に、自分の店「勝田商会」を構え、ウラジオストック・天津から雑貨や豆粕の輸入をはじめた。この時、本籍地を松山の生家から神戸に移した。
・大正3/1914年、51歳の時、第一次世界大戦(1914〜1918)の勃発により、海運業界が未曾有の活況を呈するや、時流に乗った銀次郎は、一気に我が国海運業界の指導的立場にのし上がった。
・大正5/1916年、53歳の時、旧居留地の仲町二十七番地に、勝田汽船株式会社を設立し、代表取締役に就任した。銀次郎は真っ先に「巨船主義」を掲げ、神戸船主のリーダー株になった。
・大正7/1918年、55歳の時、大洋海運取締役社長、翌年、神戸商船代表取締役社長、日本船主同盟会理事、神戸海運業組合長を勤めた。
・大正8/1919年、56歳の時、神戸-摩耶山麓青谷に一万坪の敷地に勝田邸を新築。
・しかし銀次郎、巨万の富を握ったのも束の間、第一次世界大戦終息時の見通しを誤り、数年後にはその財産を失い負債を負う。
・大正15/1926年、62歳の時、勝田邸を手放す。その後、昭和8/1933年に天理教に譲渡され、ほぼ当時のままで現存している。
・元来金銭に活淡たる銀次郎は、やがて政界に転じ、神戸市会議員、代議士、貴族院議員となり最後には神戸市長を二期勤めた。
・昭和5/1930年、67歳の時、衆議院議員にトップ当選する。神戸海運界の巨頭として不振の業界が勝田当選へ全力を傾けたという。当時は市議会議員を勤めながら衆議院議員にもなれた。
・昭和8/1933年、70歳の時、神戸市長に初当選する。
・余生を神戸市内で送る内、第二次世界大戦時の戦災に遭って家屋敷を失い、加うるに公職追放を受け、その失意の身に病を得、夫人に先立たれて淋しくその生涯を終えた。神戸市は、公職追放が解除されるや銀次郎を市の特別顧問に迎え、顧問料として月々3万円(現在の30万円)を給付し彼の功績に答えた。

<公共施設への寄付>

・銀次郎は、各方面の公共施設に多額の寄付をしている。大正7〜8年に、@松山市三津浜の築港費1万円、A神戸高商講堂一棟及び糸崎小学校建築費1万円、などなど。さらに昭和2/1927年には、@日本赤十字社兵庫県支部1万円、A青山学院に神戸有志一同で2万円、B青山学院高等学部校舎(勝田ホール)と院長館に31万円、などなど。

<ロシア革命後の難民救済>

・大正9/1920年、57歳の時、1918年に起きたロシア革命後の内戦で、難民となった4〜18歳の子供達及び引率者900余人が、ウラジオストックでアメリカ赤十字社に保護されるという事件があり、赤十字社からの要請により、日本の貨物船が子供たちの受け入れを引き受けた。その船が勝田汽船所有の「陽明丸」であった。陽明丸は、ウラジオストクまで子供たちを迎えに行き、太平洋と大西洋を約3か月かけて航海し、フィンランドへ送り届けその後、無事に故郷のペトログラードへ戻ることができた。

<第一次世界大戦後の捕虜送還>

・第一次世界大戦後は、勝田の会社も下り坂になっていたにもかかわらず、大戦中の捕虜の送還にも協力して、社有船「海久丸」をドイツの赤十字社に傭船して、独、墺(オースリア)の捕虜3,000人を、ウラジオストックより故郷まで輸送に任じたり、チェコやトルコ人捕虜を欧州に送り届けるなど、採算を度外視した仕事を引き受けた。

<関東大震災における救援活動>

・大正12/1923年9月1日、関東で大震災が発生した。この時、市議会議長であった銀次郎は、知己の素封家や資本家を訪ね廻って、義援金の拠出の要請に奔走した。義援金の目標額は100万円が目途であったが、最終的には150万円以上寄せられた。その他、有志一同手分けして商店街をたずねて「在庫品でもワケあり品でも安く物資を提供できないか」と呼びかけ、衣料品や食器等50万円相当集積場に集まったが商店主達は、こんな時に勘定なんてできないと全部無償提供してくれた。二日後、メリケン波止場から物資を満載した関東大震災救援船「上海丸」が神戸市長や銀次郎を乗せ横浜へと出港した。船は無事横浜港に接岸し、一行は神奈川県知事に災害のお見舞いを申し上げ、この後も救援船が来る事を伝えた。横浜市長にも面会した後、野宿をして東京へと向い銀次郎達には、上海丸を始めとして到着する救援船の貨物の分配をする新たな仕事が待っていた。部屋に篭もり救援物資のリストをもとに、配分計画を立て、港から物資の配給場所への運送の手配を整える、そうした日々を2ヶ月近く続けた。



勝田銀次郎の肖像


勝田銀次郎の生家跡
松山市大街道一丁目
ハヤシ毛糸店(現、コンビニ)



勝田汽船株式会社像
神戸市生田区浪花町

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菊屋 新助

(きくや しんすけ)
(きくや しんすけ)
<菊屋新助の歴史>

・菊屋新助=江戸中期の織物製造業者、伊予絣を織る「高機」の考案者。
・安永2/1773年、越智郡波方村の農民-伝九郎の家に生まれる。後に、伊予結城(伊予縞)改良生産の功労者として知られる。
・文化年間(1804〜1817年)に松山城下に移り、松前町に「菊屋」の店舗をかまえ、錦織物の製造に従事する。
・新助は、従来の伊予結城生産用の地機が、不完全なのを見てその改良を決意し、京都西陣から絹織に用いられている「花機」を取り寄せ、これを木綿織用に改造して、「高機」とよぶ織機を作った。この新しい織機によって織られた結城は、良質で大変に好評を得たので、高木屋藤吉とはかり、資金を調えてこの機業化をすすめるとともに、さらに、中国、京坂、尾張、九州の各地に出かけ、販路の拡大に努めた結果、伊予結城の名は全国に知られるようになった。
・松平家第11代藩主-定通は、国産奨励の立場から、新助らに保護金を貸与して、その事業を支援した。
・後に、鍵谷カナが、新助が考案した「高機」を使って、伊予絣を織り出すことに成功する。
・天保6年/1835、没、享年62歳。墓所は、松山市木屋町の円福寺にある。







菊屋新助考案の高機
愛媛県総合科学博物館
新居浜市大生院



菊屋新助考案の墓
松山市木屋町
円福寺


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義農 作兵衛
(ぎのう さくべえ)
(ぎのう さくべえ)
<作兵衛の歴史>

作兵衛=江戸時代初期〜中期の農民、享保の大飢饉における篤農家。
・貞享5/1688年、伊予郡筒井村(現、松前町)の貧しい農家に生まれる。
・父-作平、母-ツル。妻-タマ、長男-作市、長女-カメ、次女-某。貧農であったが、努力してそこそこの農民になった。
作兵衛は温順・勤勉な人柄で、老母が重病にかかった時、十分療養ができなかったのでこれを悔いて、奮起して村内の荒蕪地を人手し,苦心のすえ良田とし村人を驚嘆させた。また夜に草鞋を作って販売したところ、堅牢なので好評を得て「作兵衛わらじ」といわれた。壮年のころには、田3反3畝余を所持し、他に小作地を耕作して模範の農夫と称賛された。
・享保17/1732年5月から降りはしめた雨は7月まで続き、稲は枯死しようとした。さらに浮塵子(うんか=稲などを枯渇させる害虫)が異状に発生し、雑草まで食い荒した。このため穀物の収穫は皆無となり、いわゆる享保の大飢饉が襲来した。ことに筒井村では、重信川の氾濫による被害は甚大であった。
・作兵衛は、飢餓のため倒れようとする身体を奮い起こし、田圃に出て耕作に従事したが昏倒し、隣人に援けられて家に帰り、麦袋を枕として横臥した。隣人はその麦を食べて露命をつなぐようにすすめたが、作兵衛は聞かず「農は国の本である。種は農の本である。わずかの日生きる自分が食べてしまって来年の種をなくすわけにはいかない」と、言い残して飢え死にしてしまった。享年・44歳。村人たちは作兵衛の残した種籾で次の年を乗り切ったとい伝えられている。

享保17/1732年、大飢饉で松山藩は深刻な飢饉に見舞われた。特に筒井村の被害は甚大で、多くの餓死者を出た。作兵衛も父と息子を亡くし、自身も飢えて動けなくなってしまった。村人は作兵衛が麦の種もみを俵に詰めて枕にしているのを見て、それを食べることを勧めたが、作兵衛は聞かず「農は国の本である。種は農の本である。わずかの日生きる自分が食べてしまって来年の種をなくすわけにはいかない」と、言い残して飢え死にしてしまった。村人たちは作兵衛の残した種籾で次の年を乗り切ったとい伝えられている。
安永5/1776年、松山藩8代藩主・松平定静が作兵衛の悲話に感銘し、「義農」として称え、彼のために顕彰頌徳碑を建立した。
・明治14/1881年、赤星伝作が作兵衛のために、伊予郡松前町筒井に「義農神社」を建立している。



義農作兵衛の銅像
伊予郡松前町筒井
義農公園



義農神社
伊予郡松前町筒井

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桐野 忠兵衛
(きりの ちゅうべえ)
(きりの ちゅうべえ)
<桐野忠兵衛の歴史>


・桐野忠兵衛=昭和期における農業技術者、農協役員、ポンジュース創始者。
・明治33/1900年、周布郡周布村(現、西条市壬生川町)に生まれる。
・愛媛県農会技師をへて、昭和24/1949年、愛媛県青果販売農協連合会会長となり、柑橘果汁加工事業の創始など、果樹産業の発展に盡す。県会議員・日本果汁農協連合会会長などを勤めた。
・昭和26/1951年に、新しい果樹産業の進路開拓を求め、果樹先進国であるアリカ・カナダの状況を調査するために、視察に出発し、各地の果樹産地や果実の加工場を精力的に視察して回るなかで、ジュースなどの普及率の高さに感嘆した。さらに、アメリカのフロリダ州では、世界屈指のジュース工場を見学し、その規模の大きさに驚くとともにミカンの消費の方法にも、工夫をすれば大きな可能性があることに着眼し、帰国後、愛媛県青果連の役員会に諮り、果実加工事業を進めることになった。
・昭和27/1952年、全国に先駆けて、愛媛県青果連の三津ジュース工場が完成し、愛媛の特産である温州ミカンを使ったポンジュース第1号の製造が開始された。
・昭和52/1977年、没、享年76歳。墓所は、松山市船ヶ谷の安城寺町にあるポンジュース工場を見下ろす小高い丘にある。
・松山市安城寺町にあるポンジュース工場の敷地内には、没年に建てられた
桐野忠兵衛の銅像がある。

<「ポンジュース」の命名>

「ポンジュース」の名付け親は、松山藩主-松平(久松)家の血を引く久松定武(当時愛媛県知事)である。発売当時の宣伝ポスターには「日本で生まれて世界に輝くポンジュース」とうたっており、日本一のジュースになるようにとの願いを込めてつけられたもので、「ポン」は「日本(ニッポン)一」のポンから取ったものである。
・昭和28/1953年に、「ポン」のローマ字表記は「PON」から「POM」へと変わった。ポン(POM)は、文旦pomelo(ポメロ)や果樹園芸学、果樹栽培法のpomelogy(ポメロギイ)など、柑橘に縁の深い名前が多いこともあり、「POM」の表記になった。
・また、「ポンジュース」と名付けた理由には、実は他の説もる。名付け親の久松氏はフランスに住んでいたことがあり、フランス語のあいさつ「ボンジュール」(おはよう、こんにちは)の 「ボン」の響きにも似ているのでよいということで名付けたのだとか。


<ポンジュースの出る蛇口がある>

・「愛媛にはポンジュースの出る蛇口がある」、そんな都市伝説のような話を、皆さんに楽しんでいただこうと、ポンジュースの製造元である(株)えひめ飲料では、本当にポンジュースの出る蛇口を作ってしまった。





桐野忠兵衛の肖像


桐野忠兵衛銅像
松山市安城寺町
松山工場


蛇口からポンジュース




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河野 兵市
(こうの ひょういち)
(こうの ひょういち)
<河野兵市の歴史>

・河野兵市=昭和後期〜平成時代の冒険家、日本人初の北極点単独徒歩到達、日本アドベンチャーサイクリストクラブ永久会員。
・昭和33/1958年、西宇和郡瀬戸町(現、西宇和郡伊方町)で生まれる。
・愛媛県立三崎高を卒業後、自転車での日本一周。その後、北米や南米を走破する。
・昭和57/1982年、冒険家-植村直己の影響を受け、アラスカのユーコン河フォートユーコンからベーリング海までゴムボートで旅をする。
・登山経験は殆ど無かったものの、ニューヨークでアルバイトをしながら、日本人の登山家に弟子入りし、登山のノウハウを学び、昭和58/1983年、北米大陸最高峰のマッキンリーの登頂に成功する。
・その後、南米最高峰のアコンカグア等の山々の登頂に成功。ヒマラヤの8,000 m 峰ナンガ・パルバット登山時に、落氷を顔面に受け下山した。この時、上唇部に傷が残ったため、鼻ひげを伸ばし始める。
・平成2/1990〜平成3/1991年、アフリカ大陸において、荷物を詰めたリヤカーをひいてサハラ砂漠 5,000kmを縦断する。このリヤカーのアイデアは、友人の自転車冒険家-埜口保男の提案である。
・日本に帰国後、ナンガ・パルバットで知り合った順子と結婚。一男一女の子宝に恵まれる。

・平成9/1997年、39歳の時、カナダ側から北極点までの800kmを、日本人としてはじめて単独踏破に成功する。
・平成13/2001年に、北極点から地元佐田岬半島まで徒歩等により、5年がかりで帰還する「河野兵市リーチングホーム2001」を計画し、3月26日に北極点を出発。5月17日に最後の交信を行った後、発信地から南東へ約13キロ離れた地点(北緯83度49分、西経74度34分)で北極海の氷の割れ目に転落し死亡。5月24日、ソリと共に遺体が発見された。享年43歳。
・小惑星(8552)-「兵市」は、彼にちなんで命名された惑星である。




河野兵市の肖像


河野兵市の記念碑
伊方町(旧瀬戸町)
道の駅「瀬戸町農業公園」


18

小林 信近
(こばやし のぶちか)
(こばやし のぶちか)
<小林信近の歴史>

・小林信近=江戸末期〜明治期における愛媛県政界/実業界の先覚者、衆議院議員、伊予鉄道の創立者/初代社長。
・天保13/1842年、
松山城三之丸において、松山藩士-中島包準(かねはや)の二男として生まれる。
・嘉永6/1853、松山藩士-小林信哲
(のぶあき)の養子となる。
・万延元/1860、第13代藩主-松平勝成の小姓として仕えるが、直後に、嗣子-定昭の小姓となる。
・明治3/1870年、松山藩少参事に任命される。
・明治4/1871年、29歳の時、小林家の家督を相続する。

・明治5/1872年、石鉄県九等出仕を拝命し、翌6/1873年には、七等出仕となるが、同年2月愛媛県の設置とともに、依願免職する。
小林は、明治6〜8/
1875年にかけて、公務に関わる一方で、実業界にも進出していった。主な事業に「一番町で陶器製造業」「浅田原桑園の開墾」「宇和島神南山の試掘」「東野茶園で新茶つくり」「松根油の試製」「三番町に芝居定小屋を設立」「湊町にて紙店を開業」「三津の正覚寺における養蚕の試み」などがある。
・明治9/1876年、35歳の時、
旧藩主久松家の嘱託で、奥平貞幹/松本務と協同して、士族授産のため、製紙・製靴・小倉織を扱う工業会社「牛行舎」を創立し、社長となる。この社名は「怠らずに行けば千里の道も見ん 牛の歩みのよし遅くとも」という古歌に由来したものである。牛行舎の男子部門が製紙/製靴を、女子部が小倉織を生産した。旧松山藩の製紙場を、所有主の興産社から借りて営業を開始したが、次第に競争者があわられることになり、士族授産目的に設立されたことから、経営の不慣れに悩まされ、明治19/1886年、創業からわずか10年にして廃業となった。
・明治10/1877年、松山米商会を創立される。松山でも米商会所の設立の動きが明治9年の米商会所条例公布後直ちに始まり、同年の10月には、松山米商会所設立の出願をなし、明治10年2月に創立される。松山米商会所の設立に当たっては、小林が大きく関与していたと言われており、彼の手記には、「明治10年2月(36歳)有志と同盟して松山米商会所を創立す」と記されている。しかし明治10年2月24日付の『愛媛新聞』に掲載された松山米商会所禀告(『愛媛県史資料編社会経済下』商業参照)には、小林信近の名前は見あたらないそうである。
・明治11/1878年5月、37歳の時、愛媛県会議員に当選する。
・小林信近が、牛行舎に次いで手がけた大きな事業のひとつに、国立の銀行創設がある。彼の手記によれば明治11年8月、第五十二国立銀行創立のために上京、大蔵省にてその創立手続きを行っている。そして同年9月、第五十二国立銀行を加藤彰/伊藤奚疑らとともに開業した。小林は当行設立と同時に初代頭取となる。開業までには大蔵省での設立事務手続きのほか、多くの困難な問題があったが、これらを処理しての開業であった。小林は初代頭取として銀行経営に携わるものの、その就任期間はわずか3か月で終わり、そのあと加藤彰が頭取となった。
・同年12月、愛媛県権令の勧誘により、和気/温泉/久米郡長に就任、頭取を辞任。
・明治14/1881年2月、愛媛県会議員に当選する。
・同年9月、第五十二銀行取締役に就任する。
・明治15/1882年5月、商法会議所頭取に就任する。
同年9月、愛媛県会議長に就任する。

・明治16/1883年2月、海南新聞社社長に就任する。
同年8月、同社社長を辞任する。
・明治18/1885年1月、第五十二銀行取締役を依願退職する。

明治21/1888年2月、伊予教育義会会頭に就任する。
・同年9月、47歳の時、伊予鉄道会社設立、社長に就任する。
・明治25/1892年2月、51歳の時、衆議院議員に当選する。
同年9月、高浜桟橋会社を設立する。

明治32/1899年2月、伊予鉄道会社社長を辞任する。
明治34/1901年11月、伊予水力電気会を設立、専務取締役に就任にする。
・明治36/1903年、伊予製紙会社を設立、代表社員となる。
・明治40/1907年、66歳の時、伊予電力織布会社を設立、社長に就任する。
明治44/1911年8月、鞍手軽便鉄道会社を設立、専務取締役に就任する。
・大正2/1913年9月、伊予水力電気会専務取締役を辞任する。
・大正3/1914年11月、鞍手軽便鉄道会社の経営を、日本興業会社に返還する。
・大正4/1915年11月、松山市長より表彰状を授与される。
・大正5/1916年10月、賞勲局総裁より、賞状を授与される。
・大正7/1918年9月24日、没、享年77歳。墓所は、松山市祝谷東町の常信寺にある。


<伊予鉄道会社の設立>

・小林が最も苦心して事業をおしすすめたのは、伊予鉄道会社であった。当時の社会では、鉄道会社に対する認識は極めて乏しかった。そのころ『海南新聞』は鉄道会社計画について、「この計画は煙火の如きもの、鉄道若し運転せば誠に喜ぶべきことなれども、恰も煙火を見るが如く永く続く見込が無い」と、鉄道会社の将来性を危ぶんでいた。
・鉄道会社設立に当たって資金の調達もうまくいかず、ここまでか思われた時、愛媛県知事として赴任してきた藤村紫朗の讃同を得ることに成功した。藤村自身、50株の株主となって事業設立に積極的意欲を示した。また当時、藤田組社長で、新居浜で鉱山経営を手がけていた藤田伝三郎、別子鉱山支配人の広瀬担らが株の一部を引き受けてくれた。資本調達問題などがあったものの、明治20/1887年9月14日、伊予鉄道会社創立総会が開催され、初代社長に小林信近が選ばれた。明治21/1888年10月28日、松山〜三津間で営業が開始された。
・その後、路線は拡張されていき、小林信近は、地域社会における近代交通機関の導入者であると同時に、わが国鉄道史上における軽便鉄道の生みの親としても名をとどめることになる。


<伊予水力電気会社の設立>

・わが国における電力事業の進展を小林信近は見逃さなかった。彼は琵琶湖の水を利用した水力発電の動きに着目し、松山でも電力事業を興こそうと計画した。彼の計画では、電灯1,000灯の需要があれば、企業として採算がとれるといった読みがあった。かくて明治27/1894年、小林は鈴木安職とともに、松山電灯株式会社計画をねり、電灯需要者を募り始めるものの遅々として進まず、苦肉の策として堀の内の歩兵連隊にまで電灯需要を求めたが失敗した。ここにきて小林の電力事業計画は、早くも行き詰まりをみせたが、明治28/1895年になって、仲田槌三郎/二宮佐一平らが、松山電灯株式会社を計画していたところから小林もこれに参加し、同年10月29日に農商務省/逓信省に設立申請を願い出た。そして発電所のための立地調査を松山にて開始する。最終的には石手川上流の湧が淵に発電所を設けることに決定した。そのころ、松山において広島の桐原恒三郎が愛媛県郡中町(現、伊予市)の篠崎謙九郎/豊島昌義らとともに、資本金20万円の伊予水力電気株式会社の準備をしていた。このため当時の知事小牧昌業の手によって両社の合併案がつくられ、明治29/1896年10月に伊予水力電気株式会社(資本金30万円)の創設をみることになる。しかし会社の創設をみたものの、経済不況も手伝って株式募集も思うにまかせず、明治34/1901年4月には、資本金を15万円に減資せざるを得なくなった。そして減資後、内部から脱会者もあらわれ、誰がみても会社の先行きは厳しいものであった。
・こうした会社の窮状を救うのが才賀藤吉という人物であった。才賀藤吉は、京都の才賀商会の経営者であり、わが国電気事業の上でははかりしれない貢献をした人物である。才賀が松山における電力事業に関係したひとつの理由は、かつて松山紡績の鷲野正吉という技師とともに紡績会社の電気工事にたずさわっており、そうした親交から鷲野が松山の電気事業に才賀の参加を求めたのであった。かくて会社の再建がはかられ、明治34/1901年12月、伊予水力電気株式会社が創立された。その資本金13万円、その半額を才賀が引受けるというものであった。また取締役社長に仲田伝之、専務取締役に小林信近、監査役に才賀藤吉らが就任した。そして明治41/1908年、才賀が社長に就任することになる。しかし会社の施設拡張や、才賀商会そのものが経済不況のあおりを受けて倒産するなど、水力会社の経営も危機に直面した。結局、才賀をはじめ経営陣は総辞職し、新経営陣に実権を移された。大正5/1916年9月18日の株主総会で、伊予鉄道株式会社への合併が決議され、伊予水力電気株式会社は短い運命で、その歴史を閉じることろになった。



小林信近
の肖像



伊予鉄道一号車
松山市湊町四丁目
伊予鉄道本社前


第五十二銀行→伊予銀行
松山市本町四丁目

19

近藤 元久

(こんどう もとひさ)
(こんどう もとひさ)
<近藤元久の歴史>

・近藤元久=日本の初期のパイロット、航空機事故(ロサンゼルス近郊)で死亡した最初の日本人。
・明治18/1885年、伊予松山藩士-近藤元粋(南洲)の次男として大阪で生まれる。後に松山中学の教師(漢学)で叔父の近藤元弘の養子となる。
・松山中学を卒業後、明治36/1903年に、単身渡米する。
・8年ほどアメリカ合衆国で暮らした後、飛行家となることをめざしてサンディエゴのカーチス飛行学校で学び、大正元/1912年、万国飛行免状を得る。カーチス飛行学校では武石浩玻と共に学んだ。同学校では、日本海軍の山田忠治、河野三吉、中島知久平の三人のカーチス水上機の実習の手伝いなどをしていたが、飛行機を購入して帰国するための資金を稼ぐために、カーカム牽引式複葉機のテスト・パイロットとして雇われ、同年10月6日、テスト飛行で操縦を誤り、農場の風車塔に激突し、飛行機から投げ出され塔に激突して即死した。

・墓は、松山市御幸の龍泰寺の近藤家の墓地にある。



近藤元久の肖像

20

酒井 黙禅
(さかい もくぜん)
(さかい もくぜん)
<酒井黙禅の歴史>

・酒井黙禅=大正期〜昭和期の医師(医学博士)、松山赤十字病院院長、俳人、愛媛ホトトギス会会長。
・明治16/1883年、福岡県八女郡水田村に生る。本名:和太郎。
・熊本五高より東京帝国大学医学部を卒業。
・大正7/1918年、学位を得た翌年、東大俳句会に入り句作をはじめ、俳人-長谷川零余子の指導を受け、続いて高浜虚子に師事した。「ホトトギス」同人に推され、課題句の選者になった。
・大正9/1920年、黙禅が日赤松山病院長として松山に赴任したときに、虚子は「東風の船 博士をのせて 高浜へ」の句をはなむけに贈った。黙禅は、虚子のこの句に応えるかのように一生愛媛県を離れず、本務と句作に励んだ。
・昭和23/1948年まで、日赤松山病院長を29年間務め、東宇和郡の町立野村病院の開設のためにつくし、その後、道後/田高の地に住むようになってからも、診療活動に従事するとともに、高浜虚子をはじめ多くの俳人達を松山へ迎え、昭和21/1946年に俳誌『柿』を、同24/1929年に俳誌『峠』を創刊する他、虚子の後を受けて、俳諧文庫の充実を余生の仕事としていた。
・昭和47/1972年、没、享年89歳。墓所は、福岡県大川市の正覚院にある。


<酒井黙禅の句碑>

・梅が香や おまへとあしの 子規真之   松山市梅津寺町-大丸山
・子規忌過ぎ 一遍忌過ぎ 月は秋      〃 道後湯月町-宝厳寺
・春風や 博愛の道 一筋に         〃 文京町-松山赤十字病院前
・東風の船 高浜に着き 五十春       〃 祝井谷東町-松山神社



酒井黙禅の肖像


松山赤十字病院
松山市文京町

21

坪内 寿夫
(つぼうち ひさお)

(つぼうち ひさお)
<坪内寿夫の歴史>

坪内寿夫=大正〜平成期の実業家(映画館、ホテル、造船・・)
・大正3/1914年、伊予郡松前町で生まれる。本名:桧三夫、妻の姓名判断により「寿夫」に改名した。
・坪内は、倒産寸前の企業を数多く再建させた手腕から「再建王」、船舶・造船・ドック会社を多数抱えたことから「船舶王」、四国を中心としたグループ形態から「四国の大将」とも称された。
・昭和9/1934年、弓削商船学校卒業後、南満州鉄道に就職。第二次世界大戦に従軍。
・昭和20/1945年、終戦と同時にシベリアに抑留され、同23/1948年に帰国し愛媛に戻り、これからは娯楽が儲かることに着目し、松山市内で映画館経営を手がけ利益を上げる。日本の映画館で、違う系列の映画の二本立て上映を初めて行ったのは、坪内の経営する劇場である。
・昭和28/1953年、來島船渠株式會社(現、新来島どっく)社長に就任。販路の見直し及び徹底したコスト削減を行い軌道に乗せる。
・昭和39/1964年、奥道後ホテル創業。
・昭和53/1978年、内閣総理大臣-福田赳夫、日本商工会議所会頭-永野重雄、日本興業銀行頭取-池浦喜三郎らに推され、佐世保重工業の社長に就任。
・平成6/1994年、佐世保重工業相談役に退く。
・平成11/1999年、没、享年86歳。






坪内寿夫の肖像


ホテル奥道後
松山市末町

22

新田 長次郎

(にった ちょうじろう)
(にった ちょうじろう)
<新田長次郎の歴史>

新田長次郎=明治期〜昭和前期の実業家、新田帯革製造所(現、ニッタ)の創業者。
・安政4/1857年、温泉郡山西村(後、温泉郡味生村、現、松山市山西町)の農家-新田喜惣次の次男として生まれる。号:温山(おんざん)
・長次郎は、大阪において、工業用ベルトを中心とする製革業、及びその関連事業を興し、さらに、大阪工業会の設立に尽力、また、松山においては、松山高商(現、松山大学)の設立に資金面から援助するなど、教育の振興にも貢献した。なお、秋山好古とは、少年時代からの親友であり、また、萬翠荘、愛媛県庁、石崎汽船本社ビルなどを設計した建築家の木子七郎は娘婿である。
明治10/1877年、21歳の時、大阪に出て、藤田組製革所に入所、製革技術を習得。
・明治13/1880年、藤田組製革所の経営不振から解雇されが、2年後の明治15/1882年に大倉組製革所に入所、同17/1884年に、工場の仕込部主任となり、なめしの準備工程一切の指揮を任される。
・明治18/1885年、新田組として独立し、大阪市西成郡難波村久保吉(現、大阪市浪速区久保吉)に空家を借り、製革工場を起こす。当初は、製靴用の薄物油革を製造していたが、知人の出資を得て、次第に工場を拡張していった。
・明治21/1888年、大阪紡績(現、東洋紡)の依頼で、動力伝動用革ベルトの国産化に日本で初めて成功、その後、新田製地球印帯革として、全国で設立された紡績会社に販路を広げていく。
・明治26/1893年、シカゴで開催された世界大博覧会出品のため渡米し、サンフランシスコ・シカゴ・ニューヨークを回った後、ロンドン・パリを訪れ、多くの製革所を視察するとともに、製革機械を買い入れ、工場の改善に大いに役立てた。
・明治30/1897年、新田組が長次郎の単独経営となる。
・明治33/1900年、パリ万国博覧会への製品の出品に合わせて、フランス・ドイツ・オランダ・ベルギー・アメリカと海外視察を行う。
・明治34/1901年、東京出張店を開設し、その後各地に出張店を設置する。
・明治35/1902年、実業功績者として、緑綬褒章を授与される。
・明治37/1904年、革ベルト接合法で最初の特許を取得し、これにより、かなり耐久性に優れた製品化が可能となる。
・明治42/1909年、個人企業から合資会社となり、合資会社新田帯革製造所として発足し、長次郎は無限責任代表社員となる。
・明治44/1911年、革をなめすのに必要なタンニンを製造するため、良質のタンニンを含む?
(かしわ)の林野が広がる北海道幕別町止若(やむわっか)に、タンニン固形エキス製造工場の操業を開始する。
・同年、長次郎は、当時の難波警察署長からの、貧困子弟のための教育機関設立の相談に賛同し、浪速区栄町(現、浪速区浪速西)に3軒の家を借りて、私立夜学校である有隣尋常小学校を設立し、学校運営経費だけでなく、生徒の学用品・衣服・履物にいたるまで支給した。翌年、学校の旧建物の一部を移築し、昼間・夜間の二部授業に拡張、12年間経営した後、大正11/1923年に、大阪市に施設・基金を付けて寄贈した。
・大正9/1920年、政府の臨時産業調査委員に選ばれ、同10/1921年、帝国発明協会から発明功績者として表彰される。
・大正12/1923年、故郷の松山において「教育を通じても社会に貢献したいとの考えから、松山高等商業学校の創立にあたり、創立費と経営費を出資した。同校の卒業生同窓会は、長次郎の雅号(温山)をとり、温山会と名づけられている。また、長次郎は、
「自社社員の養成所になってしまっては、学校の発展はない」との考えから、同校卒業生を新田の創業した会社に採用しないことを学校設立の条件とした。なお、会社創業から100年が経過した昭和60/1985年以降は、松山大学卒業生を受け入れている。
・長次郎は、このほか、国学院顧問に就任して、同校に多額の寄付及び融資を行ったり、故郷の愛媛県味生村の味生小学校や、北海道の小学校数校の設立資金を提供したりもしている。
・昭和11/1936年、脳出血で倒れ、2日後に没した。享年80歳。大阪市天王寺区の四天王寺において社葬が執り行われた。
長次郎の墓所は、この四天王寺にある。



新田長次郎の肖像


新田長次郎の銅像
松山市文京町
松山大学



温山会館
松山市文京町
松山大学



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服部 嘉陳
(はっとり よしのぶ)
(はっとり よしのぶ)
<服部嘉陳の歴史>

・服部嘉陳=江戸時代末期〜明治中期の官吏、久松家家令、常盤会寄宿舎初代監督、漢詩人、藤野三兄弟の二男。
・天保5/1834年、松山城下において、父-松山藩士-藤野正久、母-つねの二男として生まれる。
・天保12/1841年、6歳の時、養父-服部政一が没したため嘉陳が養子となり、服部家を継承する。
・嘉陳は、漢文に長じ、同郷の内藤鳴雪・河東静渓・浦屋雲林らの学者や文人たちとの交流があり、駐日清国公使で、文人としても有名であった黎庶昌
(れいしょしょう)とも親しく、漢詩を賜わっている。
・嘉陳は、松山藩士として江戸・京都・松山に勤務した経験から、その交際範囲は藩内外に亘って幅広いものがあり、明治維新に際しては、兄-藤野正啓とともに、周旋役として東奔西走した。
・維新後は、太政官-修史館の御用掛、衆議院や大蔵省の官吏などを務め、退職したのち、旧松山藩主-久松家に対し、在京の旧松山藩士の子弟のための学資援助組織の創設を提案した。
・明治16/1883年、嘉陳の提案を受け久松家は「常盤会」を創設、嘉陳は、その東京世話掛の一人となる。
・明治20/1887年12月、本郷真砂町(現、東京都文京区本郷)に、常盤会寄宿舎が設立され、嘉陳が初代監督に就任する。明治21/1888年に、正岡子規がこの寄宿舎に入舎した時も、嘉陳が監督であった。
・明治22/1889年4月、嘉陳は監督を辞任し、寄宿舎生に惜しまれながら帰松の途につおいた。この時、喀血した後の子規は、伊予松山へ帰る寄宿舎監督の服部嘉陳へ送る惜別の歌「ほととぎす ともに聞かんと 契りけり 血に啼くわかれ せんと知らねば」を詠み贈った。
・嘉陳は、明治24/1891年1月、現在の松山市鉄砲町の自宅で没した。享年57歳。墓所は、戦前までは、松山市山越三丁目の龍穏寺にあったと伝えられている。

<常盤会寄宿舎監督>

・明治20/1887年2月、正岡子規等、常盤会給費生や在京の旧松山藩出身者たちの便宜をはかるため、常盤会は久松家より寄宿舎設立の許可を受け、本郷真砂町の坪内逍遥の塾を買い取り、同年11月30日に 「常盤会寄宿舎」の開舎式が行われた。

・寄宿舎の初代監督には、子規の叔父にあたる服部嘉陳、次代監督には内藤鳴雪が就いた。明治43/1910年には、三代目として秋山好古が就任し、大正2/1913年には四代目監督に勝田主計が就任した。



服部嘉陳の肖像


常磐会同郷会
松山市歩行町二丁目


常磐会寄宿舎
東京/本郷真砂町十八番地
(明治二十年)

24

藤岡 勘左衛門
(ふじおか かんざえもん)
(ふじおか かんざえもん)
<藤岡勘左衛門の歴史>

・藤岡勘左衛門=江戸時代末期〜大正期の実業家、伊予鉄道創業に参画、松山商工会初代会長。
・嘉永5/1852年、松山城下末広町において、藤岡勘三郎の子として生まれる。
・勘左衛門は、伊予鉄道会社の創業に参画、松山商工会を起し会長に推され、銀行の創設、市場の開設、伊予がすりの販路の拡張に努めるなど、地方の実業界の発展に尽した。
・趣味多く、茶花道・謡曲・調理・和歌俳句などを楽しみ、石手川の岩堰遊園地を開設し、晩年、この地をでこよなく好んだ。
・松山市石手一丁目の岩堰橋の南袂に、秋山好古が揮毫した石碑がある。碑の撰文は近藤元晋による。
・昭和3年/1928、没、享年76歳。墓所は、松山市湊町の円光寺にある。

<藤岡勘左衛門の功績>

・明治初年における伊予の会社は、藩の物産会所を引き継いで、藩の全面的庇護を受ける官立的なものが多かった。
・松山藩では、御用商の藤岡勘左衛門・栗田與三らが、明治元/1868年に「商法社」を組織した。その後同社は「興産社」「興産会社」と改名し、藩の保護を失った後も金融業や物産売買の会社として発展した。




藤岡勘左衛門の頌徳碑
松山市石手
赤橋側


25

藤野  漸
(ふじの すすむ)

(ふじの すすむ)
<藤野漸の歴史>

・藤野漸=江戸末期の伊予国松山藩士、明治前期の官僚、久松家の家令。
天保13/1842年、伊予松山藩士の三男として生まれる。"武士は藤野"といわれたほどに武士らしい人物で、文武の達人とされている。
・藤野の妻-十重は、子規の母-八重の妹(大原観山の三女)で、つまり、藤野は子規の叔父にあたる。子規が常盤会の給費生になれたのは、藤野のお蔭といわれている。
・廃藩後の明治13/1880年に上京し、会計検査院に務めるが、その後、退官して久松家の家令となる。。
・明治16/1883年に上京してきた子規が、約10ヶ月、藤野宅に仮寓したとき、藤野はよき理解者として子規を後見した。
・明治25/1892年、松山に帰った藤野は、第五十二国立銀行の創設に奔走し、その二代目の頭取になる。
・その一方で、藤野の存在をのちにまで郷党に印象づけたのは、その謡曲ずきであった。旧藩と縁の深い謡曲宝生流の保存につとめ、「洋々会」を起こしその盟主となって、"洋々居士"と呼ばれた。

<「藤野古白」のこと>

・藤野古白は、明治4/1871年、温泉郡久万町に生まれる。父-藤野漸、母-十重。子規の従兄弟にあたる。東京専門学校(現、早稲田大学)で坪内逍遥らに学ぶ。19歳で「古白」と号し、子規に学んだ俳句は清新な句風で、頭角をあらわしたが、次第に精神の安定を欠くようになり、明治28/1895年、25歳でピストル自殺した。
・古白の墓所は、道後祝谷の常信寺にある。






藤野漸の肖像


藤野漸の墓
松山市祝谷東町
常信寺

26

藤野 正啓
(ふじの まさひろ)

(ふじの まさひろ)
<藤野正啓の歴史>

藤野正啓江戸時代末期の松山藩家老、明治時代の漢学者、歴史家、官僚。
文政9/1826年、松山藩士-藤野正久の長男(二男-服部嘉陳、三男-藤野漸)として生まれる。幼名:立馬、号:海南。
・藩校明教館で日下伯巖に学び、嘉永元/1848年、23歳の時江戸に出て昌平黌に入り、重野安繹・三浦安・木原元礼らと共に学び、のちに修史局の職員として、太政官の修史事業 に参加する。
・嘉永2/1849年、昌平黌に入って1年余りが経った頃、酒の上の過失が藩法に触れ、帰国を命じられて家督を廃され、禁固に処せられる。
・正啓には二人の弟がいたが、上の弟の嘉陳は既に服部家の養子となっていたため、急遽末弟の漸を正啓の養子とし、藤野家を継がせる処置が取られた。なお、藤野の兄弟は、正岡子規とは姻戚(藤野漸の妻と子規の母が姉妹)にあたる。
・正啓はその学才から、3年後には赦され、再び明教館に入学して寮長となり、安政6/1859年には、藩命により再び江戸に出て昌平黌に入学、翌年舎長となっている。
・松山藩は西洋の軍船を購入し、正啓に命じて航海術を学ばせることになり、そのため、正啓は、江戸松山藩邸に戻り、軍船について掌ぶと同時に、松山藩の世子-松平定昭の侍読
(じどく=学問を教授する役目)となり、次いで目付に就任することになった。
・文久3/1863年、松山藩主-松平勝成に従い京都に赴く。
・元治元/1864年、7月19日の禁門の変、次いで長州藩征討の勅命が下り、正啓は、第一次長州征討では、松山藩兵を率いて出兵、さらに、慶応元/1865年の第二次長州征討でも、再び出兵した。
・慶応3/1867年、藩主-松平勝成が引退し定昭が藩主となり、正啓は側役に就任した。・同年9月23日、定昭が老中となるが、正啓らの藩の重役は、議論して定昭に老中辞任を勧め、翌日、定昭は老中の辞表を提出、10月19日、辞任が認められた。
・戊辰戦争が起こると、幕末に藩主/定昭が老中に就任しており、また鳥羽伏見の戦いで徳川慶喜と行動を共にした松山藩は朝敵とみなされ、長州・土佐両藩の兵が松山に攻めてきた。藩主/定昭は、正啓に命じて謝罪の文書を作成させ、所領の返上を願い出て謹慎し、朝廷の沙汰を待ったが、なかなか朝廷の判断が下りなかったため、岩倉具視を通して正啓が交渉に当たり、定昭が慶応3年のうちに幕府の老中を辞任していたこと、及び鳥羽伏見の戦いで、戦闘には加わっていなかった経過を上申し、その結果、定昭に代わり、前藩主/勝成が再び藩主となることで、松山藩は存続を許された。正啓は、その功績を認められ、褒賞を与えられると共に藩の参政に任ぜられた。
・明治2/1869年、昌平校の二等教授に任ぜられ東京に移る。同年、大学少博士。5年に東京府権典事となり府誌の編纂に従う。9年に太政官修史局御用掛に転じ、10年に4等編修官になり、修史館第2局乙科に属して、19年には臨時修史局編修に累進した。新式な論文があるわけではないが、年下の重野安繹の部下になって、漢文による幕末史叙述を推進した。文壇では、5年に漢詩文の結社である「旧雨社」を起こして重きをなした。
・明治21/1888年、没、享年62歳。墓所は、東京谷中の天王寺墓地にあって、その墓碑の四面には、重野安繹の撰文にかかる銘が刻まれている。



藤野正啓の肖像


藤野正啓の墓碑
東京都台東区谷中
都立霊園

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森 盲天外
(もり もうてんがい)
(もり もうてんがい)
<森 盲天外の歴史>

森盲天外=明治期〜昭和初期の地方政治家、社会運動/福祉活動家、俳人。
・元治元/1864年、伊予郡西余土村(現、松山市余戸)で生まれる。本名-恒太郎。
・明治9/1876年、愛媛県北予変則中学校(松山中学校→現、松山東高校)に入学。校長草間時福の教えを受ける。
・明治14/1881年、東京に出て中村敬宇(正直)の「同人社」に学ぶ。
・明治19/1886年、帰省。
・明治23/1890年、県議会議員となる。
・明治27/1894年より眼に異状を感じ、上京して治療を受けたが、同29/1896年に32歳で両眼失明し、深い悩みの末、一粒の米を手にして悟るところあり、比叡山で修業を積む。
・明治31/1898年、村民に推されて、郷里の余土村村長に就任。10年間にわたり模範村の盲目村長の名を高めた。
・明治40/1907年、余土村村長を勇退。私立松山盲唖学校を設立する。
・明治41/1908年、『一粒米』の名著を著す。
大正12/1923年、青年教育のための「天心園」を開き指導する。
・昭和7/1932年、道後湯之町町長となる。
・正岡子規に師事し、「天外」の号を受け、失明後は「盲天外」と称した。
・明治24/1891年、月刊俳誌『はせを影』を発刊し、その2号には、子規が「山路の秋」という紀行文を寄せている。

森盲天外の
「伊予とまうす 国あたたかに いで湯わく」の句碑が道後の放生園に建っている。
・昭和0/1934年、没、享年71歳。墓所は、松山市道後の義安寺にある。

<森 盲天外と「一粒の米」>

・「一粒の米」は、森盲天外の言葉。盲天外は、31才の時、眼の病気にかかり、33才には両方の目が見えなくなってしまった。盲目となった盲天外は、大変嘆き悲しみ、自殺を三度もしようとした。
ところが、ある日、ごはんを食べていると、盲天外のひざの上に「一粒の米」が落ちた。それを指でつまみ上げた時、盲天外は「はっ」と気がついた。盲天外、34才の時のであった。盲天外は、一粒の米を指で練りながら考えた。この米は、練れば練るほど粘くなり、強くなる。人間が食べれば、栄養となって血をつくり、骨を育て、筋肉を増やす。一粒の米は、ただの米でありながら、その姿を様々に変えて、限りなく自分の値打ちを高めているのだ。たった一粒の米といえども、これを種として育てると、何年か後には大量の米となる。そして、人間に大きな幸せをもたらすのだ。盲天外は、「一粒の米」を通して、希望を持って、明るくたくましく生きることの大切さを知ったのである。
盲天外の「一粒の米」から学びたいのは、@ 姿を変えていく「一粒の米」のように、私たちも今の自分に満足  せず、向上の努力をしよう。A「一粒の米」にはかくれた力があるように、私たちも自分の力を信じてたくましく生きよう。B「一粒の米」が大切なように、自分や友だちの命、自然を大切しよう。
・この
盲天外の考え方は、盲天外が45才の時に書いた『一粒米』という本に述べられている。



森盲天外の肖像


盲天外の句碑
松山市道後湯之町
放生園



一粒米の碑
松山市余戸東
余土小学校


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山下 亀三郎
(やました かめさぶろう)
(やました かめさぶろう)
<山下亀三郎の歴史>

山下亀三郎=明治期〜昭和初期の実業家、山下汽船創業者。
・慶応3/1867年、北宇和郡河内村(現、宇和島市吉田町)の伊予吉田藩150戸の大庄屋-山下源次郎の4男として生まれる。

明治15/1882年、16歳のとき、宇和島の南予中学校を中退して京都へ出て、小学校の代用教員となる。
・明治17/1884年の冬、18歳で上京し、明治法律学校(現、明治大学)に籍を置く。
・明治21年/1888、22歳のとき、富士製紙会社の日給取りとなり、次いで大倉洋紙店に移る。

明治24/1891年、貿易商の池田文次郎商店に番頭として奉公、翌年、26歳で朝倉カメと結婚し、横浜市真砂町に新居を構える。
・明治26/1893年、池田商店が倒産したため、自分で洋紙業を営むも思わしくなく、伝手を求めて竹内兄弟商会の石炭部に就職し、やがて同商会の石炭部を譲り受け、個人商店として独立し、名称を横浜石炭商会と改め、横浜市南仲通りに店を開く。

・明治35/1902年、初めて岸本五兵衛の持ち船「神威丸」を6カ月間定期傭船する。これが、海運進出への端緒となる。
・明治36/1903年、念願の船を購入、「喜佐方丸」と命名。
・明治44/1911年、山下汽船合名会社設立。第一次世界大戦により「船成金」として巨利を得、山下汽船の基礎を築く。
・大正6/1917年、山下汽船株式会社を設立。本店を神戸市に置く。
・大正7/1918年、2月4日に『坂の上の雲』の主人公「天気晴朗なれども波高し」で有名な秋山真之は、療養中の逗留先の友人宅にて再発した盲腸炎が原因で没したが、その友人が山下亀三郎であり、小田原の対潮閣の二階が提督最期の場所である。
・昭和10/1935年の末、その時点での運航船腹は、一般傭船を含めて80-90万重量トンに達した。
・昭和16/1941年、12月に太平洋戦争勃発。同18/1943年、内閣顧問に任命される
・昭和19/1944年、没・享年78歳。



山下亀三郎の肖像


山下亀三郎の銅像
宇和島市吉田町

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和田 重次郎
(わだ じゅうじろう)
(わだ じゅうじろう)
<和田重次郎の歴史>

・和田重次郎=明治期〜昭和初期の探検家。
・明治8/1875年、現在の西条市小松町で、父-和田源八、母-セツ(後妻)の次男として生まれる。源八の先妻、アキには二人の男子がおり、和田家としては四男にあたる。
・明治12/1879年、4歳のときに父-源八が死去し、母-セツとともに、セツの実家のある温泉郡素鵞村(現、松山市日の出町)に身を寄せる。
・明治24/1891年、16歳で「アシはアメリカに渡って住友になるぞな」という言葉を残し松山を飛び出す。
・明治25/1892年、17歳の時、アメリカに密航。サンフランシスコに到着するも、北氷洋捕鯨の補給船バラエナ号に売られ、3年間を「キャビン・ボーイ」(船室給仕)として過ごす。越冬のため停泊していたカナダのハーシャル島でイヌイット(エスキモー系諸民族の1つ)やその犬橇
(いぬぞり)と出会い、交流を深める。
・明治27/1894年、バラエナ号との契約期間を終え、サンフランシスコに戻る。その後、報酬を日本の母に送金した後、再びアラスカに戻り、犬橇を駆って狩猟で得た毛皮で交易を行う。
・明治29/1896年、日本に帰国し、3ヶ月後に再び渡米、補給船ジェニー号の乗組員として、ポイントバローに寄港。遭難していた捕鯨船ナパック号の救助にあたる。その後、乗船していたジェニー号もスミス湾上で氷に閉じ込められ、食料も尽きる頃、重次郎が犬橇隊を先導し、カリブー猟を行い、ジェニー号と補助船ニューポート号の食料を確保、乗組員の命を救う。その後、補給船の乗組員として、アラスカ各地に渡り金鉱脈の発掘を行う。
・明治36/1903年、チェナーでの金鉱発見をいち早くドーソン・シティの新聞に伝え、アラスカ史上に名高いタナナ・スタンピート(ゴールドラッシュ)を引き起こす。
・明治39/1906年、キングとしてイヌイットの一団と毛皮を売りにノームに現れる。その際、集金した代金を全て盗まれる。重次郎が着服したとの嫌疑をかけられ、留置場に入れられるが、裁判では、二人のエスキモーの証言によって無罪放免となる。この頃結婚し、一人娘、日米子(ヒメコ=ヘレン・ワダ・シルベーラを授かる。
・明治40/1907年、ノームの室内競技場イーグルス・ホール竣工記念50マイル競争に出場、優勝を飾る。
・明治43/1910年、スワードの商工会議所からの依頼を受け、アイディタロッド・トレイルの開拓を行う。
・明治45/1912年、タバスコ王、エドワード・マキルヘニーと組んで鉱山開発に取り組むも、日本のスパイ説が流布され身を隠すことを余儀なくされる。その間もカナダ北部を拠点に北極圏を犬橇で走り回る。
・大正9/1920年頃には、カナダで石油探査員として活躍、石油シンジケートの代表も務める。
・大正13/1924年、ノームでジフテリアが大流行し、1400余人の住民が、全滅の危機にさらされるが、レオナルド・セパラと愛犬トーゴー率いる犬橇隊が、アイディタロッド・トレイル開拓時代に、重次郎が走ったルートを逆走して血清を運び、町を救う。
・昭和8/1933年、母・セツが死去、重次郎は母の死を翌年の昭和9/1934年に知る。その後、鉱山開発の傍ら、シカゴやアメリカ西部を回り、トレイル開拓や鉱山発掘の体験談を講演して歩く。
・昭和12/1937年3月、滞在先のサンディエゴで倒れ、三日後に郡病院で死去。マウント・ホープの墓地に埋葬される。
・昭和48/1973年、ノームでのジフテリア被害を救った犬橇隊の偉業を讃えて、1135 mil(1862 km)に及ぶ、アンカレッジ-ノーム間の世界最長の犬橇レース、アイディタロッド国際犬橇レースが開催され、今日まで続いている。
・平成17/2005年、重次郎の娘-日米子の曾孫が見つかる。代表として、ヘザー・オヘアHeather O'Hareが、重次郎が幼少期を過ごした松山市を訪問した。
・平成19/2007年、重次郎が幼少期を過ごした母-セツの故郷の松山市日の出町の石手川緑地に、顕彰碑とブロンズ像が建立される。



和田重次郎の肖像


和田重次郎の銅像
松山市日の出町
石手川土手





社会を変えるのは君だ!!