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最近において、テレビ・映画・小説・新聞・ネットなどに登場し
話題になっている人物と関係がある松山の出来事・人物・場所・建物などについて
 紹介するページです。

 

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「軍師官兵衛」の中の毛利一族と伊予国

NHK朝ドラ・「花子とアン」と「愚陀仏庵」の本当の話
NHK大河ドラマ・「八重の桜」の「伊勢牧師の松山伝道」の話
本屋大賞受賞『村上海賊の娘』の登場人物と三津浜の史跡の話



KANBEE

    ♦ 「軍師官兵衛」の中の毛利一族と伊予国 ♦    

 NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」には、毛利一族と毛利氏に関係の深い人物が何人も登場するが、中でも、毛利輝元(もうり てるもと)、吉川元春(きっかわ もとはる)、小早川隆景(こばやかわ たかかげ)、そして安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)は、ドラマの展開の上きわめて重要な人物であると同時に、いずれも伊予国との関係が深い人物でもある。

 毛利輝元は、毛利元就の長男・隆元の嫡男として、天文22/1553年に安芸国に生まれる。輝元は、父・隆元が急死したため、わずか11歳で家督を継ぐ。天正10/1582年、羽柴秀吉は、毛利氏の忠臣・清水宗治が立て籠もる備中高松城を攻撃する。輝元は、元春・隆景らと共に総勢4万の軍勢を率いて秀吉と対峙する。その攻防戦の最中に、京都にて本能寺の変が発生したが、いち早く情報を得た秀吉は、黒田官兵衛と謀って毛利氏との和睦を模索し、毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊に働きかけ、結果、備中高松城は開城され、城主清水宗治は切腹した。こうして毛利氏は危機を脱した。
 輝元は、慶長5/1600年の関ヶ原の戦いでは、西軍の総大将にまつりあげられていたが、一方で、伊予松前城主・加藤嘉明が、関ヶ原の戦いに東軍への加勢のために松前城を留守にしていたことに乗じ、河野氏の遺臣および能島・因島村上氏と手を組んで伊予国を攻め取ろうと謀り、兵・三千五百余人を数百艘の軍船に乗せ安芸国竹原から出発、伊予国三津「刈屋畑」に集結させたが、留守を預かっていた加藤嘉明の家老・佃十成の策略による夜襲を受け、主だった武将は討死してしまい、結果的には、毛利連合軍の敗北に終わった。

 三津「刈屋畑」での戦いで生き残った毛利軍は、この戦いに同調して一揆した河野氏の遺臣・平岡直房らと合流し、浮穴郡・荏原城、久米郡・如来院に立て籠ったり、さらには和気郡・還熊八幡神社付近でも抗戦したが、加藤軍はこれらを立て続けに掃討していった。
 やがてこの地にも関ヶ原の戦いの情報がもたらされ、毛利軍は密かに通じていた来島村上氏の所領・風早郡(現、松山市北条)へと陸路落ちのび、来島氏の軍船に乗船し、瀬戸内海を渡り安芸国竹原へ引き上げていった。
 関ヶ原合戦の裏で伊予国で行われたこの戦いのことを、地元では「刈屋畑の戦い」・「刈屋口の合戦」・「三津浜合戦」・「三津浜夜襲」、あるいは毛利軍が竹原に逃げ帰ったことから「竹原崩れ」とも呼んでいるが、「伊予の関ヶ原」・「西の関ヶ原」などと呼び、この戦いの結果如何によっては、西国における勢力分布が大きく変わっていたであろうという歴史家もいる。
 合戦の地である現在の松山市の三津地区及び宮前地区には、村上元吉を祀った「村上大明神」をはじめ、両軍の戦死者を祀る遺跡が今も数多く存在している。

 吉川元春は、享禄3/1530年、毛利元就の次男として生まれる。母は吉川氏。天文16/1547年、吉川興経の養子となり、同年家督を相続。兄・毛利隆元、弟・小早川隆景と共に、父・元就を助けて各地に転戦。弘治2/1556年以後、一族が多くつながりも深い石見国の経略を任され、毛利氏の山陰地方制圧に基礎を築いた。元春が山陰方面、隆景が山陽方面の軍事を担当する、いわゆる「毛利両川」体制はこのころに成立した。
 永禄5/1562年から同9/1566年にかけて、父と共に出雲尼子義久を富田(月山)城を攻めてこれを下し、同11/1568年には隆景と共に伊予・河野通宣の救援に駆けつけ、大洲城(現、愛媛県大洲市)に宇都宮豊綱を下した。翌年、筑前立花城(福岡県粕屋町)で大友氏と交戦中、山中鹿之介幸盛が尼子勝久を奉じて出雲に侵入したため急遽軍を返し、元亀元/1570年、これを敗走させた。同2/1572年に元就が死ぬと、隆景と共に毛利家家督・輝元を補佐し、伯耆・因幡方面からの東上策を進めた。天正6/1578年、織田氏の援助のもと播磨上月城(兵庫県佐用郡上月町)に立てこもった勝久を滅ぼすが、同9/1581年、吉川経家を守将に配した鳥取城が羽柴(豊臣)秀吉軍に落され、翌年秀吉との講和を余儀なくされた。同年、家督を子・元長に譲って隠退。同14/1586年、秀吉の強い意向を受けて九州に出征し豊前小倉の陣中で没した。
 松山市古三津に、慶長5/1600年の三津「刈屋畑」の戦いのときに戦死したとされる「阿部兵庫守(阿部さん)」、「橋本兵庫介(橋本さん)」と呼ばれる墓(塚)がある。この二人の出自については定かでないが、名前で検索すると、阿部兵庫守は、因幡国(鳥取県)高草郡玉津城の城主、橋本兵庫介は、但馬国(兵庫県)坂本城の城主と出る。もしかしたら、吉川元春と関係のある人物ではないかと思われる。

 小早川隆景は、毛利元就の三男として、天文2/1533年に安芸の吉田郡山城にて生まれる。天文13/1544年に継嗣のなかった竹原・小早川家を相続し、同19/1550年には小早川繁平の妹を娶り、小早川本家である沼田・小早川家も相続する。
 小早川家は水軍を擁していたため、厳島の戦いでは水軍を率いるとともに、能島・来島両水軍を味方につけるなど、外交能力を大いに発揮している。その後も周防・長門経略や尼子氏との戦いで毛利軍の一翼を担い、兄・元春とともに毛利の両川といわれ重要な役割を果たした。 長兄の毛利隆元が早逝し、父・元就も亡くなり、若年の輝元の代になると、徐々に織田信長が毛利氏の影響力のある播磨や中国地方にまで触手を伸ばし、中国地方経略を担当した羽柴秀吉は、毛利家の味方を次々に降し、備前の宇喜多直家までも織田氏についたため、ますます毛利氏は織田氏に対して劣勢となっていった。そして天正10/1582年、秀吉軍が毛利方・清水宗治が籠もる備中高松城を包囲すると、この防衛のため、隆景は兄・元春、当主の輝元とともに毛利本隊4万を率いて救援に向かった。しかし事は急変し、本能寺の変が起こったため、秀吉は毛利家側と早急に講和を締結し、すぐに撤収を開始するが、毛利氏にもすぐに本能寺の変の報せがもたらされ、毛利軍内では秀吉追撃の声があがったが、これを強く抑えたのが隆景であった。
 そして秀吉が明智光秀・柴田勝家を相次いで滅ぼすと、毛利家は秀吉に従っていくこととなるが、特に隆景は積極的に秀吉に協力していった。このことが後の豊臣政権での毛利氏の安泰、隆景の栄進へとつながっていくのである。
 天正13/1585年の秀吉による四国攻めで隆景は伊予に渡り、金子氏などを降し、道後湯築城の河野氏を攻めた。河野氏は進退意見がまとまらず、小田原評定の如く湯築城内に篭城するが、小早川隆景の勧めもあって約1ヶ月後、小早川勢に降伏した。この際通直は城内にいた子供45人の助命嘆願のため自ら先頭に立って、隆景に謁見したという。通直は命こそ助けられたが、所領は没収され、ここに伊予の大名として君臨した河野氏は滅亡した。通直は隆景の本拠地である竹原にて天正15/1587年に病死した。なお、隆景が通直を弔った墓は竹原・長生寺に現存している。後に、毛利輝元は、宍戸元秀の子を河野通直の後継者とし、養子に迎え河野通軌を名乗らせ、慶長5/1600年の「刈屋畑の戦い」における毛利連合軍の名目上の総大将とした。
 隆景は、これらの功で秀吉により伊予国35万石が与えられたが、その後、九州征伐にも参戦し筑前一国と筑後・肥前の各二郡に転封され37万石を有した。しかし、秀吉は隆景を一大名として扱い毛利氏と離間させようとしたが、隆景自身は主家である毛利氏の安泰こそが第一と考え、当主・輝元をよく補佐し、時には厳しく教育したといわれる。
 文禄4年(1595年)に豊臣秀吉が発令した「御掟」五ヶ条と「御掟追加」九ヶ条において、徳川家康や前田利家等と共に五大老の一人に任じられた。 その後、秀俊改め秀秋に家督を譲って隠居し、家臣団と共に三原に移る。その際、秀吉から筑前に5万石という破格の隠居料を拝領する。その際、名島城を大改修して居城とした。慶長2年(1597年)6月12日急逝。享年65。死因は卒中といわれている。
 
 安国寺恵瓊は、戦国時代から安土桃山時代にかけての僧で、「安国寺」は、住持した安芸国安国寺の名である。毛利氏の外交僧(武家の対外交渉の任を務めた禅僧)として豊臣(羽柴)秀吉との交渉窓口となった。
 天正13/1585年1月、毛利氏が秀吉に正式に臣従する際の交渉を務めて、秀吉から賞賛された。このころすでに秀吉側近となっていた恵瓊は四国征伐後、伊予国和気郡に2万3,000石を与えられ、天正14/1586年の秀吉の九州征伐後は6万石に加増され、僧でありながら豊臣大名という異例の位置付となった。
 恵瓊は、関ヶ原の戦いでは、毛利秀元・吉川広家とともに、徳川家康軍の後方に陣取ったが、前に布陣する広家が家康に密かに通じて、毛利軍の参戦を阻んだため、結局戦闘に参加することなく、西軍は敗北した 
 敗北後、恵瓊は一旦毛利本家の陣に赴き、吉川広家に諭され逃亡し鞍馬寺・本願寺と匿われ京都の六条辺に潜んでいたが捕縛され、大津にいた家康の陣所に送られ、西軍首脳の1人として、石田三成・小西行長と共に六条河原にて斬首された。
2014・7・26(文・小宮政雄)


毛利輝元 吉川元春 小早川隆景 安国寺恵瓊


HANAKO

    ♦ NHK朝ドラ・「花子とアン」と「愚陀仏庵」の本当の話 ♦    
 5月5日に放送された1シーンで、主人公・安東はな(演・吉高由里子)の親友となる葉山蓮子(演・仲間由紀恵)に、兄より強引に縁談を持ち込まれる。相手は一炭鉱夫より叩き上げた九州の炭鉱王と呼ばれる炭鉱成金(実在は伊藤伝右衛門)である。

 葉山蓮子は、柳原燁子(あきこ)(1885~1967)という実在した女性で、父は柳原前光伯爵。母は旧士族ではあるが前光伯の妾で柳橋の芸者・奥津りょうである(燁子3歳のとき死去)。品川の種物問屋の商家に里子に出された後、6歳になり柳原家に引き取られ華族の娘として躾けられる。

 燁子(蓮子)は、九州の炭鉱王に嫁がされた後、その美貌と教養により一躍、九州一の社交界の華となる。一方私生活では夫の女性問題で屈辱的な結婚生活を強いられ、加えて複雑な家族関係に悩み憤懣と孤独を短歌創作に託した。短歌は歌人の佐佐木信綱に師事し、女流歌人・柳原白蓮として、自らの私生活を赤裸々に作品に表現し多くの歌集を出版する。

 この様なとき、松山出身の久保より江という女性が、白蓮と同じ地の福岡でホトトギス同人の女流俳人として活躍していた。より江は「愚陀仏庵」の大家・上野義方の孫娘として12歳のとき、漱石と子規がこの下宿に同居していたころよく出入りしていた。やがて、より江は上京し、府立第二高等女学校を卒業して、その後、九州帝大教授(医学博士・耳鼻咽喉科)で歌人として知られていた久保猪之吉に縁あって嫁いた。柳原白蓮と久保より江は、九州社交界の華として白蓮は「筑紫の女王」と呼ばれ、より江はベゴニアを愛したことから「ベゴニヤ夫人」と呼ばれて、同じ趣味を持つ二人は詩友としてたちまち親しくなって行く。

 白蓮(燁子)については、もうひとつの逸話が有る。夏目漱石の弟子・松根東洋城との事である。当時の華族は、大名華族と経済的に苦しい公家華族があった。柳原前光は東洋城の祖父で大蔵卿・伊達宗城の長女・初子と結婚していたので伊達家の経済援助により困窮することは無かった。燁子16歳のとき、北小路家という貧乏公家に厭々嫁がされるが5年後、男子ひとりを残して離婚し柳原家に出戻ったが離婚を恥じる伯爵家は初子の隠居部屋に燁子を幽閉する。燁子21歳のとき再び縁談が持ち込まれるが燁子は結婚はこりごりと強硬に拒否するが、初子の判断により燁子は東洋英和女学校に入学して寄宿生活を送る。そして腹心の友となる安東はな(演・吉高由合子)と出会う。

 東京時代の松根東洋城は伯母・初子の嫁ぎ先の柳原伯爵家に寄寓したが、この時燁子が出戻っていて二人は出会う。東洋城は、燁子に恋心を懐くようになりやがて結婚を考えるようになり母・敏(伊達宗城次女、城代家老・松根城臣妻女)に許しを乞うが、松根家に相応しくないと猛反対に遭う。この事で東洋城(豊次郎)は母への反抗心からか嫡男であるにも関わらず生涯独身を通した。 妻もたぬ我と定めぬ秋の暮れ  詠んだ。

 「愚陀仏庵」から~久保より江~燁子(白蓮)~東洋城~漱石へと一本の糸で繋がっている事を感じながら、放送中の「花子とアン」の物語が今後どのような展開になって行くか興味を持って見ている。言うまでもなく劇中の、‘安東はな,は後に、「赤毛のアン」を翻訳する村岡花子である。

2014・5・5(文・岩井仁茂)

村岡花子 柳原燁子 復元された愚陀仏庵
(平成22年倒壊)
二番町の愚陀仏庵
(昭和20年戦災で焼失)
松根東洋城



YAE

    ♦ NHK大河ドラマ・「八重の桜」の「伊勢牧師の松山伝道」の話 ♦    
(伊勢時雄の生涯)
 伊勢時雄(ときお)は、安政4年(1857)、熊本藩士・儒学者/横井小楠(しょうなん)の長男として肥後国に生まれる。時雄の母と徳富蘇峰・蘆花の母は姉妹であるため、時雄と蘇峰・蘆花兄弟は従弟になる。最初の妻は山本覚馬の次女/みねで、後妻は柳瀬義富の五女/豊。妹/みやは、海老名弾正の妻である。明治2年(1869)、父/小楠が、「日本をキリスト教化しようとしている」と思い込んだ十津川郷士により暗殺され、時雄は、これ以後、姓を伊勢に変え伊勢時雄と名乗った。
 時雄は最初、熊本洋学校に学び、明治9年(1876)には熊本バンドの結成に参加するが、熊本洋学校が廃校になると熊本バンドの一員として同志社英学校に転入して新島襄から教えを受ける。

 明治12年(1879)に同志社英学校を卒業の後、伝道者として愛媛県今治市に赴任し道活動を行い、アメリカン・ボードの宣教師/アッキンソンが設立した「今治協会」の初代牧師となる。

 明治14年(1881)、山本覚馬の娘/みねと結婚。明治16年(1883)には長女/悦子が生まれ、明治20年(1887)には長男/平馬が誕生するが、妻/みねは、産後の肥立ちが悪く、24歳の若さで亡くなってしまう。長男/平馬は、後に山本家の養嗣子となる。

 明治19年(1886)、今治教会牧師を辞任し、同志社英学校の教師を経たのちに、明治20年(1887)に再上京し、帰郷した義弟/海老名弾正に代わり、本郷教会の牧師をつとめる傍ら、『基督教新聞』・『六合雑誌』の編集にも携わったほか、内村鑑三を支援した。

 時雄は明治22年(1889)に横井姓に戻り、また、この頃から自由主義神学思想に傾倒し、明治27年(1894)には、その思想を鮮明に打ち出した『我邦の基督教問題』を著した。

 明治30年(1897)、丁酉懇話会の設立に加わり、同年、同志社第3代社長(現、総長)に就任するが、明治32年(1899)に辞職した後、官界に転身し逓信省官房長を務めた。明治36年(1903)、岡山選挙区より、立憲政友会公認で衆議院議員選挙に立候補し当選を果たした。

 明治42年(1909)、日本製糖汚職事件で逮捕、有罪判決を受け、同年5月に衆議院議員を辞職した。その後、雑誌『時代思潮』を発行したほか『東京日日新聞』の主幹もつとめた。大正8年(1919)、パリ講和会議に出席。その後、脳溢血で倒れ闘病生活を送っていたが、昭和2年(1927)、療養先の大分県別府市で亡くなった。享年70歳。

(伊勢牧師・二宮牧師の松山伝道) 

 明治12年(1879)に同志社英学校を卒業の後、伝道者として今治市に赴任した伊勢時雄は、同年、アメリカン・ボードの宣教師/アッキンソンが設立した今治協会の初代牧師となり、牧師として松山伝道を開始した。当初は、智環学校の校舎や寺を借りて集会を行った。

 明治15年(1882)、今治教会の牧師/二宮邦次郎が、松山伝道の驀進を開始し、明治17年(1884)には、大街道一丁目の寄席(遠山寄席と思われる)を借り受け講義所とし、二宮牧師を中心に毎週定期集会を開いた。

 明治18年(1885)、二宮邦次郎牧師を初代牧師として招へいし、松山教会(松山第一基督教会)が生まれた。この時、当地の信者は52名であったと伝えられている。

 その翌年の明治19年(1886)、伊勢牧師は今治教会牧師を辞任した。同年、二宮牧師は、キリスト教女子教育に着手し、同年、私立「松山女学校」(現、松山東雲学園)を設立した。

 明治24年(1891)、松山女学校教師のミス・ジャジソンが、二宮牧師の支援のもとに、「松山夜間学校」(現、松山城南高等学校)を設立。

 昭和61年(1986)、教会堂を松山市味酒町の現在地に移転し、今日に至っている。

2014・5・7(文・小宮政雄)


新島譲 山本みね 二宮邦次郎 松山教会
松山市味酒町



KAIZOKU

 本屋大賞受賞『村上海賊の娘』の登場人物と三津浜の史跡の話 ♦
(石山本願寺第十一代/顕如上人と河野通定・通秀)
 本願寺第八代/蓮如上人を敬慕していた河野通定(鹿島城主)は河野本家の家督争いを嘆き、城と領地を捨てて中西村(現、松山市北条中西内)に蟄居していた。
 元亀元年(1570)、天下統一を掲げる織田信長と、本願寺第十一代/顕如上人率いる石山本願寺が戦った「石山合戦」が起ったとき、四国の地からいち早く駆けつけたのが河野通定とその子・通秀であった。二人は籠城に加わり顕如上人を助け、多くの門徒と共に戦ったが信長軍に包囲された本願寺は、中国の毛利氏に支援を要請した。毛利氏は、直ちに援軍と兵糧などを海上輸送したが、この主力となったのが、河野水軍・村上水軍であった。この戦いは、天正8年(1580)、和睦によって終結した。

 天正元年(1573)、顕如上人から通定・通秀に法名が授けられた。その後二人は国に帰り、中西の館を「蓮華室」と名付け、念仏のみを風早の人々に教える日々を送り、その往生浄土の法は広く風早郡中に広まった。後に居を柳原に移し、寺号を「専念寺」と改めた。

 慶長十年(1605)、松山城主・加藤嘉明の招請により、海路の要地である三津浜の現在地に寺基を移した。

 寛永十年(1633)、本願寺第十三代/良如上人から、石山合戦における通定・通秀の功績により、「定秀寺」の寺号を賜った。定秀寺定は通定の「定」・秀は通秀の「秀」ということである。

(村上景の父/村上武吉、兄/村上元吉と三津「苅屋畑の戦い」) 

「苅屋畑の戦い」(苅屋口の戦い)は、別名「伊予の関ヶ原」ともいわれ、東軍方の加藤勢と西軍方の毛利勢とが、現在の古三津を主戦場に戦った大規模な合戦である。

 天下分け目の戦いと云われる「関ヶ原の合戦」が起こったのは、慶長5年(1600)9月15日であり、伊予正木(後、松前)の城主・加藤嘉明は東軍に加わり、その決戦の地にあった。

 西軍の盟主・毛利輝元は、嘉明の不在に乗じて正木城を接収しようとして、宍戸景好(毛利輝元の重臣)、村上武吉(村上景の父)(能島村上の当主=村上海賊を最盛期に導く)、村上元吉(村上景の兄)(能島城主)、村上吉忠(因島村上の当主/村上吉充の弟)、曽根高房(河野家遺臣)らに加藤領への侵攻を命じた。

 9月15日、毛利勢3,500余騎は松山沖の興居島に集合し、村上親子と宍戸景好は、同日付で連署して、正木の豪商・武井宗意らに充て書状を発し、「加藤方についた場合は、妻子以下みな討ち果たすであろう」と述べて、自軍への降伏を求めた。

 翌16日、三津浜に上陸し古三津の苅屋口の民家に兵を散宿させた毛利勢は、曽根高房を使者として派遣、豊臣秀頼の朱印状を示して正木城の明け渡しを迫った。

 嘉明の留守を預かる加藤忠明(嘉明弟)・佃十成(嘉明重臣)らは、明日返答する旨を毛利勢に伝え、間者を放って流言蜚語を流して毛利勢を油断させ16日深夜に急襲した。三津の苅屋畑で両軍の激戦がくり広げられ、毛利方の村上元吉・村上吉忠・曽根高房ら,多くの武将が討死した。
 戦闘はさらに久米郡如来寺・浮穴郡荏原城・和気郡山越付近・温泉郡道後山でも続いたが毛利勢は連敗し、風早浦から来島村上の支援を受け、船で安芸国/竹原へ退却した。

 この戦いが猛烈であったことは、その戦死者が多いのでも想像ができる。戦場となった刈屋畑は今は市街化されているが、三津の苅屋町辺りから古三津全体にかけて、戦死者の祠が多い。以前は、一軒に一つや二つは必ずあり、多いところでは十を数える家もあったという。

2014・5・7(文・小宮政雄)


定秀寺
松山市神田町
村上武吉 村上元吉の銅像
村上水軍博物館
村上元吉の塚
松山市古三津







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