2011 俳句甲子園 第14回 全国大会が8月20(土)、21日(日) 開催され、東京都開成高等学校Aが2年連続6度目の優勝を果たした。第10回大会につづいて、愛知県幸田高等学校が準優勝に泣いた。

 21日(日)は、会場を松山市大街道商店街から松山市総合コミュニティーセンターキャメリアホールに移し、敗者復活戦、準決勝、決勝があり、開成高校Aチームが 3−2で幸田高校を下し過去最多124校の頂点に立った。

 一夜明けた22日(月)は前日までの悪天候から一転好天気に恵まれ、俳句バトルを戦わせた「俳句戦士」8校53人を私たち「松山観光ボランティアガイドの会」「萬翠荘・子規と漱石ゆかりの地めぐり」をご案内した。

『萬翠荘・子規と漱石ゆかりの地めぐり コース』 (坂の上の雲ミュージアムをスタート、ゴール 1.5H)                                               

  萬翠荘  →  愛松亭跡  →  愛媛県庁  →  松山中学校跡  → 松風会発祥の地  →  城戸屋旅館  →  愚陀仏庵跡  →  新栄座跡

       

≪伊予鉄道(株)の市内電車≫

最近はラッピングしており、いろんな「俳句甲子園」などイベント情報を発信しています。

   

 

 ≪三重県 高田高等学校のみなさん≫

 

 

≪青森県 柴田女子高等学校のみなさん≫ 

 

 ≪東京都 吉祥女子高等学校のみなさん≫

 

 ≪大阪府立吹田東高等学校のみなさん≫

 

≪北海道旭川東高等学校のみなさん≫

 

 ≪秋田県立能代高等学校のみなさん≫

 

 

 ≪福岡県立三潴高等学校のみなさん≫

 

 ≪神奈川県立厚木東高等学校Aのみなさん≫

 

≪神奈川県立厚木東高等学校Bのみなさん≫

 

『私達が案内しました』 

 (写真の挿入準備中)
 

 

 

芳野友紀

  松山をオモシロ写真に分析するカメラマン。そのカメラ目線で松山を   

  ご案内します。
友近 博

  平成の居眠り狂四朗、人間子規に焦点を当てた語りが出来ないか勉強中

田中寿利

  ガイドのジュリー、歌は無理でも怒涛の喋りならご本家に負けません。 

  お任せあれ。

森松隆子

  女性を束ねるゴッドマザー、女性ならではの目線で松山を楽しくご案内
します。

鹿瀬昭作

  若い女性なら私にお任せ!!硬軟織り交ぜて松山をご案内します。
石崎博隆

  只今ユーモア―を研究中、愚陀仏庵での漱石と子規の青春を語ります。
大西修史

  とにかくゴールに辿り着く、走る広告塔!この松山を駆ける足でご案内

  します。

橋本修二

郷土の偉人「正岡子規」の生まれた町・松山を、持てる知識を情熱をもってガイドし

ます。
岩井仁茂

  理想に燃え昭和の「坂の上の雲」を追う初代会長、ガイドの真髄を語り

  ます。
小宮政雄

  「坂の上の雲」のガイドはお任せ下さい!!!老骨にむち打って明治松山

   の人間模様を語ります。

北村眞美

  まだまだ駆け出しのガイド歴2年、来年は皆様をご案内します、松山に

  帰って来て下さい。 

山本幸子

  ガイド歴○十年、皆様をご案内しながら、幸子色で幸せにしてみせま

  す。

  

『ガイドスポットの簡単な紹介』

萬翠荘
大正11(1922)旧松山藩主・久松家16代当主の久松定謨伯爵が別邸として金銭に糸目をつけず贅を尽くして建てた。迎賓館としても使用され、摂政の宮・裕仁親王(昭和天皇)が宿泊されるなど当時は最高の社交場であった。フランス風西洋建築でありながら日本人の美意識を取り入れ、左右非対称・縦横の比率が11.618の黄金比となっている。一見の価値あり。

          

 

愛松亭跡

漱石が明治28(1895)49日に松山中学の英語の教師として赴任して来た時、愛松亭(小料理屋)2階に約2ヶ月ばかり住んでいた。小説坊っちゃんには骨董を売買する「いか銀」の下宿として登場する。ここで虚子とは3年ぶりに再会し、漱石が熊本に転任する明治294月には虚子と広島まで同行する。漱石28歳、虚子21歳である。

ここから、恩師神田及武宛書簡(碑がある)や子規宛ての書簡を出している。

いずれも、漱石らしい文面で綴られている。

 

                                                  

                     

 

   高浜年尾の句碑

    「松山や父の故郷月もよし」

    虚子の長男で子規が名付け親である。ホトトギス1000号を目前に昭和54

    年に78才で亡くなる。

 

 

                                                 

 

 

柳原極堂の句碑

    「城山や筍のびし垣のうえ」

    極堂は明治301月月刊誌『ほととぎす』を創刊する。子規の提唱する俳  

    句の新派を継承する松風会を援護するために創刊する。また、一生を子

    規の顕彰に捧げた。

 

                                            

 

愛媛県庁

昭和4(1929)萬翠荘と同じく木子七郎の設計による建物で、こちらは左右対称になっている。玄関ポーチはまさに萬翠荘とそっくりである。2階ロビーの床や階段は大理石で出来ておりアンモナイトの化石を探すのも面白い。

また、「世界の中心で、愛をさけぶ」のロケ現場でもありカップルのパワースポットになっている。

 

        

 

 

松山中学跡

藩政時代に創設された藩校「明教館」や維新後に設立された勝山小学校、松山中学などがあった。

好古は七歳で明教館の幼年部の養成舎に入る。勝山小学校では子規や真之も学んだ。

松山中学校には明治28年4月に英語の教師として漱石が赴任し、一年間教鞭をとる。ここでの出来事を面白可笑しく書いた小説「坊っちゃん」が誕生する。

漱石が松山を離れる時に詠んだ「わかるるや一鳥啼いて雲にいる」の句碑と当時をしのぶユウカリの木が保存されている。

ここから眺める坊っちゃん列車を背景にした松山城は絶景のビューポイントである。

 

                                                     

 

松風会発祥の地

明治27(1894)松山高等小学校(現、番町小学校)の校長・中村一義(愛松)と同教員・野間門三郎(叟柳)、伴政孝(狸伴)の三人が主導者になり、子規直系の日本派俳句結社「松風会」が発足した。

番町小学校には、子規の「旅たちの像」や子規、虚子の句碑もある。

「新派俳句とは」と子規に尋ねると子規は俳句で答えたという、さてその俳句とは・・・・・・・??

 

 

                                                      

 

城戸屋旅館

小説「坊っちゃん」にも登場する「山城屋」のモデルで、当時松山では超一流の旅館であった。昭和20年の松山大空襲で全焼し、現在の建物は昭和28年に約3分の1の大きさで再建、2階に「坊っちゃんの間」が忠実に復元されている。漱石や真之も宿泊している。城戸屋旅館には「竹の間」といわれる「試験室」あったそうな!!詳しくはガイドに聞いてみよう。

 

                                                          

 

 

愚陀仏庵跡

子規と漱石が52日間過ごしたところで、二人の原点がここ松山の愚陀仏庵である。現在は駐車場になっており往時を偲ぶものは何もないが、ガイドの説明と写真や絵図で明治の香りを体験して欲しい。何かの因縁化それとも斉藤茂吉が東京で感じたような赤い糸が、松山と奈良を結んでいる。

この跡地は最近まで「天平」(てんぺい)と言われる料理屋で、奈良は子規が「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」を詠んだのが現在の天平(てんぴょう)クラブの前身の「角貞」である。

ここ愚陀仏庵にはまだまだ面白い話が盛沢山である。「俳句甲子園」で行われるディベートは松風会では既に行われていた。

 

                   

 

 

新栄座跡

新 栄座は大街道の芝居小屋のことで、明治20年に新築開場した。現在の大街道商店街の一番町交差点付近に在り、松山でも屈指の芝居小屋で、歌舞伎公演なども 行われた。道後鉄道の一番町停車場(元、ラフォーレ前辺り)から愚陀仏庵への帰途に位置していたため、子規と漱石は、明治28年10月6日道後散策の帰り 立ち寄った。  

 

                                                         

 

END

 

 

 

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