トップ  >  「テーマ」で探す  >  「俳句・散策集」  >  正岡子規の散策集を歩く  >  正岡子規『散策集』(その二)子規・極堂・愛松・梅屋の御幸寺山山麓散策

愚陀仏庵病院下毘沙門坂常楽寺地蔵堂                                                                    ―千秋寺城北練兵場杉谷町愚陀仏庵

1.散策ルート

 

2.散策場所

(出発) 愚陀仏庵(二番町)

明治廿八年九月二十一日午後      子規子

稍曇りたる空の雨にもならで

愛松・碌堂・梅屋三子に促され

病院下を通りぬけ御幸寺山の麓にて引き返し来る往復口占

二番町の愚陀仏庵を出て、大街道を北へ。中村愛松は松山市立高等小学校の校長、大島梅屋は同校の教員で、日夜、愚陀仏庵に出入りしていた松風会会員。碌堂は柳原極堂のこと。

②  病院下(大街道3丁目)

 この年8月22日に開通したばかりの道後鉄道の一番町停車場を過ぎると、急に寂しくなる。現在、東雲学園の校舎がある場所は、藩政時代は松山城の東郭跡。明治8年から県立病院が建っていたので、この一帯を「病院下」と称した。

 

旧「病院下」(現在の大街道3丁目「ロープウェイ街」

 秋の城 山は赤松 ばかり哉

句の「城」は、いうまでもなく松山城。「山は赤松ばかり哉」は、今と違って、当時の城山は、藩政時代以来アカマツで覆われていた。現在の城山は、シイ、クスノキなどの常緑広葉樹林(県指定天然記念物「松山城山樹叢」)に覆われている。時代を松山城築城以前の中世にまでさかのぼると、当時の城山(勝山)は、荒廃したはげ山であったという。 

③  毘沙門阪

 牛行くや 毘沙門阪の 秋の暮

 ロープウェイ街から愛媛大学方面へ坂を上がってくる途中の三叉路に、この句碑がある東雲神社の石段下辺りに毘沙門堂があったために毘沙門坂と呼ばれていた。この毘沙門堂は、加藤嘉明が築城の際、城の鬼門(東北)を鎮護するために、毘沙門天(四天王の一、多聞天)を祀ったものといわれる。句碑は東雲神社の石段下、字は子規自筆の拡大。

「毘沙門阪」の正岡子規「牛行くや・・」の句碑 

社壇百級 秋の空へと 登る人

「社壇百級」とは、東雲神社の石段ことで、この石段を登り、松山城の天主閣へ向かう人を詠んだもの。東雲神社は、文政6年(1823)に、松平定通によって建立された神社で、その石段は201段もあって、高く見上げると澄み切った秋の空へと届いているように見える。

 

 東雲神社の石段

毘沙門堂があった辺りを過ぎると、左は杉谷町、右は常楽寺(六角堂)、道後への道に分かれて行く。

④  常楽寺(六角堂)

常楽寺二句

 狸死に 狐留守なり 秋の風

  松が根になまめき立てる芙蓉哉

常楽寺は、天台宗寺門派で一般に六角堂と称している京都の六角堂の様式を取り入れている。
境内には、加藤嘉明が鬼門除けに植えたという榎があり、「お榎さん」と称し市役所前のお榎さんと霊が通じ諸願成就すると云い、狸がいると信じられていた。なお、市役所前堀端の榎の大木は、八股に別れて、中は空洞で風の吹き抜ける道でもあった。

 

 常楽寺(六角堂)

 箒木の 箒にもならず 秋暮ぬ

ところところ 家かたまりぬ 稲の中

稲の花 四五人かたりつゝ 歩行く

道の辺や 荊かくれに 野菊咲く

⑤  地蔵堂

常楽寺を過ぎ、道後街道をはずれ北へ行くと、今も残っている上一万の地蔵堂の前に出る。

道堂崩れて 地蔵残りぬ 草の花

 

地蔵堂(上一万)

地蔵堂前を過ぎると、西は、6万7千8百坪もある広大な城北練兵場があったが、今は、日赤病院、愛媛大学をはじめとする学校群に一変している。

練兵場の東外郭に沿って、子規ら一行は北進し、道後鉄道・古町線の鉄道を越え左折して、御幸寺山の麓を西へ向かった。

 子規たちが歩いた野川(大川)に沿った道は、石手寺から太山寺への遍路道で、今の護国神社の前を東西に続くみ地であるが、当時は道幅も狭く、草かくれに流れる川の水も澄んでいた。

道はたに 蔓草まとふ 木槿かな

叢や きよろりとしる 曼珠沙花

蓼の穂や裸子桶をさげて行く

 

千秋寺前の野川(昭和5年頃)

  秋水二句いづれにか定め侍らん

静かさに礫うちけり秋の水

投げこんだ礫沈みぬ秋の水

⑥  千秋寺

山本や 寺は黄檗 杉は秋

「山本」は、御幸寺山の麓のこと。そこにある千秋寺は黄檗宗の名刹。貞亨2年(1685)に、松平四代藩主・定直が建立。七堂伽藍二十余塔、「松山に過ぎたるもの・・」と謡われた。昔日の面影はなく、山門の「海南法窟」の額は、開基・即非の書。山門は、杉並木とともに戦災を免れたが、有名な杉並木も、今は枯渇してしまって全く残っていない。 

千秋寺の山門と杉の木(昭和30年代) 

画をかきし 僧今あらず 寺の秋

「画をかきし僧」は,明治17年(1884)、64歳で没した当時18代の住職周道和尚のこと。子規散策の明治28年からみれば,10年ほど前に周道は,遷化している。南画をよく画いた周道には、子規の外祖父・大原観山や,子規が書の師として尊敬していた武智五友との合作の作品もあることから、子規には余計に懐かしかったことと思われる。子規の二句一基の碑は、昭和45年春 松山子規会建。文字は『寒山落木』の子規の自筆拡大。


子規の句碑

秋の水 天狗の影や うつるらん

東雲神社口から毘沙門阪を真北に越えると、その先には護国神社の後背に御幸寺山(海抜164m)が見える。御幸寺山には、古来より「天狗の棲む山」とか「首なし馬に跨る妖怪」噺がこの地に伝わる。正岡子規もこの句以外にも、

天狗泣き 天狗笑ふや 秋の風
秋の山 御幸寺と申し 天狗住む  

と詠んでいる。


 護国神社の参道より見た御幸寺山

千秋寺から練兵場を斜めに横切り、お城山の方へ向いて歩く。子規はかってこの練兵場で、ベースボールをしたことがあった。

 松山の城を載せたり稲むしろ 

やがて右手 城山の麓に、松山城の北郭が望める。この郭は、加藤嘉明の重臣・佃一成の屋敷跡で、今の平和通りに面している。昔は、「花の家」と謡われた栄華の名残りの「高石懸」も、幾変遷を経て消滅してしまった。 

秋の日の 高石懸に 落ちにけり

在りし日の高石懸

⑦ 城北練兵場

草の花 練兵場は 荒れにかり

 子規は松山に野球を初めて紹介した。小説『坂の上の雲』では、城北練兵場で虚子が子規の野球をする姿を目撃しているシーンが描かれている。練兵場は、現在の愛媛大学城北キャンパス・松山赤十字病院・松山東中学校あたりで、日露戦争の時には、城北バラックといわれるロシア兵捕虜収容所が設置された。

日露戦争の時、城北練兵場に建てられたバラック病棟


⑧ 杉谷町

武家町の 畠になりぬ 秋茄子

人もなし 杉谷町の 藪の秋

杉谷町(現、緑町)は、城山の北の麓、東雲神社の山裾に続く通り。当時は竹藪が風にそよぎ、崩れかけた土塀、取り壊された武家屋敷など、また、ところどころに野菜畑などがあり、人通りもまれな武家町で、今の町の姿からは、想像もつかない別転地であった。

 

旧杉谷町(現、緑町)

⑨ (最終点)愚陀庵

今回の御幸寺山の麓散策で、子規が詠んだ句は、杉谷町で終わっており、その後は、来た道を通って、愚陀仏庵へ戻ったものと思われる。

愚陀仏庵跡碑

 

 

(このコースに関する問合わせ先) komiya@orange.ocn.ne.jp


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