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愚陀仏庵藤野邸大原邸蓮福寺滝の観音浦屋雲林邸                                             ー石手川土手焼場刑務所薬師寺愚陀仏庵

  1.散策ルート

 2.散策場所

(出発)愚陀仏庵

 

松山市二番町の愚陀仏庵跡(説明板)

明治廿八年十月二日            子規子

前月の末より日毎日毎雨のみふりまさりたるが ニ三日は逆上の気味にて

寝つ起きつ運座連俳などに心をつからせしたためにやせ

ニ五日の朝鼻血したゝかに出でたりやがて血もとまりければ

其日も例の如く連俳運座に暮らし

翌二六日の朝は逆上の人朝がほに遊ぶべしなど

戯れしが此日も前日の如く血おびただしく出てぬ

さりとて訪れ来る人をことわらん程にもあらねば

午後は連俳の衆に向ひかにかくと説きつ笑ひつする程に

ともすれば鼻血一滴二滴落つる事多く

つひに一坐をことわりて却りて人々に介抱せられなどす

廿七日ハいささかながら鼻血時々やまず

此日よりハ安静を守りて臥し居りしかば

廿八日ハ全くやミぬそれより四五日を経て

天気順にをさまると共に歩に出かけまほしくて

② 藤野漸邸(旧大原観山邸)

 十月二日只ひとり午後より寓居を出て藤野に憩ひ

 藤野は、子規の叔父・藤野漸の家。現在の松山中央郵便局の横を千舟町に出る道の東側で、幼時、子規が漢学を学んだ外祖父・大原観山の旧邸跡である。

   

   藤野漸邸(旧大原観山邸)跡(三番町)

 ③ 大原恒徳邸

大原にいこひそこより郊外に出でんと

中の川を渡り八軒家を過ぎ

汽車道に添ふて石手川の土手に上る道々の句

大原は、湊町新町の叔父・大原恒徳の家で、中の川の子規の生い立ちの家に近い。当時の中の川は、川幅が広く、水も清く豊かであった。

木槿咲く 塀や昔の 武家屋敷

朝顔や 裏這ひまはる 八軒家

大根の 二葉に秋の 日さしかな

子規は、明治16年、16歳のとき、松山中学校を中途退学して上京した。その後、子規の育った家には、母・八重と妹・律が住んでいたが、しばらくして、大原家の敷地内に家を建て移り住んだ。明治25年に、子規が帰省したとき、夏目漱石と一緒の八重がつくった松山鮨を食べたのは、この家である。しかし、母と妹は、すでに東京の子規の家に移ってしまっているので、ここにはいない。

   大原恒徳家の敷地内にあった子規の母・妹の住居跡

中の川の蓮福寺の横を南に曲がるあたりが八軒家で、今は、地名も載っていない。木槿咲く塀や朝顔がからむ垣根などは、今日では想像もつかないが、子規が散策した当時の寺の裏は、稲田や大根畑が広がっていた。

八軒家辺り(現、松山市春日町)

④ 蓮福寺

 真宗の 伽藍いかめし 稲の花

「真宗の伽藍 」とは、浄土真宗・蓮福寺の堂宇のこと。この寺は、子規の叔父・拓川が家系を継いだ加藤家の菩提寺である。また、蓮福寺は、池内家(高浜虚子の実家)や水野広徳の墓所でもある。

子規の「真宗の・・」の句碑(相向寺)

この句碑のある相向寺には、加藤拓川の墓がある。相向寺も蓮福寺と同じ真宗(本願寺派)の寺である。句碑の文字は句集「寒山落木」の自筆拡大。

  蓮福寺から八軒家を南下すると、直ぐに伊予鉄道・横河原線に出る。「・・汽車道をありけば・・」とあるが、当時の古地図を見れば、線路の両側に道があり、今も同じである。

汽車道を ありけば近し 稲の花

明治26年に開通した伊予鉄道・横河原線

 滝の観音

滝の観音

  線香の 煙に向ふ 蜻蛉かな

 現在の泉町公民館

後に「滝の観音」は、薬師寺境内に移されたが今はない。戦災後まで、石積みの地蔵尊があったが、今は泉町集会所になっている。現在は、薬師寺の本堂の前に、新たな観音像が建てられている。

浦屋雲林邸跡

 

浦屋雲林邸跡

浦屋先生村居の前を過ぎりて

花木槿 雲林先生 恙なきや

稲の花 今津の海の 光けり

 「滝の観音」の東手に現在の柳井町にあるNTT社宅跡あたりに子規の漢詩の師・浦屋雲林の村居があった。敷地面積700坪、その中に210坪の池があったというから、広大な屋敷であった。邸内の池は、清冽な冷泉のわく泉であったことから、後に料亭「亀の井」になったが、戦災後は跡もとどめぬ住宅街となった。雲林は、明治31年10月15日没であるので、子規が散策した明治28年にはまだ存命したはずであるが、 散策集の前書に「・・前を過ぎりて・・」とあるので、会っていないものと思われる。

⑦ 石手川土手

子規は、浦屋雲林邸を過ぎて後、石手川の土手に上った。上がった場所は定かではないが、明治36年の古地図から想定すると、立花橋と伊予鉄道の石手川鉄橋の間あたりであろうと思われる。

今も残る伊予鉄道下のトンネル(泉町)

焼場 

 土手にそふて西すること二三町 焼場のわたりより

 「焼場」のあった場所は、古地図によると、現在の県立中央病院の横を南下して石手川を渡る末広橋の右手辺りに「市立火葬場」というのがあり、恐らくこのことであろうが、今ここは、市街地化してしまって、子規が散策した当時焼場の面影は跡形もない。

石手川土手にあった「焼場」

⑨ 監獄署

監獄署の裏に出て

焼場の付近で石手川土手を下りた子規は、現在の県立病院の所にあった監獄署の横を通って薬師寺へ向った。監獄署は今の刑務所で、子規が訪れた当時は、高い塀をめぐらせた古城砦のような景色であったようである。

 

昭和47年まで松山市春日町にあった松山刑務所 

 子規が散策した当時の監獄署は、大正11年に名称が「松山刑務所」に変更された後、昭和47年に東温市見奈良に移転され、その跡地には、昭和49年に、現在の県立中央病院が新設された。

 ⑦~⑨の間の散策で子規が詠んだ句

代わるがわる 礫うちたる 木の実哉

牛の群れて草喰い居る傍らに曼珠沙花の夥しく咲き出しを

ひょっと葉は 牛が喰うたか 曼珠沙花

四本五本 はてはものうし 曼珠沙華

草むらや 土手のある限り 曼珠沙花

砂川や 浅瀬に魚の 肌寒し

花痩せぬ 秋にわずらふ 野撫子

馬士去て 鵙鳴て土手の 淋しさよ

石塔の 沈めるも見えて 秋の水

豊年や 稲の穂がくれ 雀鳴く

秋風や 焼場のあとの 卵塔場

庄屋殿の 棺行くなり 稲の中

赤い曼珠沙華が咲き続いていたり、水の中に石塔が沈んでいたり、はては、稲田の道をかつがれて行く棺に出会ったり、焼場あたりは昼なお薄気味悪い所であった。

曼珠沙華(花) : 彼岸花のこと。この名は、秋の彼岸ごろから開花することに由来する。別名の曼珠沙華(花)(まんじゅしゃげ/まんじゅしゃか)は、法華経などの仏典に由来する。馬士(ばし) : 馬に荷を引かせて運ぶことを職業とするもの。馬方、馬小。卵塔場(らんとうば) : 卵塔とは、台座の上に卵形の塔身をのせた墓石で、禅僧の墓石に多く用いられる。卵塔場とは、墓地、墓所のこと。

薬師寺

監獄署の東隣りに薬師寺がある。この寺は、お薬師の名で親しまれた真言宗の寺で、寛永3年、加藤嘉明の建立という。子規は、少年時代にこの寺あたりでよく遊んだ。境内の空を掩うヒョンの老木は、樹齢幾100年、今も昔ながらに繁茂し、本堂は戦災を免れたが、現在の本堂は戦後に建てられたものである。

薬師寺山門・右側に刑務所の塀(昭和45年頃)

薬師二句 

我見しより 久しきひょんの 木の実哉

「ひょん」は、学名イスノキ(柞)、金縷梅(きんさく)科の常緑木。丸い形の実は、じつは虫の巣で、硬い殻に小さな孔が空き、吹くとヒョウと鳴る。

薬師寺境内のヒョンの木

  薬師寺がある泉町の名は、境内にあった冷泉にちなんだもの。こんこんと噴出して青く湛え、夏場には西瓜やトコロテンを売る店が並んだという。子規も子供の頃に食べたことがあるのではないか。

 

かって薬師寺境内にあった池(泉)

古の冷泉があった場所は、現在はお寺の駐車場になっている。かってこの泉町界隈には、石手川の伏流水による泉が何箇所もあったが、今はその姿はほとんど見られない。

 薬師の西より再び八軒家に返る

   (最終)愚陀仏庵

平成22年7月12日に倒壊した萬翠荘裏の愚陀仏庵(昭和59年復元)

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