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 道後鉄道道後地域(地図)道後(温泉)駅道後温泉本館鷺谷墓地鴉渓松ヶ枝町・宝厳寺−道後(温泉)駅−新栄座愚陀仏庵

1.愚陀仏庵(二番町)〜道後(道後鉄道)

子規と漱石は、一番町から道後までは、往復とも、明治28年8月22日に開通したばかりの「道後鉄道」に乗ったものとおもわれる。

  

道後鉄道は明治33年に、松山電気軌道(明治44年開業)は大正10年に、いづれも伊予鉄道に吸収合併されました。現在は、一番町から道後へ行くには、伊予鉄道に乗って行くことになりますが、今は、復元された「坊っちゃん列車」も走っています。また、昔の鉄道の跡を歩いてみるのも面白いと思います。

2.道後地域

 

(1) 伊予鉄道・道後温泉駅(道後鉄道・道後駅)

明治二十八年十月六日     子規子

今日ハ日曜なり。天気は快晴なり。病気は軽快なり。

遊志勃然、漱石と共に道後に遊ぶ。

初代・道後温泉駅(道後鉄道)

三層楼中天に聳えて、来浴の旅人ひきもきらず。

温泉楼上眺望

柿の木にとりまかれたる温泉哉

子規・漱石時代の道後温泉

道後温泉本館は、明治二十七年四月、伊佐庭如矢によって改築され、現在の三層楼となった。子規と漱石が散策した頃の道後は、道後鉄道の開業と新らしい本館の落成が重なり、入浴客も増加していたものと思われる。とにかく二人は、温泉に入った。そして三層楼に上がり、眺望したようである。

(3) 鷺谷墓地 

鷺谷に向ふ

山本やうしろ上りに蕎麦の花

黄檗の山門深き芭蕉哉

道後をふり返りて

稲の穂に温泉の町低し二百軒

しる人の墓を尋ねけるに四五年の月日ハ

北邙の山墳墓を増してつひに見あたらず

花芒墓いづれとも見定めず

大禅寺第六代・春国禅師建立の碑

鷺谷は、道後十六谷の一つで、道後温泉本館の北方向にある丘陵地帯にある。子規と漱石が尋ねたときには、そこには、黄檗宗の鷺谷山・大禅寺があった。境内には、本堂や観音堂、芭蕉天神、蓑毛桜などの名所があったが、今は何も残っていない。鷺谷墓地は、もとは大禅寺の墓地であったが、現在は松山市の共同墓地になっており、秋山好古、伊佐庭如矢など、著名人の墓が多い。

 

現在の鷺谷墓地の秋山好古の墓

子規は、鷺谷墓地にある曾祖母・小島久(父方の曾祖父の後妻)の墓を尋ねたが、見つけることができなかった。

(4) 鴉渓周辺

引き返して鴉渓の花月亭といへるに遊ぶ

柿の木や宮司が宿の門がまえ

百日紅梢ばかりの寒さ哉

亭ところどころ渓の橋ある紅葉かな

八幡馬場(伊佐爾波神社参道)と花月亭(右)

「鴉渓」は、石手から道後に流れる御手洗川沿の渓流で、ここも、道後十六谷の一つで、現在の「ふなや」庭園周辺にあたる。古くから景勝地として知られ、安芸の宮島の紅葉谷になぞらえ「新紅葉」と呼ばれた。

「花月亭」は、鴉渓にあった料亭で、ここで子規と漱石は昼食をとったものと思われる。現在のふなや旅館の前の通りは、当時は八幡馬場と呼ばれ、花月亭などの料亭が並んでいた。

(5) 松枝町・宝厳寺

松枝町を過ぎて宝厳寺に謁づ。ここは一遍上人御誕生の聖地とかや。

古往今来当地出身の第一の豪傑なり。妓廊門前の楊柳往来の人を招かで、

むなしく一遍上人御生地の古碑にしだれかゝりたるもあはれに覚えて

古塚や恋のさめたる柳散る

宝厳寺の山門に腰うちかけて

色里や十歩はなれて秋の風

 

往時の松枝町遊郭(正面の山門が宝厳寺)

松枝町遊郭は、明治10年に、それまで湯乃町にあった妓廊・郭が、ここ宝厳寺の門前に集約され花街となった。遊郭は、昭和33年に廃止された。

「子規と漱石が腰うちかけた」宝厳寺の山門

宝厳寺は、時宗の開祖・一遍上人の生誕地といわれ、一遍上人立像(国重要文化財)が所蔵されている。境内には、その時子規が詠んだ句碑をはじめ、数多くの句碑・歌碑・詩碑が建立されている。

 

3.一番町停車場〜愚陀仏庵(帰途)

 宝厳寺の参拝を終えた二人は、道後駅から汽車に乗って一番町で降り、「大街道の芝居小屋」で芝居見物をしてから、愚陀仏庵に戻った。

3-1 大街道の芝居小屋

「大街道の芝居小屋」は、明治20年に新築開場した「新栄座」のこと。現在の大街道商店街の一番町交差点付近に在り、松山でも屈指の芝居小屋で、歌舞伎公演なども行われた。道後鉄道の一番町停車場(元、ラフォーレ前辺り)から愚陀仏庵への帰途に位置していたため、二人はここに立ち寄ることを思い立ったのであろう。そのとき新栄座では、「てには狂言」といい、能狂言に踊りや俗謡をまじえ、三味線のはやしを加えた演芸を上演していた。

 

日露戦争時代の新栄座

3-2 愚陀仏庵跡

その当時 「愚陀仏庵」は、松山市二番町(「松山三越」北側)にあった。この愚陀仏庵は、昭和20年の松山大空襲の時に焼失してしまい、現在は、駐車場になっており、「夏目漱石寓居愚陀佛庵址」の碑が建っているだけである。

「夏目漱石寓居愚陀佛庵址」の碑

夏目漱石は、明治28年4月、松山中学校の英語教師として赴任し、「城戸屋旅館」から「愛松亭」を経て、7月頃、二番町の上野義方邸の離れ(愚陀仏庵)に移った。その後、日清戦争の従軍記者として中国に赴き、帰途の船中で大喀血し、神戸病院・須磨保養所で療養後松山に戻った子規が、8月、この愚陀仏庵に仮寓し、10月までの50日余、漱石との同居生活が行われた。

 

戦前の「愚陀仏庵」(子規は一階に、漱石は二階に住んでいた)

この間子規は、日本派(子規派)俳句結社・松風会のメンバーに俳句の指導を行い、漱石もその中に入っていった。やがて、日本派俳句は、松風会の会員・柳原極堂が、明治30年に松山で創刊した俳誌「ほととぎす」によって、全国へ広がっていった。また、子規は、愚陀仏庵に逗留中、松山近郊において、5回に亘る吟行を行い、「散策集」として後世に残した。さらに子規は、「俳句大要」の執筆を開始し、後に、日本新聞紙上で発表した。

一方漱石は、生涯に2700句ほどの俳句を詠んでいるが、愚陀仏庵の子規との同居生活以後、もの凄い勢いで俳句を作り出した。俳人・夏目漱石の誕生である。また、漱石は、ここで多くの子規人脈の俳人たちとの親交を得、そのことが、後の文学活動に大きな影響を与えることになる。特に、極堂が松山で創刊した「ほととぎす」を、翌31年に東京に移して継承した高浜虚子は、後に、総合文学誌として再出発した「ホトトギス」に、明治38年に「我輩は猫である」、39年に「坊っちゃん」を発表し大反響を得たことが、文豪・夏目漱石の誕生につながっていったのである。


(このコースに関する問合わせ先) komiya@orange.ocn.ne.jp


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