トップ  >  「テーマ」で探す  >  「俳句・散策集」  >  正岡子規の散策集を歩く  >  正岡子規『散策集』(その五)子規の雄郡・今出・余戸散策

 愚陀仏庵⇒正宗寺雄郡神社御旅所の松鬼子母神日招神社

素我神社竹の宮三島神社村上霽月邸今出の三島神社

今出港 森円月邸愚陀仏庵

 1. 正岡子規の松山近郊散策

 子規は、明治28年(1895)8~10月、5回にわたって松山界隈を散策し、多くの俳句を残した。この子規による松山近郊における吟行により、各地を題材にした句が多く作られ、その一部は、句碑となって残っている。また、この吟行の一部始終は、「散策集」としてまとめられ、刊行されており、多くの俳人および俳句愛好者に愛読されているが、「散策集」刊行秘話については、今日、よく知られているところである。

(第1回) 9月20日から始まった吟行の初日は、極堂と石手寺をめざした。「散策集」には、石手寺の縁に腰かけていると、白い紙を落ちているので、それを開くと、二十四番凶とあり、その中に「病事は、長引く、命にさわりなし」と書いてあったと記されている。                  (第2回) 翌日、9月21日は、極堂、愛松、梅屋とともに、六角堂を経て御幸寺山の麓まで赴いた。                                                                  (第3回) 3回目の吟行は、子規が体調を崩していたこともあり、10月2日に行なわれている。子規ひとりで、親戚の藤野家、大原家を訪ね、中の川、八軒家から石手川の堤に上がり、浦屋雲林邸、監獄署、薬師寺を経て八軒家に戻った。                         (第4回) 10月6日は、漱石とともに道後へ出かけ、温泉、花月亭、松ヶ枝町、宝厳寺と巡り、大街道の芝居小屋で照葉狂言を観た。                                     (第5回) 10月7日子規は、村上霽月を訪問するため、人力車で今出へ出かけた。雄郡神社の近くで森円月に会うが、余戸を過ぎて今出へ到着。昼食の後、霽月とともに浜辺を散策した。夕暮れに今出を発ち、森円月、森河北と会い、夜帰宅した。                 

 2. 垣生/今出散策

〇 愚陀仏庵                                                                                                              明治28年(1895)8月27日、松山中学に赴任中の夏目漱石の下宿愚陀仏庵に、日清戦争に新聞記者として従軍の帰途、船中で大喀血をし神戸・須磨の病院で療養後、小康を得た正岡子規が同居した。子規は、9月末から10月19日に再び上京する間際まで、病気の顔色をうかがいながら、漱石や柳原極堂と、指導していた松風会の会員たちと、あるいは一人で、前後5回の松山近郊の吟行に出かけた。                                                                                                      今出の村上霽月を訪ねたのは10月7日の第5回目の吟行である。この後子規は、亡くなるまで故郷の土を踏むことはなく、これが松山での最後の吟行となった。子規は前日に漱石と道後に出かけており、連日の秋の快晴に誘われた吟行であった。

 明治廿八年十月七日    子規子
 
今出の霽月 一日 我をおとづれて来たれといふ
 
われ行かんと約す期に至れバ 連日霖雨濛濛 我亦褥に臥す
 
爾後十余日 霽月書を以て頻りに我を招く
 
今日七日は 天気快晴心地ひろく すがすがしければ
 
俄かに思い立ちて人車をやとひ 今出へと出で立つ
 
道に一宿を正宗寺に訪ふ 同伴を欲する也 一宿故ありて行かず
 
朝寒や たのもとひゞく 内玄関 
 
 子規は、まず正宗寺に向かった。この日人力車を雇って愚陀仏庵を出た子規は、末広町の正宗寺に寄って住職の釈仏海を誘った。仏海は子規の幼馴染みで俳号を「一宿」という。一宿は都合が悪くて同行できなかった。一宿は、子規の竹馬の友で、生涯にわたって交遊を続けていた。子規の死後の大正15年(1926)には、子規の生い立ちの家である中の川の家の木材の一部を使って、正宗寺境内に子規堂を建てている。子規が訪れた正宗寺本堂の脇の内玄関の前あたりに、そのとき子規が詠んだ「朝寒や たのもとひびく 内玄関」の小さな句碑が建っている。句碑は、昭和28年(1953)10月、正宗寺16代住職・仏海建立。碑の文字は、子規『散策集』所収。
 
 
 
 現在の「朝寒や・・」の句碑
 
 
 
   昭和45年頃の「朝寒や・・」の句碑
 
  この正宗寺の境内・墓地には、「子規堂」をはじめ、「正岡子規埋髪塔」「正岡家累代之墓「鳴雪先生髭塔」「高浜虚子句碑」など、子規ゆかりの建物・墓・碑が集中している。
 
 当神社は、その昔、戦いの兵火により古い記録が焼失したため、創建年代は不詳であるが、社伝によれば、用明天皇元年(586)に、宇佐八幡宮より八幡三神を勧請、合祀したと伝えられる。また『日本三代実録』によれば、元慶2年(878)7月8日の条に、伊予国雄群(おぐり)神に従五位下が奉授されたとある。後三条天皇の御代の延久5年(1073)源頼義が河野経親に命じて定めた八社八幡の4番社に定められ、正八幡宮と改められた。松前城主となった加藤嘉明は当社を深く尊崇した。当時の境内は四方八丁で鳥居は現社地のはるか西方にあり、大木が生い茂る神域に広壮な社殿が鎮座していたという。しかし慶長5年(1600)、関ヶ原の戦に際し、加藤嘉明が東軍に与して出陣中の留守を狙って松前城を奪取しようと、西軍に与した毛利・河野の旧臣・村上水軍の連合軍との戦いの兵火のため、社殿・宝物・古文書等は灰塵に帰した。その後、慶長19年(1614)、加藤嘉明により社殿が再興された。加藤嘉明手植えの松は「左馬殿の松」と呼ばれ、市の天然記念物に指定されていたが、昭和58年(1983)に枯死してしまった。現在は二代目の松が育っている。松山藩主の松平(久松)家は、道後の伊佐爾波神社、味酒町の阿沼美神社とともに当社を藩の三社として崇敬した。松平定直は、元禄6年(1693)に、現在の現在の社殿を造営している。明治の初め、社号を正八幡から雄群神社に復し、その後、明治28年(1895)に県社に昇格、明治35年(1902)に、社号を雄郡神社に改めた。
雄郡神社は松山城の南西、旧大洲街道沿いに西を向いて鎮座する。現在の国道56号線を背にする形である。当社は正岡子規の産土神であり、境内に「御所柿に 小栗祭の 用意かな」「うぶすなに 幟立てたり 稲の花」の2つの句碑がある。
 
神門

雄郡神社の山門(上)、本殿(下)

雄郡神社拝殿 
 
小栗神社のほとりに出づ
 
男ばかりと 見えて案山子の 哀れなり
 
稲莚 朝日わづかに 上りけり
 
鉄砲 のかすかにひゞく 野菊哉
 
御所柿に 雄群祭の 用意哉
 
秋茄子 小さきはものゝ なつかしき
 
稲の穂や うるちはものゝ いやしかり
 
六尺の 庭にふさがる 芭蕉哉
 
 
 子規は、正宗寺から小栗神社、すなわち、雄郡神社に向った。子規が通ったのは、今日では、正宗寺の前から室町の交差点を右に曲がり国道56号線を越え、しばらく進むと大洲街道(郡中街道)と交差。左折して南下すると左手の雄郡神社がある。子規はこの日に、この正岡家の「産土神」の神社の前で、ばったりと友人の森円月と出逢っている。子規はここで「男ばかりと見えて案山子の哀れなり」・「御所柿(ごしょがき)に雄郡祭(おぐりまつり)の用意哉」・「稲筵(いなむしろ)朝日わづかに上がりけり」などの数句を詠む。今は、すっかり宅地化して農の風景は点在しているばかりといった様子であるが、当時はこの辺り一帯に豊かな田園風景が広がっていたようである。
 
子規の「御所柿に・・」の句碑 
 
 
 句の中の「御所柿(ごしょがき)」は、奈良県御所(ごせ)市の原産で、甘柿のルーツともいわれる柿で、「五所柿」や「やまとがき」、「ひらがき」などとも呼ばれている。子規の代表句の「柿くへば鐘が鳴るなり 法隆寺」に登場している柿が「御所柿」だといわれており、子規の好物の一つであった。なお、当時の「小栗祭」は10月23・24日に行われていた。句碑の文字は、子規句稿『寒山落木』の子規の自筆を拡大したもの。
  
 
子規の「うぶすなに・・」の句碑
 
もう一つの「うぶすなに・・」の句は、明治28年の作の『寒山落木』所収の句で、句碑の背面には「この碑石は、昭和48年(1973)3月3日完成の松山市奥道後石手川ダムの湖底から掘り出し、河川浚渫(しゅんせつ)作業班・田中建設者から雄郡神社に寄贈されたものなり」とある。雄郡神社が正岡家の「産土(うぶすな)神(氏神)」だったことから、昭和49年(1974)10月、田中建設・田中茂宏氏が建立。
 
 
かねて叔父君のいまそかりし時
 
余戸に住みたまひしかば
 
我をさなき頃は常に行きかひし道なり
 
御旅所(おたびしょ)の松、・・
 
雄郡神社を西へ進み、左折・右曲して土居田の村を通り抜けるのが旧今出街道にでると、現在は雄新中学が見えてくる。当時、「御旅所の松」は雄新中学の近くにあったようであるが、今は枯れてしまってない。御旅所(おたびしょ)とは、神社の祭礼の御巡行の時に、御神体を乗せた神輿が、巡行の途中で休憩または宿泊する場所を指す。
 
・・鬼子母神、・・
 
鳩麦(はとむぎ)や 昔通ひし 叔父が家
 

雄新中学に沿って右に折れ、すぐ左に折れ、また右折、すぐ先の踏切(予讃線)(当時はなかった)を越えると、善復寺というお寺の隣に「鬼子母神」があり、子規の句碑「すす玉や昔通ひし叔父が家」が建っている。「すす玉」は「ジュズダマ」のことで、散策集では「鳩麦」となっているのを、『寒山落木』では「苡」と改めた。碑の文字はそれによったものであるが、「苡」が読みにくいので、碑陰に「じゅずだま」と注記してある。イネ科の多年草、水辺に生え、高さ約1 m、葉は細長く縁がざらつく。初秋、葉の付け根に雌花と雄花の穂を出す。実は緑色から黒色に変わる。句碑は、昭和47年(1972)10月、土居田町子規居士句碑再建委員会が建立。

 

 鬼子母神堂(昭和45年頃)

  

 

 子規「すす玉や・・」の句碑

 

余戸に住んでいた叔父は、子規の父・常尚の長兄・佐伯政房で、松山藩の祐筆を務めた。子規は6歳の頃からお家流の書の指導を受けていたようである。父の兄であるから正確には叔父ではなく「伯父」である。

鬼子母神は、加藤嘉明の松山城築城とともに松前から遷座したもので、350年祭にお堂が新築され、句碑も建てられたと伝えられている。

  

子規は、散策集の中で「御旅所の松、鬼子母神、保免の宮、土居田の社など皆昔のおもかげをかへずそぞろなつかしくて」と書いている。今日では、住宅が密集してその面影は残っていないが、当時は、色づいた稲穂の波の向こうに、神社や寺の森などが手に取るように見えたものと思われる。

 
・・保免の宮・・、
 
 今日、鬼子母神を過ぎると郡中線の電車が走り、旧道は環状線に突きあたる。国道には自動車の流れが絶えず、散策集の当時の跡をたどるすべもないが、そのとき子規は、保免の宮・日招八幡の森を左に見ながら人力車を進めて行ったことと思われる。
 
 
 
日招八幡神社の神門
 
 日招八幡神社は、松山八社八幡の5番社である。社伝によると崇峻天皇2年(589)に、国司・越智益躬が筑紫国胸肩(宗像)から宗像三女神を勧請し、門島比咩神社(かどしまひめじんじゃ)あるいは門乃神社と称えた。また、元慶年間(877~885)に八幡神を合祀し、石清水八幡宮と称した。元暦元年(1184)に佐々木四郎高綱が入国し、砥部荏原城主と戦った際に、戦いが終わるまで日が留まるよう祈願したところ、夕刻になっても明るく佐々木軍が勝つと日が沈んだということから、「日招八幡神社」と呼ぶようになったという。しかし近年、火災により本殿・拝殿を焼失してしまい、現在は神門と仮宮のみである。
 
 

・・土居田の社など 皆昔のおもかげをかえずそぞろなつかしくて

 

 
 在りし日の素我神社(昭和45年頃)
 
 
現在の本村公園
 
 「土井田の社」は、当時、土居田本村にあった「素我神社」のことである。その場所は、現在の土居田町の「本村公園」になっており、「素我神社」も今はなくなっている。

⑦ 竹の宮の「手引の松」(余戸の三島神社)

 本村公園から右折して豪壮な長屋門の先の路地を右に入ると、「竹の宮」即ち余戸の三島神社がある。
 

をさなき時の戯れも思ひ出だされたり竹の宮の手引の松は

 
今猶残りて二十年の昔にくらべて太りたる體も見えず
 
行く秋や 手を引きあひし 松二本
 
 神社の境内にある説明板・・余戸の三島神社・・村社三島大明神社。御祭神:大山積大明神/雷神/高神/猿田比古大神。由来:聖武天皇神亀五年八月二十三日、越智の玉純伊豫国各郷に大三島より三島大明神を勸請す。即ち当社は其の一なり。爾来郡司又は名主郡司に代り毎年奉弊ありて祭典厳重に行われたり。往古周囲に竹藪ありしを以て「竹之宮」とも云ふ。當社の境内に寄木あり「手曵之松」と云ふなり。

 

 余戸の三島神社の参道と鳥居
 
 
 
本殿
 
 この三島神社には、次のような逸話がある。・・「洪水の時に、保免の日招八幡の神様が流されて余戸の竹藪に留まられたので余戸の神様としてお祭りしていたところ、保免の人達が神様を返せと言って争いになった。お殿様が余戸には大三島の神様を呼んでもらうから返しておやりということで三島神社になったのだ。」という。
 三島神社の境内には、「手引きの松」と呼ばれる松の木があり、その傍に、この松の木を詠んだ子規の句碑がある。「手引きの松」とは、二本の松が地上6 mのところでH形につながり、手を引き合った姿に似ているところから、いつとはなくこのように呼ばれるようになった。樹齢は200年くらい、昭和37年(1962)には松山市の天然記念物に指定されたが、昭和54年(1979) 秋に、松くい虫の被害で枯死してしまった。子規が幼い時に戯れた「手引きの松」の死を惜しみ、今は「手を引いた部分」のみが、ひっそりとした境内の一角に保存されている。
在りし日の「手引きの松」(昭和45年頃)
    
句碑現在保存されている「手引きの松」
 
句碑は、愛媛県の子規句碑第一号で、出合橋にある「若鮎の二手になりて上りけり」の句碑と共に、昭和6年(1931)、子規30回忌を記念して、森河北ら南川会同人によって建立された。
 

子規の「行く秋や・・」の句碑

余戸を過ぎて道は一直線に長し
 
渋柿の 実勝になりて 肌寒し
 
村一つ 渋柿勝に 見ゆるかな
 
山盡きて 稲の葉末の 白帆かな
 
 余戸から今出の道は、現在の余戸駅の北側から西下、今は廃道となったがほゞ現在の道に併行していた。郡中線はまだなかった。
 
 
霽月の村居に至る
 
宮に隣り松林を負いて倉戸前いかめしき住居也
 
今出の村上霽月邸は、西垣生三島神社前にあり、楠の大樹が茂り、門構えの厳しい邸であった。
今出の村上霽月邸 
 
 村上霽月は、子規に先んじて与謝野蕪村を発見・推賞し、独特の俳句の境地を開いた。後に、漢詩に唱和する転和吟を創始した。また、地方経済界に重きをなし、産業組合運動の先覚者でもあった。村の豪家であった霽月邸は、西垣生の三島神社前に、昔ながらに現存している。
 
粟の穂に 雛飼ふや 一構
 
鵙木(もず=百舌)啼けば 雀和するや 蔵の上
 
萩あれて 百舌啼く松の 梢かな
 
庭前の築山に上れば 遥かに海を望むべし
 
歌俳諧の話に余念なく 午も過ぎて共に散歩せんとて立ち出づ
 
 霽月邸の建物は長屋門・母屋・土蔵から成り、当時、霽月はこの邸を「光風居」と名づけ、庭内に「光風居七勝」がある。100年以上の建物といわれ、素封家らしい構えであった。庭前の築山は当時のまゝであるという。
 
 
村上霽月邸の築山(昭和45年頃)
 
 霽月(明治2/1869年~昭和21/1946年)は、今出(松山市西垣生町)の生まれで、本名・村上半太郎。今出絣株式会社頭取の他、県内の銀行、信用組合などで要職をつとめた。俳人としても知られ、漢詩を素材とした「転和吟」と称する独自の句で一家をなした。
 
 正岡子規は、明治28年10月7日、人力車に乗ってこの邸を訪れ、霽月と文学談義をした。さらに、翌年の3月1日には、夏目漱石・高浜虚子が霽月邸を訪れ、神仙体と称する俳句を詠み、河東碧梧桐・松根東洋城らもここを訪れている。
 
霽月邸の右前の三島神社に、霽月の漢字だけからなる句碑が建っている。昭和23年(1948)2月、建立・今出吟社同人。
 
初暦好日三百六十五(はつごよみこうじつさんびゃくろくじゅうご)
 
 今出は今出絣の発祥地。当時、絣会社の社長であった霽月は、今出絣の創始者・鍵谷カナの功績を讃え、昭和4年(1929年)に頌功堂を建てた。
 
ここは今出鹿摺(いまずかすり)とて鹿摺を織り出す處也
 

今出絣は、明治になって全国普及するにつれ伊予絣と呼ばれるようになった。子規が今出の村上霽月を訪ねたころは、どこの家からも絣を織る機の音が響いていたようである。

鍵谷カナ頌功堂は、設計・木子七郎、建設・伊予織物同業組合。鉄筋コンクリート造りで、8本のエンタシスをもつ柱が本瓦葺の八角屋根を支えている立派なものである。
 
鍵谷カナ頌功堂
鍵谷カナ頌功堂
 
花木槿(はなむくげ)家ある限り 機(はた)の音
 
汐風や 痩せて花なき 木槿垣
 
子規の「花木槿・・」の句碑は、今出にある「長楽寺」の「鍵屋カナ頌徳碑」の側面に彫られている。
長楽寺の子規の句碑
 
 今出の海岸風景は、当時とほとんどかわっていないようである。
 
海辺に彳めば(たたずめば)興居島右に聳え
 
由利島正面にあるけふは 伊予の御崎(佐田岬)も見えずとか
 
見ゆるべき 御鼻も霧の 十八里
 
夕栄や 鰯の網に 人だかり
 
 子規と霽月は、語りながら歩み海辺に出た。霧がこめて定かではないが、夕映えは美しく海を染めていたようである。
今出の海辺にたたずめば、興居島の「伊予の小富士」(282 m)が右に聳え、伝説の島・由利島が、今日は正面に見えるが、伊予の御崎(佐田岬)は見えない。いつもなら、当然見えるはずの目と鼻の先の川口(重信川)などは、十八里(約7km)先まで霧に包まれて見えない。それでも、今出港の鰯網は、大変な人だかりである。
 
佐田岬半島は、三崎半島とよばれることもある。八幡浜付近から西南西へ、長さ約40kmにわたって直線的に突き出ており、北の伊予灘と南の宇和海を隔てている。先端は佐田岬があり、瀬戸内海国立公園に指定されている。
 
今出の海辺から見た景色(昭和45年頃
 
それより海岸のそふて南に行き 今出村を一周して帰る
 
鶺鴒(せきれい)や 波うちかけし 岩の上
 
新田や 潮にさしあふ 落し水(稲を刈る前に、田を干すために流し出す水)
 
薯蕷(じょよ=やまいも)積んで 中島船の 来たりけり
 
浜萩に 隠れて低し 蜑(あま=海人)が家
 
俄かに風吹き起る
 
(方形=四方)十町(一町=3千坪)砂糖木(サトギ=砂糖の木)畠の 野分哉
 
稲の穂の 嵐になりし 夕かな
 
牛蒡(ごぼう)肥えて 鎮守の祭り 近つきぬ
 
賤か家(せんがや=みすぼらしい家)に 花白粉の 赤かりき
 
山城に 残る夕日や 稲の花
 
薮寺の 釣鐘もなし 秋の風
 
今出村は、今は松山市西垣生町となり、住宅が建ち並んで、砂糖木畑などはなくなったが、まだ、牛蒡・大根の畑は残っており、往時の面影をしのばせている。
 
 
余戸の森円月邸付近の道
 
夕刻、今出を出た子規は途中、余戸の森円月邸に立ち寄った 
 
 夕暮に今出を出で 人車を駆りて森某を余戸に訪ふ
 
柱かくしに題せよといはれて
 
籾干すや 雉(にわとり)遊ぶ 門のうち
 
席上一詩あり
 
鶏犬孤村富 松菊三逕間 南窓捲書起 門外有青山
 
句や詩を揮毫した後、直ちに其家を辞す
 
白萩や 水にちぎれし 枝のさき
 
車上頻りに考ふる處あり知らず何事ぞ
 
行く秋や 我に神なし 仏なし
 
點燈(てんとう=灯りが点る)寓居に帰る
 
愚陀仏庵に向かう頃は日が既に傾いていた。帰路についた人力車の上で、子規はこれから直面するであろう様々な困難を思いやり、それらを解決できるのは神でも仏でもなく自分しかないという決意を新たにしていた。灯りが点る頃、漱石の待つ愚陀仏庵へ着いた。    子規の松山での最後の散策が今終わった。
 
(END)

 

 
 
 
 

 

 

 

1. 子規の吟行と「散策集」

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