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ー 松山句碑めぐり(その1) ー

俳 句 の 道
「俳句の道」とは
夏目漱石―正岡子規―前田伍健―内藤鳴雪―柳原極堂―
種田山頭火―森盲天外―河東碧梧桐―石田波郷―村上霽月

 1. 俳句の道とは

松山市道後町二丁目の「ひめぎんホール」(愛媛県県民文化会館)の東隣に隣接する 県道沿いに、昭和63年(1988)4月に完成した「俳句の道」と呼ばれる歩道がある。ここには、松山ゆかりの正岡子規や夏目漱石、柳原極堂、内藤鳴雪、河東碧梧桐、種田山頭火らが、道後温泉などを詠んだ句碑や川柳碑、十基が点々と並び、俳都・松山にふさわしい風景をかもし出している。 

2.句碑群
2.1 夏目漱石の句碑
 
 
① 永き日やあくびうつして 分れ行く(愚陀仏)
 
 
 
夏目漱石の「永き日や・・」の句碑
 
夏目漱石が、熊本の第五高等学校教授となり、明治29年(1896)4月11日、松山を去るにのぞんで、松風会会員・近藤我観に書き送った別離の句・双幅(三つ切り)のひとつ。いずれも「漱石」ではなく、「愚陀仏」の号が記してあった俳句仲間は大あくびを無礼とは思わぬ気心しれた者同士であり、「あくび」をうつせば三日の親戚とやら。瀬戸内の船にゆられて、あくびの漱石が去って行った。春眠暁を覚えず」という。春はどうして朝寝が心地いい。「朝寝」は春の季語となっており、「あくびも」もうららかな春に一番合うように思えるが、まだ季語として定着はしていない。漱石は、春のあくびが好きだった?「永き日やあくびうつして分かれ行く」の句は、松山人に対し、愛着をこめて詠んだものである。東京からはじめて地方に赴任した四国の松山中学、そこにも別れを告げて、新天地・熊本高等学校へ赴任して行った。その折の惜別の一句なのだが、俳句仲間は大あくびを無礼とは思わぬ気心しれた者同士。あくびをうつせば三日の親戚とやら。瀬戸内の船にゆられて、あくびの漱石がゆく近藤我観に送った惜別のもう一句は、
〇 わかるゝや 一鳥啼いて 雲に入る (愚陀仏)
この句の“鳥雲に入る”は、渡り鳥が春になって北へ帰ることで、「春」の季語。松山を去るこの日漱石は、鬱金木綿(うこんもめん)の袋に入れた大弓を自ら携えて、高浜虚子と広島(宇品)行きの船に乗り、三津の汽船のりばから出発した。松山中学の横地校長、村上霽月、上野家の孫娘・久保より江が見送った。
 
夏目漱石:慶応3年(1867)1月5日生まれ。小説家、評論家、英文学者。本名・夏目金之助。「吾輩は猫である」、「こゝろ」などの作品で広く知られる、森鴎外と並ぶ明治・大正時代の文豪である。江戸の牛込馬場下横町(現、東京都出身。俳号は愚陀仏。大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学ぶ。東京帝国大学・英文科卒業後、松山で愛媛県尋常中学教師、熊本で五高教授などを務めた後、イギリスへ留学。帰国後、東京帝大講師として英文学を講じながら、『吾輩は猫である』を雑誌『ホトトギス』に発表。これが評判になり『坊っちゃん』、『倫敦塔』などを書く。その後、朝日新聞社に入社し、『虞美人草』、『三四郎』などを掲載。当初は余裕派と呼ばれた。修善寺の大患の後は、『行人』、『こゝろ』、『硝子戸の中』などを執筆。「則天去私」の境地に達したといわれる。晩年は胃潰瘍に悩まされ、『明暗』が絶筆となった。大正年(1916)12
 
 

 

  

 

 

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