トップ  >  「テーマ」で探す  >  「俳句・散策集」  >  正岡子規『散策集』(その一)子規・極堂の石手寺散策

 

 愚陀仏庵玉川町砂土手石手川堤石手寺御竹藪愚陀仏庵

1.散策ルート

 

2.散策場所

① (出発地点)愚陀仏庵

今日はいつになく心地よければ折柄来合せたる碌堂を催して

はじめて散歩せんとて愚陀仏庵を立ち出づる程

愚陀仏庵は、夏目漱石の下宿で、二番町と三番町をつなぐ横丁にあり、若き日の両文豪が50日余り起居をともにした上野義方の家の離れである。なお、「愚陀仏」は漱石の号。昭和20年の松山大空襲のとき焼失してしまい、今は、ここには何ものこっていない。戦後、松山市民からの再建要望により、昭和57年に、城山南山麓の萬翠荘の裏に再建されたが、平成22年7月の城山の土砂崩れにより倒壊してしまい、現在は跡形もない。

平成22年7月に倒壊した愚陀仏庵

碌堂というのは後の柳原極堂のこと。子規の同級の友人で、松山で「ほととぎす」を創刊、生涯子規の顕彰に尽くした。

 秋の風のそゞろに背を吹てあつからず

愚陀仏庵を出て、大街道を北へ、直ぐに右折して東へ向う通りが玉川町。今も、大街道からの通りの一部が残っているという。

今も残っている大街道から旧玉川町へ続く通り?

2012/7/13 20時からのNHK松山の「近ぶら」という町歩き番組で、タレントの友近さんが、大街道に今も残る江戸時代の道を紹介した。もしかすると、子規と極堂も石手寺散策の時、この道を通ったのかもしれない。

江戸時代の道を抜けた辺りから東方を見た現在の旧玉川町通り

② 玉川町

 大寺の 施餓鬼過ぎたる 芭蕉哉

この大寺は、松山市民双書版『散策集』の解説によれば、玉川町にあった正法寺ということになっている。正法寺は、古くからこの地にあったある浄土宗の寺であるが、戦後、御幸町の来迎寺の西に移っている。 

古地図によれば、正法寺があった場所は、今の伊予銀行・二番町支店の北側(現、駐車場)辺りと思われる。

正法寺があった辺り

玉川町の東端付近に、子規が階上から東の山に出る月を賞した高浜虚子の家がある。この家は、現在の松山市一番町1丁目にあって、虚子が明治14年から26年に京都第三高等学校入学まで暮らした家である。

 高浜虚子の住居跡にある説明板 

療養中の子規は杖をつき、極堂は心配しつつそれに付き添っていた。 しかしそんな病人の足でも、少し歩くとやがて家並みは途絶え、周囲は水田となり、晩稲の穂が一面に白い花を咲かせていた。

 旧高川町通り(昭和45年頃)

    杖によりて 町を出づれハ 稲の花

 秋高し 鳶舞ひしつむ 城の上

玉川町より郊外には出でける見るもの皆心行くさまなり

玉川町から左に折れて御宝町に出ると、やがて家並が尽きて、ここが市街の東端であった。両面の砂土手のほか、目を遮るいものもなく、後にお城山がくっきりと浮かんで、空には鳶が啼きながら大きく輪を描いて舞うのどかさであった。

  御宝町辺りから見た松山城(昭和45年頃)

秋晴れて 見かくれぬべき 山もなし

御宝町を出はずれると、家は一軒もなく田んぼばかり。左手には、開通したばかりの道後鉄道が砂土手に沿って走っている。子規と極堂は、トンボが飛びかう秋空の下に御幸寺山を眺めながら、砂土手を越えて稲田の中の道を進んで行った。

蜻蛉の 御幸寺見下す 日和哉

 

御宝町辺りから見た御幸寺山(昭和45年頃)

現在、道路の端にはずっと家並が続き、「御幸寺(みきじ)」などの遠景を眺めることも、また田を見おろすこともできない。路地の間から城山を眺めたり、町の外れにようやく残った農地から、当時の風景を予想するばかりであった。

 

 ③ 砂土手

 砂土手や 山をかざして 櫨紅葉

砂土手や 西日をうけて 蕎麦の花

松山商業高校の東裏手あたりから、松山東高校の西手を横ぎり、六角堂の東上手あたりまで、「砂土手」と呼ばれる元、松山城の東方の防備のために築かれた南北に横たわる小高い丘があった。今は削り取られ住宅地になって、昭和45年ころまでは、名残の小川があったが、今は、水路がその跡に残るだけである

砂土手の名残りの小川

砂土手越えに、はるか彼方の山裾の祝谷にある旧松山藩主・松平公の菩提寺・常信寺の山門や白壁、樹木が見えた。今の勝山町交差点から道後公園や温泉街などを、全く見ることはできない。

   秋の山 松鬱として 常信寺

 

 道後祝谷・常信寺

以下、現在の県立松山東高等学校前辺りから、石手川土手に上げる間の風景を詠んだ句である。

現在の松山東高校前の道路(写真の上方が石手川) 

 秋草の花 少しありけば道後なり

道後に着いたと云っているのではない。「少し歩けば道後に着く」と、自分を励ましているのである。子規は、道後までは何度も来ているので、石手寺までの距離は推定できたものと思われる。

高縄や 稲の葉末の 五里六里

「高縄」は、道後の北北東10km程のところに聳える標高986mの高縄山のことで、道後から見えるもっとも高い山である。そして、高縄山の見える道後まで、稲の穂が続いていた。

    露草や 野川の鮒の さゝ濁り

虫鳴くや 花露草の 晝の露

  肥溜の いくつも並ぶ 野菊哉 

この三つの句は、 日本の農村の典型の原風景ともいうべき景色を詠んだ句であるから、都市化された現在の道を歩きながらも、わずかな徴を手がかりに、容易にこうした光景を想像することはできるのである。子規も同様に、そしてなつかしさの感触を味わうことができたのであろう。

秋澄みたり 魚中に浮て 底の影 

底見えて 魚見えて秋の  水深し 

飛びハせで 川に落ちたる 蟲(ちゅうき)哉 

短く 秋の小川の 溢れたり 

兀山を こえて吹きけり 秋の風

五六反 叔父がつくりし 糸瓜哉

馬の沓 換ふるや櫨の 紅葉散る

六尺の 竹の梢や 鵙の声

子規にとっての写生句は、ここにおいて、個人的で、しかも時代的普遍性を持った必然として立ち上がってくるのです。

 ④ 石手川堤

松山東高の前を東へ一直線に、当時は細い畦道づたいに湯渡町あたりで右折、石手川の堤防に上り、北側の堤上を東へ、子規と極堂は時に語り時に黙し、句を案じながら、石手寺を目指して歩いていった。

 土手に取りつきて石手の方へは曲がりける

 

 現在の石手川

野径曲れり 十歩の中の 秋の山

ほし店の 鬼灯吹くや 秋の風

「ほし店」は露店のこと。既に秋の風の立つ中、露天商が鳴らす鬼灯を聞きながら、川に添って流れを上っていった。この辺りは、奥道後の山々を背景に石手川が流れ、実に日本的ななつかしい光景になっている。その趣深い風景の中を、土手沿いに1 km程上ると、遍路橋にたどりつく。その橋を左手に曲がれば、石手寺は目の前である。

現在の遍路橋

南無大師 石手の寺よ 稲の花

石手川と石手寺の間は一面の水田です。その中を、山門へと続く道が一本ずっと伸びている。それは江戸時代から、お遍路さんが数多く往来した道でる。背負い切れぬ現実を抱えた人たちが、自らの状況を振り切るように、あるいはまたその存在を確かめるように歩き続けた道なのである。

子規の「南無大師・・」の句碑

 左手はるかに石手の塔を望みつつ、堤上の道を東行、土手を下りて少し行くと、一の門があったが、今はない。この辺りは稲田が続いていた。子規のこの句碑は、現在は、石手寺参道にあるが、初めは、昭和13年に一の門の南、石手川に架かる遍路橋の袂に建てられた。

二の門は 二町奥なり 稲の花

山門の前の茶店に憩ひて一椀の渋茶に労れを慰む

駄菓子売る 茶店の門の 柿青し

人もなし 駄菓子の上の 秋の蝿

裏口や 出入にさはる 稲の花


石手寺の参道の前にあった茶店(昭和45年頃)

清らかな御手洗川を前にして、参拝客目当ての茶店が並ぶ。散策集当時は参拝も少なく、名物の「おやき」も縁日の時だけ出されていた。橋の畔に立つ五輪塔は、鎌倉期のもので国の重要文化財に指定されており、伊予守・源頼義の墓であるとの説があるが、現在、この塔は、石手寺の裏手に移転されている。

⑤ 石手寺

       橋を渡りて寺に謁づこゝは五十一番の札所なりとかや

石手寺は、聖武天皇神亀5年(728)に、伊予国の大領・越智玉純が勅願所として七堂伽藍を建立、古くは安養寺と号し、六十六坊があったという。石手寺の名は、衛門三郎「玉の石伝説」にちなむ。仁王門(山門)は鎌倉期の建築で国宝。門の中にある金剛力士像は、運慶一門の作と伝えられ、雄渾にして格調高い名作である。

現在の石手寺参道

 

 現在の石手寺山門

見上ぐれば 塔の高さよ 秋の空

秋の山 五重の塔に 並びけり

 石手寺の三重の塔

空を抜いて聳える三重塔を仰いで、子規もしばらく立ちつくしたことであろう。仁王門と同じく鎌倉期の創建。高さ23.88 m 、よく均整のとれた勇壮で清楚な姿をしたこの塔は、県下随一と評されている。国指定の重要文化財で、中には釈迦三尊像が安置されている。

通夜堂の前に粟干す日和哉 

 

山門右の通夜堂

 今は終日参拝の客で賑わい、香盤にもうもうと香煙の絶え間もなく、境内には日向に粟干す余地などないが、子規が訪れた頃には、この句のようなのだかな風景であったようである。

大師堂の椽端に腰うちかけて息をつけバ

 

石手寺・大師堂

其側に落ち散りし白紙何ぞと開くに当寺の御鬮二十四番凶とあり

中に「「病事は長引く命にはさわりなし」など書きたる

みずから我身にひしひしとあたりたるも不思議なり

身の上や 御鬮を引けば 秋の風 

山陰や 寺吹き暮るゝ 秋の風

 

鐘楼の近くにある子規の「身の上や・・」の句碑

子規は極堂と共に境内の堂から堂をめぐった。「秋風や 何堂彼堂 弥勒堂」、そして大師堂あたりは静かであった。大師堂は、別名、「落書き堂」と呼ばれ、漱石や子規が落書きを残したものがあったが、戦時中に壁を塗り替えたため消失したらしい。

正面の本堂には、天平元年(729)、僧・行基が刻んだ薬師如来像が安置されている。本堂の建物は、鎌倉時代後期のもので、国の重要文化財に指定されている。

石手寺・本堂 

寺を出でゝ道後の方に道を取り帰途につく 

駒とめて 何事問ふそ 毛見の人

芙蓉見えて さすがに人の 声ゆかし

にくにくと 赤き色なり 唐辛子

石手寺の門前から寺井内川(御手洗川)に沿った遍路道を道後方面に向い約500m行くと、左手の下、石手バス停留所前に中務茂兵衛の道標がある。これより道は二手に分岐する。道標の指示で、直進は道後へ向かい、「左松山」とは道後には寄らず湯築城跡を経て松山城下へ至る道を案内している。子規と極堂は「左松山」の道を歩いた。

石手寺と道後の間にある道標

⑥ 御竹藪

御竹藪の堀にそふて行く

古濠や 腐った水に 柳ちる

水草の 花まだ白し 秋の風

道後公園は、もと湯築城跡。竹が密生していて昼なお暗く、お竹藪と称した。明治21年に、伊佐庭如矢によって公園として整備されたが、その後もそう呼ばれていた。子規と極堂は、公園南外側を通った。

 

昭和45年頃の道後公園(お竹藪)

その後の道後公園は、道後植物園、県立道後公園に移り替わっていったが、昭和28年の県立道後動物園が設置され、昭和62年に、砥部町に移転されるまで続いた。翌63年より、湯築城址の発掘調査が開始され、多くの遺跡が発掘された。そして平成14年に湯築城の復元整備が終り、「湯築城跡」として国の史跡指定されている。今は、子規たちが歩いた頃のお竹藪は残っていないが、湯築城跡の内堀の端にある竹藪に、その面影がかすかに見られる。

 

現在の道後公園の内堀

お竹藪を後にした子規たちは、持田村を抜け、往くときに通った松山東高前の道に至り、元のルートを通って愚陀仏庵に戻った。

秋の山 御幸寺と申し 天狗住む

秋の御幸寺山

四方に秋の 山をめぐらす 城下哉

稲の香や 野末ハ暮れて 汽車の音

鶏頭の 丈を揃えたる 土塀かな

道後鉄道は、明治28年8月22日開通。道後駅から一直線に西下して三津口までの路線と、現在のひめぎんホールの北側辺りから左折して、持田町の中を抜けて一番町通りを走り、大街道の交差点にあった一番町停車場までの路線の二つがあった。

――――――――――――――――――――――――――――――

稲の香に 人居らずなり 避病院

 

かって石手川土手にあった避病院

 

秋風や 何堂彼堂 弥勒堂

 

石手寺・弥勒堂

 

護摩堂に さしこむ秋の 日脚哉

石手寺・護摩堂

 

 護摩堂は、創建の時期を明確に示す史料を欠くが、全体の容姿及び構造・表現からして、室町時代前期の建築と推定される。なお、天竺と和洋折衷の建造物が多い中で、この堂宇のみが純粋な和様建築である。堂宇の中には、「不動明王」と「二童子立像」の3像が安置されている。いずれの像も木彫りの一本造りである。鎌倉時代中期の技法を今日によく伝えている。建物は、国指定重要文化財、木像は、県指定重要文化財。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――

⑦ (最終地点)愚陀仏庵

プリンタ用画面
投票数:17 平均点:10.00
カテゴリートップ
「俳句・散策集」

会の紹介 | お問合せ及びアンケート | Q&A | おいでんか通信 | 個人情報保護ポリシー | サイトマップ
(連絡先)〒790-0004 松山市大街道3丁目2-46 松山城山ロープウェイ駅舎2階 TEL/089-935-5711 FAX/089-921-0286
Copyright 松山観光ボランティアガイドの会. All rights reserved.