トップ  >  「エリア」で探す  >  「道後温泉」エリア  >  1.道後温泉本館周辺コース

道後温泉本館周辺コース

 

①道後温泉駅 → 放生園 → 椿の湯 → 道後温泉本館 → 円満寺 → 宝厳寺 → 伊佐爾波神社 → ふなや → 湯神社 → 空の散歩

 


道後温泉駅

明治28年 道後町長であった"伊佐庭如矢"が道後へお客を呼ぶために鉄道を建設。一番町~道後~三津口 間を坊っちゃん列車が走った。現在の駅舎は三代目で、昭和61年に旧駅舎を忠実に再現したものとなっている。

  

坊っちゃん列車は、機関車と客車を切り離して、手動で方向転換します

   

放生園

道後温泉駅を出ると、目の前に見える放生園は、待ち合わせ場所としてにぎわう。「坊ちゃんからくり時計 」「足湯」「句碑」「鷺石」「正岡子規像」などがある、憩いの広場。

  

★坊ちゃんからくり時計 

平成6年道後温泉本館建設100周年記念事業として造られた。「振鷺閣」をモチーフに、太鼓の合図とともに、小説「坊ちゃん」のキャラクター20体が登場する。8時~22時 3分間上映。平日は1時間おきに、土日祝日は30分毎に動く。夜のライトアップもきれい。

 

★足 湯

「足湯」に鎮座する湯釜は、明治29年まで道後温泉本館でつかわれていたもの。

★柳原極堂の句碑          

`春風や ふね伊予に寄りて 道後の湯`

   

★正岡子規像             

`夏草や ベースボールの 人遠し`

 

★鷺 石  

湯が湧き出ていた谷で鷺が傷を癒した「白鷺伝説」が残る。 鷺の足跡が沢山残る「鷺石」を鷺谷から移した。


椿の湯  

道後温泉本館の姉妹湯。昭和28年国体開催に合わせて外湯が造られた。建物の白壁には、窓から湯と椿が流れ落ちる「からくり絵」が描かれている。椿は、松山市花。

★伊予国風土記逸文の碑

伊予の温泉を訪れた聖徳太子は、霊妙な温泉に感動し「伊予国風土記逸文」の一首をつくる。温泉郷は、椿が互いに枝さし交え生い茂り、あたかも天寿国にある思いがすると讃えている。

 


道後温泉本館

明治27年  "伊佐庭如矢" によって、道後温泉本館の改築が大々的にすすめられ、現在のような三層楼に振鷺閣をつけた形になった。松山藩城郭建築棟梁の坂本又八郎が造った。樹齢の統一された久万のケヤキとツガを使用し、120年たっても現役の温泉として活躍することができている。二階大広間の濡れ縁には、温泉が絶え間なく湧き出る様子を細工している。

  

★振鷺閣

宝形造りで銅板葺き屋根のトラス構造(西洋建築の小屋組み工法)。当初は、町の火の見櫓という事で半鐘が吊られていた。赤いギヤマンをはめた障子は当時のまま。城は1間1970だが、振鷺閣だけは明治政府公認の1間1820で造られている。現在は、太鼓がおかれ、6時 12時 18時に女性職員の手によって刻太鼓が鳴らされる。環境庁が選んだ残したい「日本の音風景100選」に選ばれている。

★坊ちゃんの間

夏目漱石は、明治28年 英語教師として松山中学へ赴任。道後温泉本館3階角の間を利用した。

★又新殿

明治32年日本で唯一の皇室専用の湯殿が造られる。明治36年大正天皇がご来浴。大正12年・昭和25年昭和天皇、昭和27年常陸宮様ご来浴が最後となった。10人の皇族が入浴された。御成門の屋根は三重となっており、龍(唐破風) 鳳凰(千鳥破風) 湯玉(起こり破風)からなる。湯殿は、香川の庵治石を使用。室内は明治の雰囲気が残る贅をつくした造りとなっている。

 

昭和10年 北正面から、西正面に変わる。昭和25年獅子文六の映画「てんやわんや」の舞台になる。この看板は、その時掛けられたもので、二代目になる。

  

昭和29年養生湯を取り込み女湯とした。現在の形ができあがった。

★霊の湯

上客用の特別湯。明治32年に皇族の随伴者用に造られた浴室。湯釜は、庵治石・大島石で壁は大理石でできている。

★玉の石

出雲の2神 大国主命と少彦名命は全国を巡り国造りを行った。道後に訪れた際、少彦名命は病気になったが、大国主命が少彦名命を手のひらに乗せて、そっと湯につけたところ、あっという間に回復し、玉の石の上で踊ったという。パワーストーンとして、人気を集めている。

★伊佐庭如矢像

道後の繁栄の基礎を築いた初代湯之町町長。頭脳明晰で私塾を開くが、維新後は県の役人になる。明治6年、廃城令により、松山城取り壊し案が出ると、同城を城山公園として残すための嘆願書を書き、松山城を救った。神の湯の改築ては、13万5千円の工費は、町の財政を破たんさせると反対されるが、解決する。「100年後までまねできんようなものを造ってこそ、物をいうんじゃなかろかなもし。人が集まれば、町が潤い、お百姓や職人さんの暮らしが良くなる。私が夢見るのはそういうことぞなもし。」という想いであった。道後鉄道を起こし、客の誘致をはかった。道後公園に日本庭園を造った。如矢の情熱と気概が町民を動かし、大事業を成し遂げた。


円満

821年に建立された浄土宗の寺。地蔵堂には、3.67mの巨大な座り地蔵がある。道後温泉に来浴した行基菩薩が、温泉の霊効に感じ入り、クスの大木に彫ったといわれている。湯が止まった時、一心に祈願したところ湯が湧き出たことから「湯の大地蔵尊」と呼ばれている。湯之町道後を守る「火除け地蔵」として町民から親しまれている。

  

★道後温泉開運めぐり

「俳句絵馬」「恋みくじ」「お結び玉」の開運アイテムがある。

  


宝厳寺

一遍上人生誕の地。伊予の国主・河野通広の三男。本堂には、113.9cmの「一遍上人木像」が安置されていたが、火災で焼失した。一遍上人は、民衆救済の全国遊行に向い、踊念仏にて庶民に信仰を広めた。宝厳寺までの上人坂の両側には、遊郭があった。

★一遍上人の歌碑

"旅衣 木のねかやのねいつくにか 見のすてられぬところあるへき"

★正岡子規の句碑

明治28年 子規と漱石は道後に遊び 散策集で「松ヶ枝町を過ぎて宝厳寺に詣づ」とある。

 "色里や 十歩はなれて 秋の風"

★斉藤茂吉の歌碑

昭和11年参拝。アララギ派歌人・精神科医。子規を崇拝する。東京根岸の子規庵で営まれた子規33回忌歌会で、子規の従妹にあたる永井ふさ子と出会う。

"あかあかと 一本の道通りたり 霊剋るわが命かな"

★遊郭の名残

松ヶ枝町上人坂は遊郭跡。明治7年~昭和31年まで明治政府公認の遊郭が31あった。


伊佐爾波神社

京都の石清水神社・大分の宇佐神社と並ぶ 日本三大八幡造りの一つ。900年頃建立。14c前半に湯築城築城に際して、今の場所へ移築する。祭神は、仲哀天皇・神功皇后・応神天皇。現在の社殿は、江戸時代に建てられたもの。第三代松山藩主松平定長が、江戸城での流鏑馬に成功したお礼に建て替えた。国の重要文化財。

  

★算 額

和算の絵馬(和算の問題・解法・回答が書かれている)のこと。和算を修めるものが、自己を磨く方法として奉納された。江戸時代の算額が23枚ある。

★絵 馬

・赤穂浪士 :元禄15年12月15日 赤穂浪士四十七士が討ち入りを果たす。松山藩江戸藩邸では、大石主税他9名をお預かりし、切腹・介錯を仰せつかる。

・日露戦争 :松山歩兵22連隊の隊員として旅順攻撃に参戦し、帰還した12名が奉納した。18門の巨砲のうち6門は、今治の小島から旅順へ運搬された。

 


ふなや

鮒屋旅館は、江戸時代に開業。360年の歴史がある。漱石・子規など松山の文人ゆかりの宿として親しまれてきた。皇室・皇族方が松山にお越しの際には、必ずお泊りになる。

 

ふなやの庭園にある足湯。宮島のもみじ谷を模したお庭は、手入れが行き届いており美しい。

 

ふなやの裏門。趣のある檜皮葺屋根。2015.9 葺き替え工事が行われた。

★漱石の句碑

"はじめての 鮒屋泊まりを しぐれけり"

 

★昭和天皇がお泊りになった部屋

特別室として再現し、皇族方のお写真を展示している。


湯神社

大国主命と少彦名命を祀る。地震で湯が止まったことがあり、その都度「湯祈祷」が行われる。正月には、火除開運を祈願して「初子祭」が行われる。

★中嶋神社

製菓の祖神 田道間守命(たじまもりのみこと) を祀る。我が国の菓業がまだ未開の頃、果実をそのまま使ったり、果汁を絞って製菓上の必要品としていた。「橘」は、我国の密柑の原種。


空の散歩

約20mの上空から、道後温泉本館や道後周辺の景観が楽しめます。道後温泉横の冠山駐車場にあります。夜は、フットライトのロマンチックなあかりの中で空中散歩気分を味わってください。

  

プリンタ用画面
投票数:159 平均点:6.23
前
日本最古の温泉・道後温泉
カテゴリートップ
「道後温泉」エリア
次
2.湯築城跡(道後公園)コース

会の紹介 | お問合せ及びアンケート | Q&A | おいでんか通信 | 個人情報保護ポリシー | サイトマップ
(連絡先)〒790-0004 松山市大街道3丁目2-46 松山城山ロープウェイ駅舎2階 TEL/089-935-5711 FAX/089-921-0286
Copyright 松山観光ボランティアガイドの会. All rights reserved.