俳句海道(瀬戸内はいくるーず)を尋ねる。



      「大船や波あたたかに鴎浮く」(美術館前)

                            
 

      軍 港
    「呉かあらぬ春の裾山灯をともす」(歴史の見える丘)

           

  

    従軍の人を送る   
  「陽炎に心許すな草枕」(アレイからすこじま)

 

                      

 

 正岡子規が1895(明治28)年日清戦争の従軍記者として赴くべく広島で待機していたが、新聞「日本」の上司・記者古嶋一雄が海軍従軍記者とし軍艦松島で台湾へ出航するのを見送った際、船から日暮れの休山を見て詠んだ「呉かあらぬ春の裾山灯をともす」は「歴史が見える丘」に句碑が建立されており、子規の筆跡が写し出されている(明治28年3月9日)。

 従軍の人を送ると題して読んだ「陽炎に心許すな草枕」は高さ1m幅1.6m国会議事堂に
使われた地元倉橋島産の桜御影に子規の真筆を写して刻んだ。句碑はアレイからすこじま、2011年7月17日建立



中島
   「薯蕷積んで中島船の来りけり」(明治28年、散策集より)

明治28年10月7日今出の霽月を訪ねる。

 

 

興居島

子規が興居島を詠んだ句は
   「鶏なくや小富士の麓桃の花」(明治28年、句碑は泊公民館)

       明治頃、桃は島の名産のひとつでした。
   
   「興居嶋へ魚舟いそぐ吹雪哉」   (明治25年、句碑は高浜の黒岩口)

 

                                                                          

 


   「雪の間に小富士の風の薫りけり」(明治25年、句碑は松山観光港前)


子規は、明治25年7月15日に高浜虚子宅を訪れ、碧梧桐も
加わって3人が延齢館の雪の間に入り、競吟五題を行った
きにこの句を詠んだそうです。

 

                                                                          


 

  「海晴れて小富士に秋の日くれたり」
 

 

高浜

    「初汐や 松に浪こす 四十島」(明治25年、句碑は黒岩口)

明治25年に作られ、子規の句集「寒山落木」の秋にある。
この明治25年5月に電車が三津から高浜まで延長され、高浜には海水浴客
などのために「延齢館」が建てられた。
子規は碧梧桐や虚子らとたびたび
遊んだという。

 

                                                                               

                                                                                  

 

 

三津

   「湯上がりに三津の肴のなます哉」
明治23年夏の学年休みに帰省した時、東京の常盤会寄宿舎の
文学愛好会・紅葉会の連中が溌々園に集い、その会合で作られた句

      「ああ三つのいけすに魚の踊りけり」
この句も紅葉会の連中が溌々園に集い、その席で作られた。外の

生簀の様子を詠んだもので、「踊る」という表現からボラも生簀に

いたようだ。

  
「この波は須磨へつづくか三津の月」
大阪にいる是空宛ての葉書に書き付けられた句である。やはり

紅葉会で溌々園に集まった際のものと思われる。「源氏物語」の
須磨の巻や藤原業平の須磨の月見を連想させる。

      「初汐や帆柱並ぶ垣の外」
三津の溌々園の部屋の窓から林立する舟の帆柱が見えて、
いかにも賑やかな三津の港の様子をとらえた句。

      「夕映えや見えて?渡り鳥」
この句を子規が詠んで静渓が「発句というものはそんなに
いうのかな、面白いものじゃ」と言ったと伝えられている。
その日は生憎の雨と記録されているが、この句からすると

夕方から日が差し始めたことが伺える。

      「はね鯛を取りて押さえて沖鱠」

明治25年7月、子規は夏休みに漱石と一緒に汽車で東京
を発ち、京都に遊んだ。子規は大阪の是空を訪ねた後松山
へ。三津の溌々園で虚子・碧梧堂と句会を行っている
時に
作られた句だろう。膾(なます)は魚を塩と酢でしめた料理。
沖で獲れた鯛をすぐその場で膾にして食べた様に新鮮だと
いう句。

 「鱗ちる雑魚場のあとや夏の月」
明治25年8月半ばに、岡山から漱石が松山の子規を訪ねて
来た。松山鮨を虚子と3人で食べる。
三津の魚市場を散策した際に詠んだものだろう。
子規はこの年、秘かに東大をやめて文学で身を立てようと決心
し始めていた。漱石はそれを知っていて思い留めさせようと岡山
から来たのだ。

      「貝とりの沙島へつづく潮干哉」 

明治25年夏の句。子規はしばしば三津浜で足を水につけて
太陽を浴びる療養をした。その沖に干潮の時に姿を現す島が
あって、地元の人は沙島と呼んでいた。句によれば、そこで貝
が獲れたということが想像される。

      「堀川の満干のあとや蓼の花」 

明治25年夏の句。伊予鉄三津駅を降り、海へ向かって続く
住吉町の道は昔(電車みち)と呼ばれ、港まで鉄道が敷かれ
ていたそうだ。その三津内港沿いは砂浜で松が生えていと伝え
られている。そのあたりを堀川と呼んでいた。

      「国なまり故郷千里の風かをる」
明治26年の句。前年に子規は母と妹を東京に呼び寄せた。
奨学金の辞退を常盤会に申し入れ、「日本」新聞社で働き
始めた。この時は松山に一度も帰っていない。

      「秋風や高井のていれぎ三津の鯛」 

明治28年の句。この年、日清戦争の戦地、中国からの帰路
子規は大喀血する。8月24日、療養のため松山に帰省し、
二番町の夏目漱石の下宿の一階座敷に52日間寄宿した。
連日句会を催した時の作だろう。

      「のどかさや少しくねりて松縄手」 

明治28年の句。子規は帰郷中、松風会の面々を指導する傍ら、
柳原極堂や漱石らと石手寺・道後・御幸寺山などへ吟行に出か
けている。
三津浜にもこの時、行ったものか。松縄手とは三津浜街道の内
三津浜厳島神社から三本柳までの間の呼び名で、当時松の
並木が続いていたそうだ。
 

   「海晴れて小富士に秋の日くれたり」
明治28年の句。小富士は興居島の山を指す。小さく秀麗な
姿が伊予小富士と呼ばせた。
秋晴れの青空と海の蒼との中に、陰濃い緑のくっきりとした
島の姿が見えていたが、いつの間にか夕暮れの帳の中に
溶け込んでしまうという句。

  「酒あり飯あり十有一人秋の暮」
明治28年10月18日、子規は東京に帰ることになる。
松山の松風会の面々が見送り、三津で送別の宴を張る。
前日も松山で芸妓小万を呼んで送別会を開いた。
別れを惜しむ11人の盛んな宴の様子が伺える。


      「十一人一人となりて秋の暮」

明治28年10月18日子規は、上京のため三津久保田回漕店
で船待ちをしていた。極堂ら10名が見送りに来たが、この日は
出航が遅れ、見送り人は終列車で帰った。子規は、その時の
心境を十一人一人になりて秋の暮」と詠んだ。翌早朝船に乗り、
宇品の港に着く。あと奈良に遊ぶ。
「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」10月末、根岸の家に到着。
それから以降子規は松山に帰っていない。その間に鴎外は
小倉に転勤、漱石はロンドンへ出発、永遠の別れとなる。

 

                         

 

 

 

延齢館

延齢館は、海水浴に来た人などのための、食事や休憩のできる
納涼席のような施設だったそうです。

明治37年、高浜築港の折に高浜小僧坂と共にたくなってしまった。
漱石もこの地をよく訪れていたようです。小説「坊ちゃん」の
発案の地との説もあります。

 

                                             

                                           

 

END

 

 

 

 

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